『宣長さん』中根道幸、『宣長さん』2、『宣長さん』3、京極派の末裔。
結論として、端的に問題を提起しておこう。宣長さんは、定家、新古今をカンちがいしてはいなかったか、または新古今の行きづまりを打開するための写実ということに無感覚だったのであろう。
多く二条派の目で拾われた定家なのである。
宣長さんの定家観には歪みがある
宣長は定家を崇拝しているが、実は定家を全然理解していないのではないか、という大胆な指摘をしたのはおそらく中根氏が最初だろう。小林秀雄もこの問題について特別には言及していない。
宣長に見えていた藤原定家は、今の私たちが知る定家とはだいぶ違っていたと思う。宣長の時代に定家を見ようとするとまず堂上の二条派というものがあり、その先に室町時代の定家崇拝があり、頓阿があり、定家はそのはるかかなたに霞んで見えていたに違いない。同じことは契沖による定家理解にも言えたのに違いない。
不思議な話だが、契沖や宣長にはかえって、古事記や万葉集のようにもっと遠い過去の世の中のほうが鮮明に見えていた。
宣長は定家を崇拝する割には、定家の歌そのものをほとんど論評していない。定家のこの歌は好きだがこの歌はそれほどでもない、といったような話はしていない。
私には宣長が、俊成定家為家三代の歌の違いについてもわかっていなかったと思っている。
中根氏も指摘しているように宣長は京極為兼を非常に嫌っているのだが、それは宣長が好きな頓阿から最も遠いという意味で嫌いなだけなのだろうと思える。為兼は異風であり、後水尾院も異風である、などと言う。正風とは具体的には頓阿のことを言うのである。私から見るに、宣長は頓阿的なものが正風であり、頓阿から離れれば離れるほど異風だというロジックしか宣長には無いように見えるのだ。
その宣長のロジックでいえば定家の達磨歌などはみな異風であろう。定家と頓阿は全然似ていない。しかし頓阿は定家を崇拝していた。まったく同じ関係が宣長と定家にも言える。
「新古今の行きづまりを打開するための写実ということに無感覚だった」という中根氏の指摘にはしかし用心しなくてはならぬ。中根氏にとって「新古今の行きづまりを打開するための写実」とは為兼の京極派のことであったからだ。
中根氏は宣長が選んだ『古今選』が、定家が選んだ『近代秀歌』などと歌の重複がほとんどない、だから
宣長さんと定家と共通性なし
と判定しているのだが、この視点はまったく正当だし、私もまったく同意見である。宣長と定家の趣味はほとんど重なっておらず、宣長は定家のような歌はまったく詠むことがなく、定家の歌を論じることもない(ごく稀な例はあるがほぼ無いと言って良い)。
宣長は京極派もわからぬ人だが、『後拾遺集』の価値もわからぬ人だ。これらは則ち典型的な、室町二条派の価値観であって、それは江戸時代の契沖まできてそのまま宣長に引き継がれている。もっともいまだに世の中は、『万葉』『古今』『新古今』が最高で、あとは見るに値しないという人ばかりであり、私のように『後拾遺』が最高だなどという人にお目にかかったことはない。
定家の言を金科玉条とし、詠歌を古今独歩とする宣長さんは、何を見ていたのだろう。
私も中根氏とまったく同感である。私以外にそういう感想を持っている人がいて非常に頼もしい。だがしかし中根氏は同時に
写実ゆえ現代において革新、清新と評価される玉葉集を撰した京極為兼 (p. 315)
などという言い方もしていて私はこれには首をかしげざるを得ないのである。さらにみていくと、
宣長さんより七歳年長の小沢蘆庵は堂上重鎮の冷泉為村から破門されたが、ただごと歌を主張、題材、用語とも自由平明、自然の感情を歌うべきだとし、擬古技巧を排する。その影響を受けた香川景樹になると、それを洗練、うるわしくやすらかな調べを眼目とし、その風が一般的になり明治に至るのである。
埋もれていた玉葉・風雅の風だが、明治も半ばになると、佐佐木信綱らの研究で、歌の流れが客観的にとらえられ、中世十三代集のうち、二条派の保守に対する革新の二集と見なおされるようになる。さらに、明治末から大正へかけて、写実が歌の本流ときまると、その評価は抜群の清新の集として定着した。
現代、玉葉と風雅は、その写実、叙景により、中世十三代集中の白眉とするのが通説であるが、折口信夫にいわせれば、短歌の本質は、万葉・古今から、新古今はとびこえて、玉葉・風雅で確立完成し、近代へつづくのだ、とする(『日本文学の発生序説』)。そして、折口は回顧していう、「かう言ふ人(為兼)を忘れたり、知ってゐても、歌の上の悪魔か、外道のやうに罵倒してゐたのは、世の中に、自分で物の価値を見出して行かうとする人のないことが思はれる。」(『短歌論』)
などと書いていて、なんだ、折口信夫の受け売りかと、がっかりする。
釈迢空こと折口信夫は確かに和歌が詠める人であった。しかし私には近代臭がきつすぎて、全然好きになれない。近代歌人らはだれもかれも皆(ごく一部の例外をのぞいて)、昔の和歌も良いが、しかし明治以降の近代文学のほうがそれ以前よりも圧倒的絶対的にすぐれていると信じ込んでいる。佐佐木信綱、萩原朔太郎、みなそうだ。
