小林秀雄は『宣長』第十一章で、「彼の学問への興味は殆ど万学に渉っていた」「殆ど無秩序とも言える彼の異常な好学心」「彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をしてきた」などと言っている。若き日の乱学乱読が次第に収束していって、最終的に宣長は「古事記」研究にたどり着いた、小林はそう言いたいのだろう。宣長は一見、勝手気ままに、興味の赴くまま、手当たり次第なんでも学んでいるように見える。『玉かつま』などのエッセイを読むとますますそう思えてくるが、ほとんどすべての人がそうであるように、宣長もまた、その学問も趣味も、その根本命題はすべて彼の幼少時の家庭環境から発しているように見える。
宣長はもともと単純素朴な仏教徒であり神道家であった。そこに、荻生徂徠などの儒学者から、仏教批判、神道批判があった。儒者にとって神仏習合は迷信にすぎない。直接的な批判を受けたのは他でもない、宣長が京都遊学中に教えを受けた堀景山その人であった。
師堀景山から自らの信仰を守るため、宣長特有の国学、そしてもののあはれ論が形成されていった。彼は決して仏教を捨てなかった。宣長にとって真の敵は古文辞学であったが、古文辞学は国学にとっても極めて有効だから、それを巧みに偽装し鎧った。彼の古事記研究も、もののあはれ論も、歌学も、すべては堀景山、賀茂真淵、そしてその背後にいる荻生徂徠と出会ったことで、歪み捻じ曲がり、理解困難なものにした。
宣長のもののあはれ論は明らかに浄土思想である。浄土宗では、はかなくおろかなことは、浄土に生まれ変わるために必要な、尊いものなのである。浄土宗では愚者こそ往生すべき、救済されるべき存在である。宣長はすなおに、仏教徒としてそれを主張すればよかったのだが、彼はすでに自らを国学者と規定していたから、神道や国学の味付けで、仏教色を出さずに、もののあはれ論を説くしかなかった。
実際、宣長の釈教歌には優れたものが多い。彼が阿弥陀仏信仰、すなわち浄土思想に心酔していたのは明らかだ。
みづからの 力及ばぬ 末の世に 誰かは弥陀を 頼まざるべき
とにかくに 思はで頼め 往生は 弥陀の力に うちまかせつつ
つひに行く 道はたがはぬ 世の中に 遅れ先立つ ほどぞ知られぬ
宣長の父方、小津家を見るに、「道印」「道喜」「道樹」などの「道号」が非常に多くみられ、中には宣長の祖父「唱阿」のように「阿号」の者もいる。これは、この家系が熱心な仏教信者であったことを意味している。一方で母方の家系には、伊勢神道(外宮神道)系で出口延経(本姓は度会氏)門下の随徳、また垂加神道系で、浅見絅斎門下の寅斎などがいる。宣長自身が名乗った名には「宣長」の他に「栄貞」「春庵」などがあって、決して仏教的でも神道的でもなかったのは、父方と母方と両方の影響を受けてどちらかに片寄ったわけではなかったからかもしれない。
私自身、祖母から物心つかぬ頃に、「帰命無量寿如来(きみょー、むりょー、じゅーにょーらいー) 南無不可思議光(なーむーふーかーしーぎーこー)」などと唱えさせられたことをいまだに覚えている。父方も母方も一族郎党皆が熱心な浄土宗信者であれば、宣長本人もどっぷりとその空気に浸かってしまうに決まっている。
宣長は一言も浅見絅斎には言及していないはずだが、宣長の国粋主義が崎門学に由来するとすればいろいろと腑に落ちるところがあるのである。小林秀雄は神田生まれのシティボーイなので、そういう抹香臭いことには疎く、宣長もまた、都会の少年のように、漫然と多方面に関心を持ったのだと思ったのではないか。小林はまた、山崎闇斎や山鹿遡行には多少言及しているが、浅見絅斎にはノーマークだったように見える。