香川景樹と閑院宮家

丸谷才一、鹿島茂、三浦雅士「文学全集を立ちあげる」に、香川景樹を閑院宮家が庇護している、という三浦雅士の発言がある。これはおそらく、景樹が妙法院宮真仁法親王(閑院宮家の皇子)の歌会で、妙法院宮が出した「いつはりの夕」と言う題に、

来(こ)むと言(い)ふを 待(ま)たじと言(い)ひし この暮(く)れの 我(わ)がいつはりも 苦(くる)しかりけり

と即興で返して一座を驚嘆させたという逸話(山本嘉将『香川景樹論』)によるのだろう。妙法院宮真仁法親王は光格天皇の異母兄である。この二人の父は閑院宮典仁親王であって、典仁親王が香川景樹を贔屓にしていたのはほぼ間違いない。そして光格、仁孝、孝明、明治天皇が、従来の堂上和歌、御所伝授から外れて、香川景樹の影響下にあったと言う仮説も十分成り立ち得る。

真仁法親王はもともとは小沢蘆庵の門人(?)であったらしい。蘆庵が冷泉為村に破門され太秦に移り住んでいたころ、真仁法親王は蘆庵の家を訪ねているという。景樹と蘆庵は懇意であったから、それで景樹は真仁法親王の歌会にも呼ばれたのであろう。

明治天皇の和歌指南役であった三条西季知などは堂上であったと思うが、堂上の間でもすでに桂園派が広まっていたということはあり得なくもない。

列聖全集第11巻、第12巻辺りに御製が収められているから、今度よく見てみよう。

なお尊号一件だが、典仁親王に太上天皇号を与えないと松平定信が決定した理由は、定信が朱子学に凝り固まっていたからではなく、おそらくは後桜町上皇と閑院宮家との確執のためであろう。典仁親王が上皇になれば後桜町上皇と対等ということになり、それが後桜町上皇には耐え難かったのだろう。傍系の天皇が即位してその父に院号を与える例はあるが、与えなかった例は(太上天皇号の制度が出来て以来)無いと言ってよい。定信がそれを知らぬはずがない。それ以外に定信がこだわらねばならぬ理由が見つからない。定信がすべての責任を負う形で、老中の職を辞したとみるべきだ。

ウィキペディアには後桜町上皇が

「御代長久が第一の孝行」と言って光格天皇を諭したことは有名である。このように朝廷の権威向上に努め、後の尊皇思想、明治維新への端緒を作った光格天皇の良き補佐を務めたことから、しばしば「国母」といわれる。

などと書かれているが、こんなことはまったく信用できない。典仁親王の足を引っ張ったのは後桜町上皇その人であろう。後桜町上皇に恨みがあったのは確かだが、彼女がなぜそこまでごねられたか。おそらく彼女は皇室財産を相続する正統な権利を持っていたからだろう。その財産を処分するなどと言われたら大変なことになる。或いは典仁親王と後桜町上皇の間で財産分割が行われることになり、それが嫌だったのかも。

闊歩する漱石

丸谷才一の「闊歩する漱石」が kindle unlimited だったので読んでみたのだが、これはひどい本である。

良い本はその人の悪いところがわかりにくいが、悪い本を読むとその人の本性が如実に見える。

まず、漱石とタイトルに謳いながら、漱石のことはほとんど書いてない。これが単に、よくある丸谷才一のエッセイ集であれば、まあそういうもんだろうと全然腹は立たなかっただろうが、漱石の本かと思って読むと、全然関係ないことばかり書いている。

次に、「坊っちゃん」と「三四郎」と「吾輩は猫である」この三つの作品のことしか書いてない。「坊っちゃん」は単なる娯楽小説、落語小説なので、おもしろいっちゃ面白いかもしれないが、別に大の大人が読むようなものではないし、ましてわざわざ論評するようなものでもない。「猫」に至っては

