- 『こころ』
- 逃避: 親友(K)を裏切って恋人を得た「先生」は、罪悪感から逃れるために、社会的な職に就かず、他者との関わりを断って「静かな生活」に逃避します。
- 敗北: 明治天皇の崩御と乃木大将の殉死をきっかけに、時代の終焉とともに自分のエゴイズムから逃げ切れないことを悟り、自死(精神的・肉体的な敗北)を選びます。
私は夏目漱石の作品を全部ちゃんと読んだわけではないのだけれど、「こころ」などはあれも漱石の私小説として読むことが可能だ。そんなことをいうと私小説警察に怒られそうだが、では私小説とはなにかということを AI に聞いたり問い詰めたりしてもやはり不毛な話にしかならなさそうなんで、とりあえず私が何をもって私小説だと言いたいかということを説明したほうがはやいと思うのだが、私もまた自分で小説を書いてみて思うのだが、人は自分自身をどうしても作中人物に投影してしまいがちである。
たとえば「エウメネス」ではエウメネスに自分を投影している。そりゃそうだろう。一人称視点で出来ているのだからどうしてもそうなる。アレクサンドロス大王は自分とはあまりにも違う存在なので自分を投影できない。しかしエウメネスは自分と非常に近い存在に思えて親近感をおぼえるので、つまり軍中にあって部下を持たず書記官として働いている彼であれば、自分もそこに実際にいた気分になれる。大学で勉強していたのにいきなり赤紙がきて学徒出陣みたいな設定にしているのはそういうわけだ(異世界転生ものと似た仕掛けと言える)。彼のようなキャラクターならば自分のアバターとして登場させ、動かしやすいわけだ。もちろん読者を作品世界の中に没入させるにも便利だと思うからそうしているのである。
少年ジャンプは違う。まったく違う。自分をいきなりアレクサンドロスやペルディッカスやヘファイスティオンにしてしまう(ヘレニズム世界における真の英雄はプトレマイオスやセレウコスなのだが、彼らは地味で子どもウケしないので主人公にはならない)。しかしいきなり大人の英雄にすると読者はまったく感情移入できないから子どものまだ未熟で弱い頃の主人公にまず感情移入させる。そこからだんだん育てていって自分が偉くなった気分にさせる。それが少年ジャンプだ。私なら絶対書かないタイプの話だ。
「エウメネス」を私小説だと言う人はだれもいないだろうし、私も言う気はないのだが、一人称の主人公がいて、そこに自己の主観や価値観を投影しているのであれば、その登場人物はその作品の中の私小説的要素ということができよう。
夏目漱石の「こころ」では漱石のアバターは「先生」である。一人称の「私」ではない(ここがちょっとした引っ掛け、トリックになっている。「エウメネス」の実際の主人公はアレクサンドロスで、アレクサンドロスのすぐそばにいて彼を観察する役目のエウメネスが一人称になっているようなものだ。同じ仕掛けだ)。「私」は漱石を慕って集まってくる弟子たちである。その中には芥川龍之介のようなものもいた。弟子たちは明治維新の後に生まれているから、身も心も新時代の人間である。維新が良かったか悪かったか半信半疑だった日本人も、日露戦争の後は完全に薩長政権の支持者となった。日露戦争の勝利は明治維新が正しかったことを日本人に立証してみせたわけだが、漱石は必ずしもそうは思っていなかった。逆に反発を強めた。洋行した漱石が真っ先に洋風かぶれし明治に心酔してもよさそうだが、本人はまったくそうではなかった。むしろ過去に回帰していった。漱石は福沢諭吉と同じく長い江戸時代のモメンタムを保ちつつ新しい時代を生きている。福沢諭吉はこれを『文明論之概略』で
方今、我が国の洋学者流、その前年は悉く皆、漢書生ならざるはなし。悉く皆、神仏者ならざるはなし。(中略)恰も一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し。
などと言っている。江戸と明治。一身にして二生を経て、一人にして両身あるが如し。二つの時代をまたいだ人たちの多くがそう自己を規定して生きた。夏目漱石もまた『文芸と道徳』という講演の中で
私は明治維新のちょうど前の年に生れた人間でありますから、今日この聴衆諸君の中に御見えになる若い方とは違って、どっちかというと中途半端の教育を受けた海陸両棲動物のような怪しげなものでありますが、
などと言っている。
今の私たちはある意味漱石の弟子たち、芥川龍之介などの目で漱石を見ているが、漱石自身は彼らとのメンタリティの違いを埋めることは決してできないと考えていた。「時勢の推移から来る人間の相違」「個人のもって生れた性格の相違」は決して埋まらなかった。
