山本七平の「現人神の創作者たち」を楽しく読んでいるのだが、彼がこれを書かねばならなかったのはおそらく、戦後日本の右翼界隈の中における孤独感からであっただろう。山本七平の気分はおそらく小林秀雄に近い。戦前の軍国主義者は戦後にみんな平和主義者になってしまった。それは単にまやかしであって、できてしまったものを追認しているだけでだから、同じようにいつの日か、平和主義者はみんな軍国主義者になってしまうかもしれない。本来であれば戦前と戦後で一貫した思想というものがあるべきで、それがほんものの思想というものだが、日本人は誰も偽物の思想しかもっておらず、状況次第でまったく別物に変身してしまう、まったく信用の置けない人種である、ということになる。山本はクリスチャンだったからそう考えたのだろう。そこは内村鑑三と似ている。
山本七平は右翼の論客ということになっていたが、彼の周りには平泉澄やその門人、或いは三島由紀夫のような者しかおらず、小室直樹もまた平泉一派にすぎないと思えたに違いない。平泉澄とはつまり吉田松陰の流れであって、松蔭に責任を負わせるのはかわいそうだが、薩長軍閥は松蔭の思想をおおよその下敷きとして他の思想を封殺してしまった。松蔭は決して崎門学派ではなかったが、薩長や或いは岩倉具視などの公家もなぜか浅見絅斎や山鹿素行ばかりもてはやし、それをもって、天皇を現人神という不可侵な存在にしてしまった。山本は概ね右翼であり薩長に同情的ではあるが、天皇を現人神とすることだけは耐えられなかったと思う。
それで戦前の国粋主義というものはすでに無く、天皇を現人神と崇める人もいなくなった(少なくとも表面上は)戦後において、山本はどうしてもこの話を蒸し返さずにはおれなかったのだと思う。その動機は(少なくとも私には)よく分かる。その論旨も、少なくとも小室直樹よりはずっとましである。しかし山本にはいくつか欠けている視点、考慮に入らなかった決定的要素がいくつかあると私には思える。
栗山潜鋒は後西院の皇子、八条宮尚仁親王に「保建大記」を献じたのだが、これはつまり、尚仁の父後西院に信任されて、尚仁の教育係兼学友となり、後西院に「保建大記」という史書を献呈した、ということに当然なる。さらに言えば、後西院が潜鋒に、自分の子のための教科書を書かせたということになる。
良く言われているように、「保建大記」は幕府を批判する書ではない。朝廷や天皇を批判する書でもない。まして倒幕、明治維新の預言書などではない(そういうことにしたいのは薩長だ)。これはまず純粋に、天皇家の自省の書、家訓として読むべきなのである。
後白河院や崇徳院、白河院を批判しているのは潜鋒ではなく後西院なのである。彼がそうした書を所望したからそれを潜鋒が書いたのだ。天皇批判をしているから不敬である、などという問題ではあり得ない。
それゆえ潜鋒は、山崎闇斎や浅見絅斎など崎門の流れの人などではない。もちろん潜鋒の若い頃の師は崎門の人であったしその影響をうけてはいた。しかし直接の影響をうけたのは後西院であったと見るべきだ。水戸光圀に招聘されて水戸彰考館の史官となったのも当然後西院の推薦があったからだ。水戸学派の一員として仕事をしたのはその後の話に過ぎない。
山本七平にはまずこの視点が欠けている。
後西院の境遇は崇徳院によく似ている。父後水尾院は後西院を退位させて霊元天皇を立てた。後西院は父を恨んでいたはずだ。せめて自分の子に皇位を伝えたかったはずだ。しかし皇位は霊元天皇の子孫に移り、戻ってくることはなかった。
後西院は自省自重したであろう。後水尾院亡き後、徳川の力を借りて、霊元を廃位して、自分の子に帝位を継がせたいという野心を抱いてもおかしくない。しかしそうすれば崇徳院と同じ轍を踏むことになる。その無念が「保建大記」となったのだ。自分の皇子にもそれを教科書として教えた。決して軽はずみなことはするなよと。
後西院はそのことを他人に言えるはずもない。潜鋒もその執筆動機を他人に吹聴できるはずもない。しかし状況証拠からすればそうならざるを得ない。