「大和魂やまとだましい! と叫んで日本人が肺病やみのような咳せきをした」
「起し得て突兀とっこつですね」と寒月君がほめる。
「大和魂! と新聞屋が云う。大和魂! と掏摸すりが云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸ドイツで大和魂の芝居をする」
「なるほどこりゃ天然居士てんねんこじ以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。
「東郷大将が大和魂を有もっている。肴屋さかなやの銀さんも大和魂を有っている。詐偽師さぎし、山師やまし、人殺しも大和魂を有っている」
「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」
「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇あった者がない。大和魂はそれ天狗てんぐの類たぐいか」

この箇所だけ原文を丸ごと引用して、この箇所以外にはほとんど何も言及すらしていない。丸谷は、あまりにも左翼思想に凝り固まっているために、それ以外の箇所はまったく見えてもいなし、論じる価値さえ感じないらしい。

おそらくこの本は、出版社から漱石のことを書いた本を書けば売れそうだから書いてくれと言われて、やる気も興味もなくて、適当に書いたというようなものに違いない。あまりにも売れないから unlimited で出したか。「闊歩する漱石」なんなんだよそのタイトル。誰がなんのためにそんなタイトルを付けたのだ。実に人をバカにしている。

amazon のレビューもみてみたが、裏竹秋という人が私と同じようなことを書いて☆1つ付けていた。敬意を表して引用させてもらう。

脱線に継ぐ脱線
Reviewed in Japan on November 14, 2023
小林秀雄と同じ穴の狢で評論失格である。
まったく冒頭の「坊つちやん論」もどこが漱石論なのかというほど、大半が日本と西洋の小説の列記の列記で占められている(!)。穴埋め、水増し。たくさんの蘊蓄を語って結局何も言っていない。
しかも肝腎の、フィールディングに影響を受けたのではないかという説も確たる証拠があるわけではなく、《無意識に作用》だの《頭のどこかで引っかかってゐた》だのフロイドみたいな感想ごときものばかり。
だいたい初めからして《読んでゐない人はゐないし》って、私の友人は『坊つちやん』読んでませんでしたけどね。『フィネガンズ・ウェイク』の箇所はへーって思ったけどさ。

改めて丸谷才一という人がどんな小説家だったかということを考えてみるに彼は敗戦直後の左翼全盛期の日本でその波に乗っかって一過性の作品を書いてその界隈で一定の評価を受けた人、そのあとなぜか国語教育とか国文学に口出ししたけれど、よくよく読んでみると全然間違っていた人、小林秀雄を批判しながら自分も小林秀雄と似たりよったりだった人としか言いようがない(無関係なことを延々と書くという意味では小林秀雄よりひどい)。小林多喜二や葉山嘉樹は歴史に残るかもしれぬが丸谷才一は残るまい(残る必要すらないと思えてきた)。「エホバの顔を避けて」は好きだが、あれも旧約聖書の焼き直し以上のものではないしな。

亭子院歌合2

亭子院歌合 謎すぎる。

左の頭、女六宮、方の親王、御兄人の中務の四の親王、弾正の五の親王

wikipedia を信じるならば、女六宮は宇多上皇の第六皇女、誨子内親王であろう。

歌詠みのほかに、右または左に付いて応援する人がいたらしい。それを方の人、方の親王というのだろう。御兄人の中務の四の親王は敦慶親王、弾正の五の親王は敦固親王として問題あるまい。

亭子院とは主催者の宇多上皇の居宅であると同時にその人そのものの呼び名であったはずだ。

右の頭、女七宮、方の親王、御兄人の上野の八宮、清和貞数の八宮

女七宮は宇多上皇の第七皇女、依子内親王であろう。上野の八宮とは敦実親王、清和貞数の八宮とは、清和天皇の皇子、貞数親王の第八皇子かとも思えるが、貞数親王は清和天皇の第八皇子だったので、貞数親王本人のことだと考えるのが無難だと思う。清和天皇は摂家に極めて冷遇された人だから、貞数親王の皇子だと親王宣下はされていないだろうし、まして第八皇子で親王ということはまずあり得ない。

「御」「院」とあるのは宇多上皇のことであろう。

かくて左方に上の御心よりたりとて、右方の皇子恨みきこえさせたまふと聞こし召して
行き帰り 千鳥鳴くなる はまゆふの 心へだてて 思ふものかは
左も右もこれは合はずなりける

