鞘鳴り2

今度出る本だがすでに編集段階(校正刷り)に入っているらしい。今月中にはゲラが届くだろう。

鞘鳴りなんだけど(ボールペンをカチカチは余計だったスンマセン)、やはり、「小夜嵐」「鞘鳴り」などの言葉選びは優れている。「幾とせ耐へて」もよい。だが後は陳腐だ。

「小夜嵐」、そんなに古い言葉ではない。初出は肖柏か。つまりすでに戦国時代に入っている。

「鞘鳴り」も本来は和歌に使われる言葉ではない。つまり全体から感じられるのは言葉遣いが、和歌的ではないか、和歌としても安土桃山から江戸初期の雰囲気が感じられるということだ。

辞世の歌というものは、吉田松陰の歌のように、即興であるべきだと私は思っている。何ヶ月も前から入念に用意しておくものではない。即興で、無様でない歌を詠むには普段詠みなれていなくてはならない。しかしそれを三島由紀夫に要求するのは酷だ。彼はやはり小説家だったからああいう形で辞世を用意したのであり、そうしてみたときやはりあの歌は歌人の歌ではなく小説家の詠んだ歌なのである。

歌人の歌だからみな、即興で、あざとさがなく、フィクションがなく、マンガではない、というわけではない。ただ私の中では歌を詠むとは、あざとさやマンガ的要素を削ぎ落として、自分の中の嫌味や雑味をすべて捨てて、ある状況下で自分が何を感じたか、自分の無意識をそのままありのまま掘り起こすことだから、いかに美麗で、大和言葉として完成度が高いとしても、それはそのままで和歌となるとは思っていない。わざと和歌を、古代人の言葉を使うのは修辞のためというよりは、精神を古代人に近づけることで、現代人の心を捨てるためでもある。
そういう意味では吉田松陰の辞世の歌はほんものの和歌だし、三島由紀夫の歌は和歌の形をした何か別のものであり、さらにいえば三島由紀夫の自決自体が、彼の自作自演のショーである、ということになる。

猫も見て 犬にもわかる ものならば 人も神にぞ 頼るべきなる

犬や猫や猿は神など信じていない。彼らに信仰心というものがあるのであれば、人の信じる神というものにも、何か根拠がありそうだが、というような意味。

いきがたく たへがたきこの よのなかに などうたをよみ のこすべきかは

べきかは、べきなる、のこさむとする、つたへむとする、のちにつたへむ。

かみをみし ひとはひとりも あらなくに かみてふものを かたるおろかさ
愚かしき 人てふものは 愚かなる 神のまにまに かたどられけり
人の世は 神のみよより ふるからむ 人あらざれば 神もなからむ
うたをよむ 時こそわれは すくはるれ 我は歌詠む ものにしぞあれば
いたづらに このよを生きて 歌のみぞ このよにのこす かひありしものは
歌詠みと 生まれつるには あらねども 歌詠みとして 死なむとぞおもふ

悪くないんだけど、酒を飲まないと歌が出てこないのは困ったものである。深酒をすると今でもこのくらいのものはでてくる。しらふで歌を詠む練習をすべきか。しかし無意識で詠んだ歌が良い歌だとすれば今のままでもよいのかもしれぬ。最近は深酒をすると疲れるので軽くしか飲まなくなった。