広告を減らせばアクセスは増えるだろう

socialakiba.com の自動広告と自動最適化を辞めた。ずっと読みやすくなった。アクセスもずっと増えた気がする。1日目なのでまだ結果ははっきり見えていないが。

tanaka0903.net はもともとそんな広告を入れてない(adsense は入れられない)ので大差ない。

私の場合はたぶん adsense による収益化よりも、kenp の収入のほうがずっと大事だ。エウメネスというコンテンツがより読みやすくなったほうが効果的かもしれない。そういうことは誰も教えてくれない。google がアドバイスしてくれるはずもない。

収益化

テレビがなんであんなにくだらないかといえば収益化しなくてはならないからだ。逆に言えばどんなにくだらないことでも収益化できるのであればテレビはやるし、youtubeだって同じことだ。googleは全部わかってそれをやってるし、microsoft はもっと前からまったく無節操にそうしている。世の中収益化し収益を最大化させることを目的に作られていくから、どんどんくだらなくなり、くだらないのにそれが世の中の主流になる。もちろんそれを疑問に思わない人もいるがそれはその人が多数派だからだろう。資本家だって多数派を相手にしたほうが儲かるからそうしているだけのことだ。

google analytics など見ていると最初はわーっとアクセスしてくるが変化が無いともう見にこなくなる。それはそれで当たり前の反応だ。私のところには日本かアメリカから1日にコンスタントに5人か10人くらいアクティブユーザーが来ている。固定客なのか一見なのかはわからん。こうしたのがおそらくふつうのブログのアクセスというやつで、まったく収益化出来ないパターンだと思う。

収益化するにはコンスタントに不特定多数が検索してくるネタが必要で、しかも検索エンジンで上位にいなくてはならない(いやむしろ毎日更新すべきだ、更新頻度だけが命だという考えもあるかもしれない)。

本人が好きならともかく好きでもないのにアクセスを稼ごうとすれば、ある程度のあざとさが必要なのだが、私にはそれがなかなか抵抗があってできない。

要するに簡単に言えば女子高生とか女子大生とかスポーツ、ギャンブル、有名人のゴシップ、グルメとかエロとかだ。しかし仮にそれで収益化できたとして1日100円程度、年に5万円稼いだからなんだというのだ。そんなはした金のために、実にバカげている。

つまり収益化などというものはバカげているのだ。しかしそうした社会の仕組みも adsense で遊んでみて具体的に理解できたわけでそれはそれで自分の役にたってはいる。

あざといと言えばたとえば猫である。こういうふうにやたらと猫を描いたのは歌川国芳だっただろうか。あるいは、

あるいは

こうした絵を描くこともできるのだが、実にあざとい。単なる商業芸術だ。しかし川瀬巴水だってそれはわかったうえで描いてたはずだ。人気が出るならやっても良いが、そもそも人気など出るのだろうか。そんな簡単ではあるまい。

審査落ち

また審査に落ちた。前回落ちた理由とは少し違っているのだが、おそらく落ちた一番の理由はコンテンツを減らしすぎたせいだろう。

有用性の低いコンテンツ

お客様のサイトは、弊社の定めるサイト運営者ネットワークのご利用要件を満たしていないと判断されました。詳しくは、以下のリンク先の情報をご参照ください。

今公開しているのは「アルプスの少女デーテ」と森鴎外が欧州遊学時に書いた漢文の日記「航西日記」、それと私自身が書いた雑記のごく一部。こうしたものがポリシー違反で、書けないというのであれば、私としてもわざわざ広告を載せたいとも思わないし、そもそもこういうコンテンツに広告を載せたい人もおらんとは思う。

前回審査を受けたときはコンテンツの分量としてはかなりあったが、いろいろ問題のある発言もあったのだろう。

ともかく、このサイトは当分の間、広告を気にせず自分の書きたいことを好きなように書くサイトってことにするしかない。socialakiba.com へのリンクやリダイレクトはすでにもうやっていてこれもいまさら辞めるわけにはいかん。だから、今できることは現状維持しかない。

もし私のブログを収益化したければそれ用のサブドメインを socialakiba.com に追加するかもしれないが、それは今とはまったく違う状況、つまり、なんかの理由で私のブログを読みたいという需要が発生した場合であり、それは今ではない。