明らかにこれも宇多上皇の歌である。右方の皇子とは敦実親王のことだろう。

敦慶、敦固、敦実は醍醐天皇(敦仁親王)の実母弟であって、当時最も権勢があり、敦実が兄、敦慶敦固に文句を言ったということは普通にあり得るし、それを父の宇多上皇が歌を詠んでなだめたというのも、父子の情愛のうちであった。

しかるに、貞数親王はかなり血が遠い。清和天皇は妃藤原高子によって陽成天皇に譲位させられ、水尾の里に幽閉され、30年前に崩御しており、貞数親王は当時すでに38才と当時としては壮年であったから、かなり遠慮はあったに違いない。

また亭子院歌合は女房の伊勢が日記に書き残したものであり、記憶違いや書き間違い、欠落などが多かったと思う。

宇多上皇の歌はあまり残っていないが醍醐天皇と同じくらいには歌がうまく、かつ即興でいくらでも詠めたらしいことがわかる。

「はまゆふ」は葉が重なり合って育つので、幾重にも重なる意味に使われる。「はまゆふの いく重ねとも 知られざりけり」「はまゆふの 重ねてもなほ」「はまゆふの 百重なす心は 思へども」などなど。はまゆふの葉のように重ね重ね配慮しているよと言いたいわけである。

宣長さん4

『宣長さん』中根道幸、『宣長さん』2、『宣長さん』3、京極派の末裔。

結論として、端的に問題を提起しておこう。宣長さんは、定家、新古今をカンちがいしてはいなかったか、または新古今の行きづまりを打開するための写実ということに無感覚だったのであろう。

多く二条派の目で拾われた定家なのである。

宣長さんの定家観には歪みがある

宣長は定家を崇拝しているが、実は定家を全然理解していないのではないか、という大胆な指摘をしたのはおそらく中根氏が最初だろう。小林秀雄もこの問題について特別には言及していない。

宣長に見えていた藤原定家は、今の私たちが知る定家とはだいぶ違っていたと思う。宣長の時代に定家を見ようとするとまず堂上の二条派というものがあり、その先に室町時代の定家崇拝があり、頓阿があり、定家はそのはるかかなたに霞んで見えていたに違いない。同じことは契沖による定家理解にも言えたのに違いない。

不思議な話だが、契沖や宣長にはかえって、古事記や万葉集のようにもっと遠い過去の世の中のほうが鮮明に見えていた。

宣長は定家を崇拝する割には、定家の歌そのものをほとんど論評していない。定家のこの歌は好きだがこの歌はそれほどでもない、といったような話はしていない。

私には宣長が、俊成定家為家三代の歌の違いについてもわかっていなかったと思っている。

中根氏も指摘しているように宣長は京極為兼を非常に嫌っているのだが、それは宣長が好きな頓阿から最も遠いという意味で嫌いなだけなのだろうと思える。為兼は異風であり、後水尾院も異風である、などと言う。正風とは具体的には頓阿のことを言うのである。私から見るに、宣長は頓阿的なものが正風であり、頓阿から離れれば離れるほど異風だというロジックしか宣長には無いように見えるのだ。

その宣長のロジックでいえば定家の達磨歌などはみな異風であろう。定家と頓阿は全然似ていない。しかし頓阿は定家を崇拝していた。まったく同じ関係が宣長と定家にも言える。

「新古今の行きづまりを打開するための写実ということに無感覚だった」という中根氏の指摘にはしかし用心しなくてはならぬ。中根氏にとって「新古今の行きづまりを打開するための写実」とは為兼の京極派のことであったからだ。

中根氏は宣長が選んだ『古今選』が、定家が選んだ『近代秀歌』などと歌の重複がほとんどない、だから

宣長さんと定家と共通性なし

と判定しているのだが、この視点はまったく正当だし、私もまったく同意見である。宣長と定家の趣味はほとんど重なっておらず、宣長は定家のような歌はまったく詠むことがなく、定家の歌を論じることもない(ごく稀な例はあるがほぼ無いと言って良い)。

宣長は京極派もわからぬ人だが、『後拾遺集』の価値もわからぬ人だ。これらは則ち典型的な、室町二条派の価値観であって、それは江戸時代の契沖まできてそのまま宣長に引き継がれている。もっともいまだに世の中は、『万葉』『古今』『新古今』が最高で、あとは見るに値しないという人ばかりであり、私のように『後拾遺』が最高だなどという人にお目にかかったことはない。

