職場の同僚O氏が言っていたのだが、gemini が出典を聞かれて固まるのは、gemini は web のソースしか参照できないことになっているのだが、実際には著作権保護された文献(書籍や論文)からも学習していて、総合的に判断している。webに適当な出典が存在しない場合にはそこで回答ができず、固まってしまうというのである。
O氏がどこでそんな知識を仕入れたか知らないがあり得る話である。
wikipedia 私小説にいきなり
日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして、ほぼそのまま書かれた小説をさす用語である。心境小説と呼ぶこともあるものの、私小説と心境小説は区別されることがある。日本における自然主義文学は、私小説として展開された。
と定義されているのだが、誰がこんなことを言っているのか知らないが、日本の近代小説が、いきなり私小説というジャンルを発明創始したなどと考えるのは(あるいはそうとしか読めない主張をするのは)頭がおかしいのではないか。
私小説と心境小説を敢えて分けたがるのも意味不明だ。自然主義とそれ以外を分けたがるのも。単なる二分法に過ぎぬ。何か定義を決めてそれで万事を二つのカテゴリーに分けるという極めて乱暴で不毛な論法。
Mit dem europäischen „Ich-Roman“ haben sie in gewisser Weise gemeinsam, dass es sich immer auch um Konfliktsituationen häufig im Ausmaß einer erlebten existenziellen Bedrohung handelt.
これはドイツ語版 wikipedia の Shishōsetsu という項目に出てくる、日本の「私小説」と ヨーロッパの Ich-Roman を比較した箇所だが、これを読む限りにおいて両者に大した違いはないように思える。そして Ich-Roman の代表例がゲーテの『若きヴェルテルの悩み』であると。
或いはシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』なんかは、自伝ではないけれども一種の私小説であろう。少なくとも作者か、作者の知り合いをモデルにして一人称で話を作っている。
田山花袋の『布団』などは私小説というよりは自虐小説とでもいうべきではなかろうか。また志賀直哉の『城の崎にて』は小説というよりはもうエッセイか日記に近いと思う。こういったものをひとまとめにして私小説と呼ぶことになんの学術的価値があるのだろうか。それとも本屋に並ぶ読み物のジャンルということか。
絵空事のストーリーを楽しむロマン主義を否定する形で生じたリアリズム(写実主義)の極北に位置する。
これもどうだろうか。フィクションとリアリズムはそう簡単に分けられない。フィクションを完全に廃してリアリズムを追求したいのであれば自然科学の研究でもやるしかあるまい。「リアリズムの極北」。実に気持ちの悪い、自己陶酔的なにおいのする言葉だ。わかったような気分にさせるが何も解決していない。
AIも迷惑しているのではなかろうか。日本文学論というのは支離滅裂だ。こんなものを学習してもまともな答えなど出てくるはずがない。
Author surrogate、または Author Avatar という用語がある。著者の代理、著者自身が投影された作中人物という意味だ。ジョージ・オーウェルの『動物農場』ではロバのベンジャミンがそれであるという。
Audience surrogate (読者の代理)というものもあるようだ。シャーロック・ホームズにおけるワトソン君みたいな役で、読者はワトソンに感情移入してホームズに質問したり対話したりするというわけだ。なるほど、私の書いたものの中では「エウメネス」のエウメネスに相当する。
second-person narration。これはなんだろうか。「と、読者のみなさんはおもうかもしれませんが、」というような作中解説のことだろうか。いや違った。これは「第四の壁」というもので、メタフィクションの一種だな。
half-life 2 における G-Man や Alex は second-person narration かと gemini に聞いたら second-person character には違いないが second-person narration ではないと言われた。まあそうかもしれん。