「有用性が低いコンテンツ」とみなされたもうひとつの理由は tanaka0903.net のコンテンツが長期間に渡る雑記であって、テーマ性が見いだせないということあるのかもしれない。「浅草アリゾナで昼食」のように、永井荷風のような著名人ならともかく私のような無名の人間の日常茶飯や思いつきを「断腸亭日乗」のように綴っても価値がないとみなされても仕方ない。

「有用性が低いコンテンツ」とはつまり「SEO的対策がまったくなされていないコンテンツ」、adsense 的に言えば「インプレッションが弱いサイト構成」という意味であり、そういうコンテンツを書き、そういうサイトを作りたければ adsense に頼るなということになろう。

国除外

待てど暮らせど、tanaka0903.net は adsense の審査が通らない。どこかの政府のブラックリストに乗ってしまったのだろうか。こうなりゃ仕方ない。じっくりと審査してもらいましょうか。

知人のサイトの adsense 登録を手伝ったのだが、1日半で登録されてしまった。いろいろすでに google の顧客になっていたせいかもしれない。

google analytics だが、singapore と urumqi からのアクセスがひどい。これを除外するにはフィルターで、ディメンジョンを国、正規表現に一致しない、China|Singapore などとすると良いらしい。アリババとかテンセントあたりがなんかクロールとかスクレイプとかやっているらしい。

市町村で Singapore|Urumqi でもいけた。中国の都市からのアクセスはいずれも滞在時間が短いので、やはり中国全体をはじいても問題はなさそう。

Sumida City からのアクセス、回数はそれほどでもないが滞在時間が長い(笑)これは監視対象になっている。台東区ではなくて墨田区からかー。

自分の自宅と職場からのアクセス時間は当然ながら長い。

サチコに登録

この3年ほどずっと本の原稿を書いていたので、執筆欲とでもいうものがそちらですべて満たされてしまって、ブログを更新しようという気持ちがほとんどおきなかった。その上ツイッターなどというダラダラとつぶやきを垂れ流すツールもあったから、なおさらブログという形で書く気持ちがおきなかった。さらにいえば私の場合、ブログは日記のように毎日コンスタントに書くのでなく、書きたい衝動にまかせてある時期に、欲求のはけ口のようにまとめて書いていたから、よけいにブログは書かなくなっていた。

それでまあ今後はここでいろいろ書いていこうと思っているのだがまだ google search console で xml sitemap も URL検査もしてなかったから登録しておいた。

こちらでブログをいじっているだけでも adsense に影響が出ることはわかった。同じことは楽天アフィリエイトなどでも言えるのであって、そうやって自作自演で収益化することは規約違反でもあるし、そもそもなんの意味もない。赤の他人から金をもらってこそのアフィリエイトではないか。

adsense の予測収益額は 1円が2円となり0円に戻ったり、6円が10円になって8円に戻ったり、まるで水前寺清子のマーチのようだ。一喜一憂しても仕方ない。

tanaka0903.net がなかなか adsense の審査が通らないのは微妙にストレスである。adsense ならば無茶な広告をぶっこんでくることもないし、ブランドイメージを守れることはわかったので、日本語サイトつまり tanaka0903.net にも広告を入れてどれくらい収益化できるものなのか早く試したいのだが、ずっとじらされている。

今度出す本は秋には出るだろう。遅くとも年内に出るだろう。そこには論語のことなども多少書いたのだが、この、ユヴァル・ノア・ハラリの時代に論語を再説してみるのは少しは意味があるだろう。呉智英にしろ山本七平にしろ孔子や儒教を根っこで尊敬しているので、どこか肯定的であり、冷静に客観的に述べてはいない。苫米地英人などは単に認知科学とか脳科学などというそれっぽい理屈を振り回して伝統的な解釈を頭ごなしに否定しその真逆の主張をして受けを狙っているが、彼の根っこにあるのは単に戦後民主主義的左翼思想に過ぎまい。

宮崎市定はさすがに学者らしいまともな研究をしているが、なにしろもう古い。

別に論語とか仏教の話がしたかったわけではないのだが、本居宣長について書いていると宣長は仏教と儒教という二連星に挟まれその強い重力場の中で国学というものを作った人だから、その二連星の影響力というものに言及しないわけにはいかなかった。私は今では宣長は単なる仏教徒であり、儒教から逃れるために国学にすがっただけだと思っている。これが次に出す本の核心である。宣長によって国学の自立は完成しなかった。篤胤のようなものが出て、国学をさらに儒教や仏教から遠ざけようとしたがそれは国学を単なるオカルトにしただけだった。国学はいまだこの混迷から抜け出ていない。宣長を凌駕したものなどまだ出ていないのだ。宣長には限界があったが、その宣長を、300年後の我々はまだ超えられていない。