定家の言を金科玉条とし、詠歌を古今独歩とする宣長さんは、何を見ていたのだろう。

私も中根氏とまったく同感である。私以外にそういう感想を持っている人がいて非常に頼もしい。だがしかし中根氏は同時に

写実ゆえ現代において革新、清新と評価される玉葉集を撰した京極為兼 (p. 315)

などという言い方もしていて私はこれには首をかしげざるを得ないのである。さらにみていくと、

宣長さんより七歳年長の小沢蘆庵は堂上重鎮の冷泉為村から破門されたが、ただごと歌を主張、題材、用語とも自由平明、自然の感情を歌うべきだとし、擬古技巧を排する。その影響を受けた香川景樹になると、それを洗練、うるわしくやすらかな調べを眼目とし、その風が一般的になり明治に至るのである。

埋もれていた玉葉・風雅の風だが、明治も半ばになると、佐佐木信綱らの研究で、歌の流れが客観的にとらえられ、中世十三代集のうち、二条派の保守に対する革新の二集と見なおされるようになる。さらに、明治末から大正へかけて、写実が歌の本流ときまると、その評価は抜群の清新の集として定着した。

現代、玉葉と風雅は、その写実、叙景により、中世十三代集中の白眉とするのが通説であるが、折口信夫にいわせれば、短歌の本質は、万葉・古今から、新古今はとびこえて、玉葉・風雅で確立完成し、近代へつづくのだ、とする(『日本文学の発生序説』)。そして、折口は回顧していう、「かう言ふ人(為兼)を忘れたり、知ってゐても、歌の上の悪魔か、外道のやうに罵倒してゐたのは、世の中に、自分で物の価値を見出して行かうとする人のないことが思はれる。」(『短歌論』)

などと書いていて、なんだ、折口信夫の受け売りかと、がっかりする。

釈迢空こと折口信夫は確かに和歌が詠める人であった。しかし私には近代臭がきつすぎて、全然好きになれない。近代歌人らはだれもかれも皆(ごく一部の例外をのぞいて)、昔の和歌も良いが、しかし明治以降の近代文学のほうがそれ以前よりも圧倒的絶対的にすぐれていると信じ込んでいる。佐佐木信綱、萩原朔太郎、みなそうだ。

玉葉・風雅、為兼は写実だからよく、頓阿や宣長は擬古技巧だからダメという決めつけは、宣長のいう為兼は異風だからダメだとするきめつけと何も違わない。まったく同じだ。

宣長には確かに陳腐な歌も多いが、しかし折口信夫の歌に比べれば全然おもしろい。釈迢空の歌がなぜつまらないかといえば写実絶対主義、近代絶対主義という、つい最近西洋から借りてきたものにとらわれていて、歌を詠む心が自由でないからだ。釈迢空らは擬古技巧とやらから逃れて自由になったつもりでいるが、そのまま近現代的写実という謎概念謎価値観に束縛されてしまった。「写実が歌の本流ときまる」などといったい誰がそんなことを決めたのだろう。迷惑だ。論理で説得したいのであれば論理で通してほしい。いきなり戦後とか多数決で決めないでほしい。

そもそも、小沢蘆庵は擬古技巧を捨てたから、自由平明自然になったのではない。蘆庵は堂上とか師授などの徳川時代特有の権威から逃れただけであって、彼の歌は一貫して擬古であった。ここでいう擬古とは古典文法と語彙をあくまでも遵守し、万葉調や狂歌のような逸脱がないという意味だ。近世において和歌を詠むということは、自然ではありえない。必ず人工的、擬古的にならざるを得ない。景樹も同じ意味で擬古であった。和歌は擬古そのもの、古語そのもの、文字の無い時代から続く唯一の日本文芸であり、和歌を詠むということは千年前から続く文芸を千年後まで保守し残すことに他ならぬ。私が勝手にそう言っているのではない。蘆庵も景樹もまったく同じことを言っている。和歌から擬古をのぞけば後には何も残らない。だから近代歌人らの歌はみな空疎なのである。はたして折口は「自分で物の価値を見出して行かうとする人」であったろうか。はなはだ疑問だ。

