空気やあたりまえ

現人神の創作者たち、現人神の創作者たち2などで既に、山本七平「がこれを書かねばならなかったのはおそらく、戦後日本の右翼界隈の中における孤独感からであっただろう」と書いたのだが、改めて「空気の研究」「あたりまえの研究」「日本人とユダヤ人」を読んで同じ結論に至らざるを得ない。日本社会の中のキリスト教徒は常に「空気」や「あたりまえ」を意識して生きている。当然、日本人がキリスト教社会やイスラム教社会の中で生きたとしても同じように「空気」や「あたりまえ」を意識せざるを得ないだろう。

山本七平はつまり、内村鑑三と同じような孤独の中で生きていたから、「空気」や「あたりまえ」ということを常に意識し、それを書いたに過ぎないようにみえるのだ。それこそ「あたりまえ」ではないか。「空気」や「あたりまえ」は日本社会に固有のものではない。ことさら戦後日本社会に顕著なものでもない。それぞれの社会にはそれぞれのあたりまえや空気があって、それをいつも意識しながら生きているわけではあるまい。

だから山本七平の書いたものを読んでいるとそれは「あたりまえ」じゃないかとしか思えない。「あたりまえ」だということを気付かせるために書いているのだから、読者にそう思わせるのは彼の意図したことなのかもしれないが(ソクラテスの無知の知のように)、当時の日本人にとっては珍しく耳目を驚かせることであったかもしれないが今読み返すと何もかもが「あたりまえ」に思えてくる。今や、世界中をせっせと経巡っている旅行系ユーチューバーでもこの程度のことは言う。

結局山本七平は「「常識」の非常識」ということを書く係のようにされてしまい、あまり関係のないエッセイ集にもそういうタイトルを掲げさせられてしまい、「ある異常体験者の偏見」などというような、今の私たちから見ればさほど「異常」でも「偏見」でもないようなことを書くはめになったのだろう。ある意味すべての個人的体験は「異常」であり「偏見」である、というしごく「あたりまえ」の感想しかでてこない。

「「あたりまえ」の研究」の中の「指導者の条件」で彼は「泰時には、何の正統性もなかった。」と平然と言っている。

頼朝は後白河上皇から全国総追捕使、征夷大将軍に任命されており、その権限はまだ完全には消失していなかった。世情はいまだ騒然としており、強力な軍事的指導者を必要としていた。その任務は実質的に北条氏に委ねられていた。頼朝、頼家、実朝ときて、実朝が暗殺された後は、九条道家の子、九条頼経が北条政子の元に預けられており、彼はまだ幼かったが、将来彼が将軍に就く予定であった。彼が次期将軍に選ばれたのは彼に源義朝の血が流れているからであった。朝廷は決して清和源氏に与えた兵馬の権を否定していたわけではない。道家は承久の乱当時、摂政左大臣。つまり天皇を輔弼し政務を裁く最高責任者であった。北条氏は明らかに朝廷の信任を得ていたのである。

ここにおいて、後鳥羽院は一院として権威は保っていたものの、決して絶対権力者ではなかった。むしろ順徳院によって隠居させられていた状態だったと言って良い。土御門院は決して反幕府派ではなかった。一部の公家や西国武士が若い順徳院をそそのかし、順徳院が舞い上がって院宣を乱発し、天皇家の家長である後鳥羽院がそれを抑えられずにいた、というのが実情であった。道家や、或いは藤原定家や西園寺公経のように、北条氏に同情的で、事態を憂慮している公家も多かったのである。

正規の手続きを経て朝廷に働きかけようとしたのは北条氏の方であった。天皇や上皇が摂関や左大臣を無視して勅令や院宣を出すことは理屈の上では可能だが、それは朝廷が全く機能していないことを意味する。飛鳥時代以前に歴史を巻き戻す行為だ。そしてそれは天皇親政などという大義などでは決してなく、単なるクーデターであり、天皇大権の侵犯と同義である。かかる時、天皇から兵馬の権を委任された形になっている北条氏はどう行動すべきであったか?全面降伏すべきなのか?かかる問いかけが日本史のケーススタディとして学ばれることは今の日本では皆無であろう。しかし賴山陽はその問題に果敢に挑んだ。「親征に遇はば、則ちいかんせん」「之に降れ。しからずんば則ち決して進め」と(承久記に基づくか)。