私は孔子は単にことわざ格言や詩のコレクターでその解釈をする人だったと思っている。人はみな格言が好きだ。格言を知ってなにかを知ったつもりになる。それが論語の本質であろう。

それはそうと生成AIの作る絵はすごい。日進月歩でどうなるかわからん。去年の今頃と比べてもすごく進化している。しかし自分が望む絵を出すために必死でAIにプロンプトで指示しているところを想像すると実に馬鹿らしくもある。昔のマンガやセルアニメをAIで実写化するなど、すぐに陳腐化するのだろう。

A Sketch of Asakusa だが、だいぶ方向性が定まってきた。Just another Asakusa guide、単なる浅草観光ガイドではない。かなり辛辣なことを書いているが、英文なので、日本人で気付いて文句を言う人はいるまいと今はたかをくくっている。英文をまた日本語に戻すとこんな感じだ。

Googleマップのレビューが示す通り、この店は恐ろしいほど評判が悪い。観光客、特に外国人に対して明確な敵意を抱いているのは明白だ。商売をする気もほとんどないようで、おもてなしの精神など皆無である。料理に関しては可もなく不可もなく、といったところだ。

私は大酒飲みなので、ここに来ても大抵餃子一皿と瓶ビール(小)しか頼まない。単にそれ以外の酒がないからだ。滞在時間はわずか15分足らず。私にとっては、ほんの気まぐれに立ち寄って少し時間を潰すだけの場所に過ぎない。餃子が美味いかと聞かれれば、まあ美味い方かもしれない。店内は撮影厳禁なので、私も決して写真は撮らない。

自分以外の客を見たことがないのだが、それは私が平日の夕方遅くにしか訪れないからだろう。週末になればそれなりに混むはずだ。それにしても、この店の最大の特徴は、資本主義の匂いが全くしないことだ。

もちろん浅草には他に選べる店などごまんとあるが、あえてこの店に足を運ぶ唯一の理由は、その素っ気ない雰囲気がいかにも浅草らしいからに他ならない。

分かりやすく言えば、この店はマカロニ・ウェスタンやスター・ウォーズに出てくるような、愛想が悪く荒んだ居心地の悪い酒場に浸りたい」という、私の物好きな欲求を満たしてくれるのだ。

冷笑的と言われるかもしれないが、私は「食堂みずぐち」や「ヨシカミ」のような人気店に行列を作り、狭い席に押し込められて「B級グルメ」をありがたがるフリをするのが大嫌いだ。それよりも、ガラガラに空いていて、思い立った時にふらっと入れて、料理がすぐに出てきて、サッと次の店へハシゴできるような店の方がいい。

この程度のことは google maps のレビューにはいくらでもあるのだが、彼らは匿名なので書き放題だ。

或いはこういう記事も書いた。

そこは、まるでNHKのドラマからそのまま飛び出してきたかのように完璧な、定食屋兼居酒屋だ。スタジオのセットと見紛うほどで、老若男女を問わず客もスタッフも、まるで台本通りに配置された舞台俳優であるかのように思えてくる。あまりにも自然でありながら、それでいて巧妙に演出されているため、街からふらりと迷い込んできたエキストラにでもなったかのような錯覚に陥る。要するに、まるで50年前の日本にタイムスリップしたかのような感覚を味わわせてくれるのだ。

40年前に私が初めて東京に引っ越してきた頃、こうしたNHKのドラマを思わせるような店はどこにでもあった。しかし、今はどうだろうか。おそらく浅草のような場所にしか残っていないのかもしれない。

つい先日、横須賀でこれと驚くほどよく似た街を見かけた。そこは「三崎通り商店街」という半ば寂れたアーケード街で、大正時代から続く古い食堂や蕎麦屋が今も数軒営業していた。しかし「千束通り商店街」は、人口密度が高く、浅草という一大観光拠点の周辺部に位置しているおかげで、戦後の昭和の面影を残したまま今日まで生き残ることができたのだ。

墨田区には江戸東京博物館があり、大阪には国立民族学博物館がある。近い将来、千束通りや吉原の裏路地のような街並みも、そうした博物館の中で永久に保存されることになるのではないかと思わずにはいられない。

こういう観光ガイドのフリをしたヘンテコなエッセイを書く人はあまりいないと思うので、それなりの意義はあるのではないかと思う。