ついでに少々論じておくが、はたして京極派は写実だろうか。中根氏は玉葉・風雅を

写実の歌が当然となった現代では、貴族趣味の題材がまず目について、一見歴代勅撰やその亜流の、文化修飾にすぎぬ歌とまがうおそれもあるが、再読すれば、独自の複眼で対象(現実)をじっと見ており、ことばがそれについていくのに気づくであろう。p.395

と評している。はてはたしてそうだろうか。京極派の特徴として挙げられるのは、少なくとも私がそうだと思っているのは、いわば幻想、超現実的心象表現の試み、とでも言えるものだと思う。たとえば為兼の

大空に あまねくおほふ 雲の心 国土潤くにつちうるふ 雨降くだすなり

などであろう。これは明らかに雨乞いの歌である。そして実景ではなく心象風景である。また、大和言葉としてはあっても歌語としてはそれまで使われなかったようなことば、たとえば「くものこころ」「くにつち」などを大胆に使うこと、字余りや、漢語、俗語の使用などのルール違反を怖れぬこと、などが特徴と言えよう。いわば没我の境地、三昧境に身を置いて、無意識に、感覚で、巫のお告げのような、シャーマニズム的な歌を詠む。それを京極派というのではないか。こうしたものを宣長が嫌う気持ちはわからぬでもない。宣長が唯一価値をみとめるのは紀貫之の屏風歌のような、最高に陳腐な様式美、「貴族趣味」、王朝趣味丸出しの御座成り芸なのだから(定家が詠む前衛的達磨歌も本来宣長の趣味から最も遠いものであるはずだが、定家は平安王朝の残照の中に完全にうずもれて枯淡化してしまったので、その尖った達磨感というかダダイズムが麻痺してしまっている)。ただの写生であれば宣長が嫌う意味もないと思う。こうしたスーパーリアルな歌は京極派が絶えた後も、冷泉派の正徹などが詠んでいた。

で、結局、近現代の写生絶対主義者らは、京極派すらまともに理解できていないんじゃないかと、私には思えるし、そもそも、和歌を理解できている人がほんとうにいるのかどうかとても不安になる。

中根氏には

言々句々盛唐詩に典拠のないものは用いないとの擬古主義・形式主義、とかく千篇一律の模擬剽窃となる蘐園詩文に対しては、少し後の天明になると、すでに、

蓋し、復古の名は是なるに似て、其の実は大に非なり。奈(いか)んとなれば、其のする所、専ら唐人を剽窃して、句ごとに比し、字ごとに擬し、目前の景を捨てて、腐爛の辞を摭(ひろ)ひ、公然として復古とよみ、中晩(唐)以下を視ること讐敵のごとく、票然として、別に高華の工夫をなす。天下の詩、これがために一変し、詩道の弊もまた極まれり。(山本北山『作詩志彀(しこう)』)天明三年刊

と痛罵が出る。和歌でも同様で、そうした批判が宣長さんの歌に与えられるようになるとしても不思議はなかったろう。p.349

という言及もあって、徂徠を「擬古主義・形式主義」「とかく千篇一律の模擬剽窃」と批判し返す刀で宣長もぶった切っているのだが、私は最初、中根氏は、宣長の勘違いに気づいた鋭い人だと思っていたのだがしかし、この人も結局、江戸時代の文芸は古臭く、近現代文学のほうが優れているという観念に凝り固まった人であったかと、少々見方を改めざるを得なくなった。


追記。丸谷才一も同じようなことを言っていた。文学全集を立ち上げる。要するに戦後左翼思想なんだな。やれやれ。

ルバイヤート試訳

目覚めよ!空の羊飼いたる太陽が、
星々を天頂の囲いへ追い込み、
その力強い腕を振るって闇を払い、
燃える瞳から光を撒き散らしているのだから。

天空の青き器に朝の酒が満たされて、
雲の切れ端や薔薇の花びらが、その中に浮かぶ。
乾いた大地は、その器から朝を飲み干す。
果てしなき虚空を壁とし、星々の輝きに縁取られた器から。