かかる場合に、順徳院の暴走を食い止めるには、泰時が三上皇を武力で排除するほかなかった。そして関東武士と泰時にはその能力があったのだ。いや、大勢が泰時を是としたから、泰時はあのように強大な力を行使できたのである。世論の支持なくしてあれほど軍勢を動員できるはずがない。鎌倉や甲斐、信濃の武士らも一枚岩ではないのだ。泰時が蹶然と立ったからこそ、彼に人望が集まったのである。

主犯は順徳院とその取り巻きであったが、後鳥羽院もその責は免れなかった。後鳥羽院を許せばまた院を担ぎ出して同じことをたくらむ者が出てくる。土御門院は後鳥羽、順徳が流されるのに自分だけ許されるのは忍びないとして自ら土佐に流された。もちろん、順徳を抑えきれなかった責任は土御門院にもあるのだ。

「近日の事、朕が意に出づるにあらず。みな臣僚の為す所。ただ汝、その罪を論じ、兵士をして輦下(京都市街)を擾さしむるなかれ」これは「日本外史」に見える、泰時に後鳥羽院が述べた言い訳だが(これも承久記に基づくか)、私はこれはまったく事実であったろうと思う。明治天皇が日清戦争を「これは朕の戦争にあらず、閣臣の戦争なり」と言ったのに良く似ているではないか。

もし義時も泰時も優柔不断で、九条頼経が将軍になることもなく、順徳院の主導で天皇親政が実現していたら、東国武士は制御不能になり、日本は内戦状態に突入していただろう。京都の朝廷すら存続できていたかしれない。応仁の乱で幕府も朝廷も権威を失い戦国時代に突入していったように。

泰時が定めた御成敗式目にしても、朝廷が武士を統御できるのであれば朝廷が作ればよろしいが、朝廷にはそんな能力はかけらもなかったのだから、泰時が定めるしかないから幕府の執権として代行したのだ。幸運なことに泰時は恐ろしく頭の良い人だった。藤原氏が作った律令が中華帝国からの借り物に過ぎなかったのに対して、泰時は日本独自の国情に合わせた法律を一から作ったのだから恐ろしい才能だ。

同じようなことは新井白石も言っている。九条兼実や北畠親房、松平定信なども似たようなことを言っているはずだ。きちんと日本の歴史を学べば、泰時が「無資格」で、「社会正義の名によって」「反乱」をおかしたなどという発言がでてくるはずがない。泰時は別に「空気」で動いたのではない。当時としては十分「正統」な権限で責務を果たしていたのだ。

山本七平が「日本外史」をまともに読んだこともなければ事例研究をしたこともないことは明らかだ。新井白石の「読史余論」も読んだことくらいはあっただろうけど、書かれた意図は理解していなかったに違いない。北畠親房の「神皇正統記」に「凡そ保元・平治よりこのかたのみだりがはしさに、頼朝と云ふ人もなく、泰時と云ふ者なからましかば、日本国の人民いかがなりなまし。このいはれをよく知らぬ人は、故もなく、皇威の衰へ、武備の勝ちにけると思へるは誤りなり」とあるのは、親房には道家の苦悩がよくわかっていたのだろう。

山本七平や丸谷才一のようなトンチンカンな歴史観が広まったのは「神皇正統記」や「読史余論」、「日本外史」の解釈を捻じ曲げた薩長政権の責任でもある。やたらと後鳥羽院や後醍醐天皇を持ち上げて、その代わりに北条氏と足利氏を貶めた。日本史観を捻じ曲げたのは明治政府そのものだが戦後80年を経ていまだその反省もない。右翼だけでなく戦後の左翼言論人もみんなだまされている。

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