今度出す本なのだが、今月中にはたぶんゲラが返ってくる。多少手直しというか加筆はするだろう。これが私としては最後のチャンスだと思っている。これが売れなければ要するに私の書いたものなどこの世に需要が無いのであるから、もう人のためとか世の中のためとか、いくらがんばっても無駄であるから、あとは自分のことだけ考えて余生を送ろうと思う。
もし私が死んだ後に再評価されるようなことがあったとしても、すでに書くべきことは書いてあるからこれ以上書かなくてもよかろうと思う。
今の時代1万部売れれば売れたうちである。5千部でもよい。そのくらい売れたら死ぬまでほそぼそ執筆活動は続けよう。千部2千部とかだと極めて微妙。
世の中の人は吉田松陰とか浅見絅斎とか山鹿素行のような威勢が良くわかりやすい人が好きだ。しかしいまさらそういう人の本を書いたとしても、みんながすでに書いているから読まれるはずもない。結局私が好きだったのは、本居宣長と頼山陽だったのだと思っている。中学生の頃から漠然とした憧れはあった。この二人は、みんな名前は知っているが実際に読む人はいない。栗山潜鋒もそうだ。実際に読む人はいない。
小林秀雄にしても小室直樹にしても、丸谷才一にしても、生きていた頃の勢いと比べてると、死んでしまうと全然読まれていないし、理解も評価もされていない。吉行淳之介とか安岡章太郎とかはどうだろうか。中学生の頃、私はけっこう読んでいた。今、吉行淳之介の書いたエッセイなど読むとすごくいやらしい感じだ。そりゃまあそうだろう。私ももう60過ぎで、彼が若い頃に書いたものを読むと、それだけで嫌な気分になっておかしくない。自分が若い頃書いたものを読むのも厭だけどね。
逆にたとえば三島由紀夫なんかは今もカリスマ的人気があり、外国人も読んでいたりする。現象的にはそちらのほうが好ましいが、私は三島由紀夫は好きでもなんでもないし、そんなすごいとも思っていない。やはり、40代までに書いた文章という気がする。いや、年寄りの文章だから面白いとは全然限らないのだが。何が言いたいのだろうな。
ま、ともあれ、私はまだ全然歴史に名を残すようなところまではいってない。ウィキペディアの記事にすらなっていない。せめてそのくらいやってから死にたいものだが。
私は、藤原定家と本居宣長と頼山陽は見切ったと思っている。この三人がわかれば、日本の歴史と文芸と思想は全部わかるはずだ。その自信はある。逆にこの三人がわからんのにあれこれうだうだ言っている連中はみんなダメだ。ということが理解されれば私の本は自然に売れるだろう。というか私はまずそのことを書ききらなくてはならない。