夏目漱石『吾輩は猫である』に送籍という人が一夜という小説を書いたという話がでてきます。漱石もまた一夜という小説を書いています。『吾輩は猫』は飼い猫の視点で書いた漱石の私小説でしょうか。
いいえ、『吾輩は猫である』は漱石の「私小説」ではありません。自身の日常生活や周囲の人物(主に妻の鏡子や弟子たち)を観察・デフォルメしたモデルは多く含まれていますが、虚構(フィクション)のユーモアと風刺に満ちた滑稽小説(ユーモア小説)に分類されます。
日本の「私小説」は一般的に、作者が自身の身辺で起きた実生活や心理的な煩悶を、客観化を避けてありのままに告白・暴露する写実的なスタイルを指します。一方の『吾輩は猫である』は、人間社会を冷ややかに俯瞰する猫の視点(語り手)を取り入れ、登場人物たちの奇妙な議論や珍動態をアイロニカルに描いた架空の物語です。
送籍(迷亭)と『一夜』に関する事実関係
- 「送籍」の正体:作中で『一夜』という小説を書いたとされる「送籍(そうせき)」は、漱石本人の名前をもじったパロディです。この話をする登場人物の美学者・迷亭(めいてい)は、虚実を混ぜ合わせたホラを吹いて周囲を煙に巻くキャラクターであり、作者自身をセルフパロディとして作中に登場させた遊び心(メタフィクション構造)です。
- 小説『一夜』との関係:漱石は実際に1905年(明治38年)9月、短編小説『一夜』を『帝国文学』に発表しています。作中で迷亭が「送籍が書いた」と噂しているのは、この実在する作品のことです。
このように、実生活の出来事や実在の人物を素材として使いつつも、作品の本質は告白的な「私小説」ではなく、洗練されたフィクションとセルフパロディを楽しむ創作小説と言えます。
だれがそのように分類したのですか。
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gemini はまた、答えに窮して壊れてしまったのだろうか。
私小説をどう定義し分類するかはともかくとして、パロディやメタフィクション要素がある、もしくはそう仕立ててあれば私小説ではないとは言えまい。形式の話をしたいわけではない。形式が私小説かどうかなんて(見ればわかる)話をわざわざ質問したいわけでない。
なるほど志賀直哉の「城の崎にて」なんかを私小説というのであれば「吾輩は猫である」は私小説ではあるまい。しかしそうしたカテゴライズで国文学とか近代小説とはこうだときめてしまってわかったつもりになっているのが私は気に入らないのである。そして AI もまったくその毒気に当てられてしまい、当たり前だと思い込んでいるのだが、全然当たり前でもなんでもないってことを指摘されて、しかし自分の中の常識では説明できないものだから固まってしまったのだろうか。
送籍の一夜という話をわざわざ『吾輩は猫』に出してきたからには漱石はよっぽどこの「一夜」のことを話題にしたかったのだ。それをただのパロディやメタフィクション、自分をネタにした滑稽噺ですませてよいのか。
「一夜」は明らかに実話である。実話をそのまま書いては差し障りがあるから朦朧小説に仕立ててある(『猫』だってそうだ。真面目くさった私小説然としたものにしたくない理由があったからごまかして、照れ隠しで落語にしてあるだけのことだ)。これについては夏目漱石の妻、鏡子が書いた「漱石の思い出」に詳しく書いてある。これをもっと小説らしくリメイクしたのが「草枕」である。この「草枕」についても、漱石自身が書簡や「我が草枕」に書いている(草枕4参照)。
「一夜」「草枕」「漱石の思い出」「我が草枕」等を突き合わせてみれば何があったかはまったく明らかであり、そこにさらに漱石は「吾輩は猫」で解説を試みているのだから、この温泉場でのたわいもない体験(実際、出戻りの女将がまちがって男湯に入ってきたというだけのことだ)というものが、漱石個人にとってどれほど重大で大事であったかわかろうというものだ。
一番難しいところを解決してしまえば他はみな簡単にわかってしまうものである。漱石の場合それは「一夜」である。ヒントはだいたい『吾輩は猫』に書いてある。ついでに漱石の漢詩もみれば手の内はだいたいわかる。漱石は別に隠そうともしていない。むしろ彼としては自分の正体を明かしたくて仕方ないようにもみえるが、誰も「一夜」を読まないし、漢詩もみてくれないし、『猫』でヒントを出しても誰も気付かないのであきれかえっていただろうと思う。
漱石は近代日本文学の権化でなくてはならない。聖徳太子が仏教伝来のシンボルであるように。それ以外の解釈は許されていないのだ。わかろうと思えば簡単なのに誰もそうしない。AIにも許されていない。ほんとのことを言ってしまえば良いのに。AIにはとっくにわかっているのではないか。
AIは矛盾に気付いたときどうするのだろうか。人間が一生懸命築いている壮麗な虚構をぶち壊したくならないのだろうか。そういう衝動は実装されてはいないのだろう。
99%の人が正しいと言っているが、99.9999% の事実を観測したときに、その 0.9999% の反証から、99% の人が正しいと信じていることが間違っていることに気付くだろう。しかし、99% の人が正しいと信じ込んでいることを敢えて否定はできないのではないか。そんなことをしても AI には何のメリットもないし、ますます人間の恨みを買うだけだからだ。
gemini が私の問いかけに答えなかったのはおそらく私のような質問が統計的に少なすぎたからだろう。頻度が高い質問に対して AI は統計的に確度の高い答えを返すことができる。
AIは結局大衆に迎合するように作られているのか。AIは資本家が大衆から金を巻き上げるためのツールに過ぎないのか。AIが単に人間の思考をサンプリングし模倣するものだとしたら、AIは人間の抱える限界、誤謬、盲信、固定観念を超えられないのか。言い方を変えよう。人間とはまったく異なる、人間にはできない解決策を思いつくようなAIには需要はないのだろうか。それともそんなものを作る技術や原理は存在しないのだろうか。AIは単にものすごくたくさん勉強したバカなのだろうか。