玉葉・風雅、為兼は写実だからよく、頓阿や宣長は擬古技巧だからダメという決めつけは、宣長のいう為兼は異風だからダメだとするきめつけと何も違わない。まったく同じだ。
宣長には確かに陳腐な歌も多いが、しかし折口信夫の歌に比べれば全然おもしろい。釈迢空の歌がなぜつまらないかといえば写実絶対主義、近代絶対主義という、つい最近西洋から借りてきたものにとらわれていて、歌を詠む心が自由でないからだ。釈迢空らは擬古技巧とやらから逃れて自由になったつもりでいるが、そのまま近現代的写実という謎概念謎価値観に束縛されてしまった。「写実が歌の本流ときまる」などといったい誰がそんなことを決めたのだろう。迷惑だ。論理で説得したいのであれば論理で通してほしい。いきなり戦後とか多数決で決めないでほしい。
そもそも、小沢蘆庵は擬古技巧を捨てたから、自由平明自然になったのではない。蘆庵は堂上とか師授などの徳川時代特有の権威から逃れただけであって、彼の歌は一貫して擬古であった。ここでいう擬古とは古典文法と語彙をあくまでも遵守し、万葉調や狂歌のような逸脱がないという意味だ。近世において和歌を詠むということは、自然ではありえない。必ず人工的、擬古的にならざるを得ない。景樹も同じ意味で擬古であった。和歌は擬古そのもの、古語そのもの、文字の無い時代から続く唯一の日本文芸であり、和歌を詠むということは千年前から続く文芸を千年後まで保守し残すことに他ならぬ。私が勝手にそう言っているのではない。蘆庵も景樹もまったく同じことを言っている。和歌から擬古をのぞけば後には何も残らない。だから近代歌人らの歌はみな空疎なのである。はたして折口は「自分で物の価値を見出して行かうとする人」であったろうか。はなはだ疑問だ。
ついでに少々論じておくが、はたして京極派は写実だろうか。中根氏は玉葉・風雅を
写実の歌が当然となった現代では、貴族趣味の題材がまず目について、一見歴代勅撰やその亜流の、文化修飾にすぎぬ歌とまがうおそれもあるが、再読すれば、独自の複眼で対象(現実)をじっと見ており、ことばがそれについていくのに気づくであろう。p.395
と評している。はてはたしてそうだろうか。京極派の特徴として挙げられるのは、少なくとも私がそうだと思っているのは、いわば幻想、超現実的心象表現の試み、とでも言えるものだと思う。たとえば為兼の
大空に あまねくおほふ 雲の心 国土潤ふ 雨降すなり
などであろう。これは明らかに雨乞いの歌である。そして実景ではなく心象風景である。また、大和言葉としてはあっても歌語としてはそれまで使われなかったようなことば、たとえば「くものこころ」「くにつち」などを大胆に使うこと、字余りや、漢語、俗語の使用などのルール違反を怖れぬこと、などが特徴と言えよう。いわば没我の境地、三昧境に身を置いて、無意識に、感覚で、巫のお告げのような、シャーマニズム的な歌を詠む。それを京極派というのではないか。こうしたものを宣長が嫌う気持ちはわからぬでもない。宣長が唯一価値をみとめるのは紀貫之の屏風歌のような、最高に陳腐な様式美、「貴族趣味」、王朝趣味丸出しの御座成り芸なのだから(定家が詠む前衛的達磨歌も本来宣長の趣味から最も遠いものであるはずだが、定家は平安王朝の残照の中に完全にうずもれて枯淡化してしまったので、その尖った達磨感というかダダイズムが麻痺してしまっている)。ただの写生であれば宣長が嫌う意味もないと思う。こうしたスーパーリアルな歌は京極派が絶えた後も、冷泉派の正徹などが詠んでいた。
で、結局、近現代の写生絶対主義者らは、京極派すらまともに理解できていないんじゃないかと、私には思えるし、そもそも、和歌を理解できている人がほんとうにいるのかどうかとても不安になる。
中根氏には
言々句々盛唐詩に典拠のないものは用いないとの擬古主義・形式主義、とかく千篇一律の模擬剽窃となる蘐園詩文に対しては、少し後の天明になると、すでに、
蓋し、復古の名は是なるに似て、其の実は大に非なり。奈(いか)んとなれば、其のする所、専ら唐人を剽窃して、句ごとに比し、字ごとに擬し、目前の景を捨てて、腐爛の辞を摭(ひろ)ひ、公然として復古とよみ、中晩(唐)以下を視ること讐敵のごとく、票然として、別に高華の工夫をなす。天下の詩、これがために一変し、詩道の弊もまた極まれり。(山本北山『作詩志彀(しこう)』)天明三年刊
と痛罵が出る。和歌でも同様で、そうした批判が宣長さんの歌に与えられるようになるとしても不思議はなかったろう。p.349
という言及もあって、徂徠を「擬古主義・形式主義」「とかく千篇一律の模擬剽窃」と批判し返す刀で宣長もぶった切っているのだが、私は最初、中根氏は、宣長の勘違いに気づいた鋭い人だと思っていたのだがしかし、この人も結局、江戸時代の文芸は古臭く、近現代文学のほうが優れているという観念に凝り固まった人であったかと、少々見方を改めざるを得なくなった。