さあ、朝が来た! 暁あけの明星みょうじょうのごとく
遥か彼方の王宮で輝いているのは、
それは夢の続き、寝覚めの幻などではない、
それは宝玉の車を馭し、真昼を支配する王の青き瞳だ。

目覚めよ、わが魂よ、そしてただちに酒を飲め。
たちまちにして昇るこの太陽も、あっという間に沈んでしまう。
さあ、さあ、寝ぼけ眼まなこの酒場の亭主よ、その戸を開けよ。
我らは泉のほとりで、渇きに死のうとしているのだ。

他に居場所もない哀れな男たち。
我らは早々とこの酒場にやって来た。
薄暗い夜明け前からずっとここで待ち続け、
ただひたすらに、その日が明けるのを待っている。

愛も無く、金も無く、誉れも無い。
我らには何もない。名前さえも。
あるのはただ酒だけ。だがそれで十分だ。
ただ酒があるだけで我らは幸せだ。

若さは魔法の鳥のように飛び去った。
その鳥は、五月の朝のひととき、
彼の愛する薔薇に向かって歌ったが、その薔薇もまた消え失せた。
あなたにも私にもその行方はわからない。

我らを蔑みの目で見るお前よ、お前は我らを
朝から朝まで夢に酔いしれる哀れな酔っ払いども、
衣服は汚れ、名声は失われた者ども、
ただの葡萄粒や麦粒に過ぎぬ心の持ち主どもよと思っているのか。

御魂みたま宿れる 杯さかづきに 御酒みきを満たして 飲み干さば
死すべき身さへ 神となる
土に生ひたる 百種ももくさの いかなる枝に 成れる実よりも
恐ろしくまた 妙なる実から 醸せる御酒を 我らは求む

杯は 白銀しろがねの 小さき泉、
そこは真実まことが、もしもこの世に 真実あらば 、そこにこそ 宿れかし。
死も またそこにあり。死を求めざる 者はあらめや。
そしてまた 愛もそこにある。天国でもあり地獄でもある愛が。

杯は思ひ出を呼び覚ますくすしき器。
その中にはひねもす、懐かしき顔が微笑みては過ぎ去り、
その縁ふちに口づければ亡き人の唇が我らの唇に触れ、
ありし日の声が、甘く「ああ」とささやく。

まどろむ昼のひととき、
あたりは静まり返り、夢うつつの心地にあるとき、
ふと誰かが、驚きに輝く顔を上げる、
聞け!かの鳥の調べを、あやしき呼び声を。

酔ひどれめだと? ああそうさ、我らは。だが賢き者ならば誰しも、
我らと同じく、夢見る瞳で酔いしれているだろう。
哀れなるしらふの世界よ、ひねもす憂ひに沈む者らよ、
寺も捨て、市場も捨てて、我らの楽園に加はれ。

酒に癒せぬ 憂ひはあらじ
洗い流せぬ 罪もなく
解き明かし得ぬ 謎もなく
あがなひ切れぬ 借り金もなし

女を忘れたければ 酒を飲め
忘れたくなくとも 酒を飲め
女の顔を見るだけで胸が張り裂けそうになるのか
では酒という鏡の奥底を覗いてみよ。

我が胸を酒の酔ひで満たしてくれるのならば
この世が滅びてもかまわぬ
ああ、滅びゆく王国よ、忘れ去られし王たちよ。
私はもっと良い王国を知っている。酒だ。

雲が湧き、草木の上に激しく涙をこぼした。
さあ、琴の調べを聴きながら、ただひたすら酒を飲もう。
今日、我らが憩ふこの芝生が
やがて我らが屍かばねの上で涙を流すだろう。

酒の輝きはあまりにもまばゆく
闇の中にありてなほ光を放つ
ニワトリも時を告げる、夜明けとみまがふほどの
その神々しき光に。

一杯ひとつきの、目覚めの朝の 紅くれなゐの酒、
曙光にまがふこの輝かしき酒のなかりせば、世界はあまりにも寂しい
いや、この酒こそはまことの朝、他に朝などありえない。
酒は私がこの世に生まれ出でる幸福な朝だ。