漱石は旧時代を捨てて新時代の人間として生きることもできた。弟子たちも読者らもそれを望んでいた。しかし漱石自身はそうしなかった。漱石は徂徠を好き過ぎていたし、江戸時代へのノスタルジーを捨て去ることができなかった。
漱石は江戸時代に「殉死」することを選んだ。だから漱石は晩年、漢詩ばかり作っていた。「先生」から「私」への告白とは漱石から弟子たちへのメッセージであり、ある意味彼なりのレクチャーでもあった。
一方で、Kの自殺などというのはおそらく、漱石の教え子で自殺した藤村操とか、心中未遂した森田草平と平塚らいてうとか、或いは新聞記者などから聞いて取材したネタとかから来ているのであって、漱石個人とは直接関係ないはずだ。ストーリーを組み立てるのには自分の実体験だけでは絶対に足りないので作家はいろんなものを無理のないよう、破綻しないように混ぜる。むしろ意図的にいろんなものを混ぜ合わせることで、元ネタがバレないように工作する。Kが死んだとか乃木希典が殉死したとか、それに合わせて先生も自殺した、などという話が「こころ」のメインテーマのように見せかけているが、多分そこは漱石にとっては、話を盛るための素材に過ぎないのではないか。何しろ彼は新聞社の専属作家で給料をもらう身だったのだから、読者受けしなくては申し訳が立たない。世の中には通俗小説が溢れかえっておりそれゆえ読者サービスのためにはメロドラマ仕立てのような演出もしなきゃならなかっただけのことだ。『草枕』のような読者に対して超然とした作品を書くわけにはいかなかった。
『坑夫』も明らかに他人の取材からできているが、しかしその主人公の中にある程度漱石の実体験が混入していないとは限らない。たとえば
第一の少女が自分に対して丸くなったり、四角になったりする。すると何かの因縁
で自分も丸くなったり四角になったりしなくっちゃならなくなる。しかし自分はそう丸くなったり四角になったりしては、第二の少女に対して済まない約束をもって生れて来た人間である。
などという辺りは、ここだけ浮いていてリアルで、漱石自身の実体験を言っているようにも思えてくる。
漱石の話によく出てくる高等遊民の部類であるが、漱石自身が高等遊民というにはほど遠い貧苦の中にいたからには、彼らに漱石が感情移入していたとはとても思えない。これが森鴎外ならば高等遊民イコール鴎外自身という図式が成り立ったかもしれないが。
つまり、私が私小説だなとか私小説的登場人物だなというときにはそれは作者の身代わりが具体的なアバターとなって作中に登場している場合、ということになり、作品のスタイルそのものを言っているわけではない。田山花袋の『蒲団』とか三島由紀夫の『仮面の告白』のようなものが私小説だ、それ以外は私小説ではないと言われれば別にそれに反論を試みたいわけではない。
AIによる「こころ」の解釈は現代日本人の考えている「こころ」観を集約し平均したものなのだろう。もっとBL的に解釈する人たちもいて実はそれが「こころ」人気を支えている。AIはそれをそのまま私にぶつけてくる。或いは江藤淳的な、敗北と逃避みたいな暑苦しい戦後日本のブンガクカンを押し付けてくる。世間の常識はこうなんだからあなたも疑問を持たず受け入れなさいと言われているような気にされる。それがいやなのだ。なぜなら私は徂徠が好きな漱石が好きだからだ。立ち位置が全然ずれている。別に私は戦後昭和がそんな好きなわけではない。
「こころ」の「私」は想定される読者である。それは具体的には芥川龍之介のような、漱石の弟子であり、弟子にはならずとも漱石を慕っている若い読者らである。「先生」は漱石自身である。この仕掛けについてきちんと説明した人はいままでにいたのだろうか。ここに気付いてないと「こころ」など読んでも何もわからんと思うのだが。それは作者側に立った時に見えてくるものであって、楽屋裏話であって、読者はそんなことを考えず純粋に読書体験を楽しめばいいじゃないか、と言われてしまうのだろうか。
とまあそんなわけで漱石が「こころ」で言いたかった核心部分というのは、「弟子たちよ。私は明治時代が嫌いだ。江戸時代が好きだ。明治時代は嫌いだったけれどまだましだった。新しい時代はもっと嫌いだ。でも私は生活のために小説を書かねばならんので、自分のほんとうの作品は漢詩にして残すよ。私は明治に、明治という偉大な時代を作った江戸時代に殉じる。」ということであったはずだ。「先生」から「私」への遺書という形をとっているのはこれが漱石にとって本居宣長の「うひやまぶみ」に相当する遺訓であったからだ。ただそれでは新聞連載小説にはならないんで、表向きは通俗小説のような形をしているだけだ。