ウィキペディアに至っては
レオーン3世がこの時期に聖像禁止令を出した理由は、明らかになっていない。イコン崇敬が復活した後、聖像破壊派の著作などは異端の書として破却され、現代に残っていないからである。レオーン3世の時代より以前からイコン崇敬への疑問や批判は出ており、他にも火山の大規模噴火などの天災、偶像を否定するイスラム教からのキリスト教に対する批判、などが要因として挙げられているが、未だに定説となるような理由は見つかっていないのである。
「異端の書として破却され、現代に残っていないからである。」わろす。などとすっとぼけたことを言っている。
元来オリエントの宗教であったキリスト教がギリシャ化していく中で発生したものであった。元来オリエントの宗教であったキリスト教がギリシャ化していく中で発生したものであった。
そんなことはパウロが布教するときからそうだったではないか。新約聖書がギリシャ語で書かれたことも知らないのか。キリスト教はもともと実質的にギリシャ人(ローマ帝国内のギリシャ系市民)の宗教だよ。
世界史の窓でも
レオン3世が聖像禁止令を出した直接の契機は、小アジアでイスラーム軍と戦って勝利したとき、小アジアの農民から、イスラーム教に対抗するにはキリスト教も本来の偶像否定を徹底しなければならないという訴えを受けたからであったが、ねらいは別のところにあった。それは教会や修道院の所有地を没収すると言うことだった。
などと問題をすり替えようとしている。
そりゃそうだろう。日本のキリスト教徒はみな偶像崇拝信者なのだから、旧約聖書に明記されている偶像崇拝の律法を無視したくて仕方ないのだ。
英語版ウィキペディアでは
iconoclasm was generally supported by the Eastern, poorer, non-Greek peoples of the Empire who had to frequently deal with raids from the new Muslim Empire.
などと言っていて、ギリシャ系キリスト教徒が偶像というものに固執したと書かれている。
726年レオン3世の偶像崇拝禁止令と、イスラムによるコンスタンティノープル攻囲戦には関連があるように思えます。東ローマ皇帝はイスラムの興隆をみて、キリスト教のあり方に不安を抱いたのではないですか。
その視点は歴史学的に見ても非常に鋭く、核心を突いています。
726年にレオン3世が発令した「偶像崇拝禁止令(イコノクラスム)」と、717〜718年の第2次コンスタンティノープル包囲戦を含むイスラムの台頭には、極めて深い「因果関係」と「心理的背景」が存在したと現代の歴史家たちの多くも分析しています。
1. なぜイスラムの勝利が「キリスト教の危機」に見えたのか?
当時の東ローマ帝国の人々(特に皇帝や軍首脳部)は、次のような深刻な神学的・心理的恐怖を抱いていました。
- 「神はなぜ我々を見放されたのか?」かつてローマ帝国全土を包んでいたキリスト教国家が、現れたばかりのイスラム(アラブ軍)にシリア、パレスチナ、エジプトなどの要衝を怒涛の勢いで奪われました。中世の観念では、「戦争の敗北=自国の信じる神の怒り」を意味します。
- イスラム側の「偶像否定」という正当性イスラム教は徹底した絶対一神教であり、神や聖人の姿を描く「偶像(イコン)」を厳しく禁じていました。イスラム勢力は「キリスト教徒が絵や像を拝んでいるから、神は真の一神教徒である我々に勝利を与えているのだ」とキリスト教徒を批判・揶揄していました。
東ローマ側から見ると、「イスラムの連戦連勝は、我々が知らず知らずのうちに『偶像崇拝』という大罪を犯し、神の怒りを買っているからではないか」という強い焦燥感と自省が生まれました。
2. レオン3世の背景とコンスタンティノープル包囲戦(717–718年)
皇帝レオン3世自身のアプローチと体験も、この決定に決定的な影響を与えました。
- 出身地(アジア要素): レオン3世はイサウリア(シリア国境に近いアナトリア南東部)の出身であり、イスラム教徒やユダヤ教徒(ともに偶像を徹底的に排除する文化)と隣り合わせで育った軍人でした。彼ら東部の軍人層には、もともと「イコン崇拝」への違和感がありました。
- 包囲戦の奇跡的勝利: 即位直後の717年、レオン3世は怒涛のアラブ巨大艦隊・陸軍による「コンスタンティノープル包囲戦」を「ギリシア火」などを駆使して撃退しました。彼はこれを「神が自分に帝国を再建させるために与えた使命」と受け止めました。
- 726年のエーゲ海大噴火:726年、エーゲ海で巨大な海底火山が噴火しました。レオン3世はこれを「依然として偶像崇拝を続けている帝国に対する、神からの最終警告」と捉え、同年に偶像撤去(イコン破壊)へと踏み切ることになります。
3. 偶像崇拝禁止令の狙い
レオン3世が目指したのは、単なる宗教的改革にとどまらない「国家再建プロジェクト」でした。
- 神の恩寵を取り戻す: イスラム教徒のように「正当な一神教」の形へ回帰することで、神の怒りを解き、軍事的勝利を確実にする。
- 皇帝権力の強化(対修道院): 当時、イコンの製作や販売で大きな財力と政治的影響力を持っていた「修道院」の勢力を抑え込み、皇帝の下に権力を集約する。
- 軍(特に東部兵士)の士気向上: 偶像嫌悪が強かった小アジア(アナトリア)の主力軍団の支持を固める。
ご洞察の通り、東ローマ皇帝は「イスラムの脅威と興隆に強い危機感を抱き、キリスト教のあり方そのものを『修正』して神の加護を再獲得しようとした」のが、726年の偶像崇拝禁止令の大きな原動力でした。
しかし、この改革はゲルマン人布教にイコン(聖画)を不可欠としていた「ローマ教会(西欧)」との間に致命的な亀裂を生むことになり、後の東西キリスト教界の分裂(大分裂)へ至る遠因となっていくことになります。