潜鋒の「保建大記」は宣長によって「みよさし論」となり、それが松平定信に採用されて大政委任論としてオーソライズされたのである。大政委任論はまた賴山陽の「日本外史」におけるメインテーマでもある。それが慶喜の時代に大政奉還という形になった。すなわち、後西院、栗山潜鋒、本居宣長、松平定信、頼山陽、徳川慶喜という流れでみなくては明治維新というものは見えてこない。これを見えなくしているのは薩長である。そもそも薩長はそうした経緯に気付いてもいなかっただろう。
山本七平による林羅山と熊沢蕃山の話は面白い。しかし別にどうでも良い話だなとも思う。問題の本質からは外れている。羅山は藤原惺窩の弟子で儒者のつもりでいた。惺窩は確かに中華かぶれだったので、羅山が感化されたのはそのとおりだろう。しかし羅山は家康の茶坊主にすぎない。家康には儒学なんてものはわからない。天台宗と浄土宗に二股をかけ天海などという怪しげな坊主を重んじたりした。そんな家康に仕えていた羅山が朱子学を徹底できたはずがない。
水戸彰考館の同僚、三宅観瀾や安積澹泊などの話もどうでも良いことだ。
彼(潜鋒)は、澹泊のような責任ある地位になく、一館員にすぎなかったから、おそらく澹泊よりもはるかに自由にこの問題を論じ得たであろう。
などということも事実誤認だと思う。潜鋒と澹泊はどちらも彰考館総裁であって同格であったはずだ。それに責任ある立場ととは何か。「大日本史」は結局完成しなかったではないか。誰かが責任を持って監修したのだろうか。澹泊も含めてみななんとなくダラダラと、水戸家の懐具合を窺いつつ編纂をしていただけのように思える。賴山陽のほうがずっと真面目で有能で精力的だ。
徳川幕府が儒学を官学にしたのはそれが都合がよかったからだろう。江戸時代のはじめ、文官教育をしようにも文字を読み書きできるのは坊さんか公家くらいしかいなかった。そこに明朝の亡命者がわたってきたから、藤原惺窩とか水戸光圀などがなんとか朱子学を立ち上げて、それでやっと仏教徒や公家ではなく儒学者に人事や徴税などの事務処理をやらせることができるようになった。大学頭林家とはその元締めに過ぎない。
家康は足利幕府や鎌倉幕府の制度を踏襲するために征夷大将軍になったに過ぎないと思う。征夷大将軍になるには天皇による宣下が必要だ。だから天皇を保護した。それ以上の考えが家康にあったとは思えない。大政委任論などというものはずっと後に、松平定信によって幕府の方針になったにすぎない。
山本七平は宣長を単なるノンポリの浮世離れした学者くらいにしか見ておらず、平泉澄や小室直樹などは宣長などまったく認識の外であったのに違いない。しかしながら実は宣長は徳川時代における極めて重要な政治学者である。右翼はみんな「日本外史」くらい読んでいるはずだが、しかしただ史書もしくは倒幕の預言書として読んでいるだけで、賴山陽の思想を理解しているものはいない。山本七平や小室直樹ですらそうなのだから、今のネトウヨがそうしたことを理解できるはずもない。
もうひとつ。山本七平の「保建大記」理解はかなり甘い。それは潜鋒もまた浅見絅斎のごとき者であるという先入観があるためであろう。潜鋒が言いたかったことは、清盛や頼朝、泰時や尊氏や家康のごとき武臣はニニギノミコトの時代からすでにいて、天皇から武臣への大政委任というものは決して珍しいものではなく、それが日本の政治の常態であってそれゆえ中国のような易姓革命は日本にはないのだということだ。浅見絅斎のように幕府よりも朝廷の方が正統だなどと言いたかったわけでは全然無い。君主からみれば、朝廷だろうが幕府だろうが、臣下が勝手に作った組織にすぎぬ。役に立てばそれで良い。律令にしろ朝廷にしろあれは藤原氏が唐の制度を真似して勝手に作ったものであって、幕府と何が違うのか。潜鋒はそう考えていたろうし、おそらくそれは後西院の考えでもあったはずだ(小室直樹も朝廷と律令が日本国の公式な制度であって、幕府はその下部組織に過ぎないと思っていた。浅見絅斎的発想と言える。そんなことどうでも良いではないか。鄧小平も「不管黑猫白猫,能捉到老鼠就是好猫」、白猫だろうと黒猫だろうと気にするな。鼠を取る有能な猫が良い猫だ、と言っているではないか。それと同じだ)。
潜鋒は明らかに幕府を容認していた。時代の趨勢によって意図せずにできてしまったものであるが、適切に運用すれば十分機能するのだから、本来あるべからざる状態だから(徳川政治に失徳が無い限り)倒幕せねばならぬなどという原理主義を唱えたのでもない。当たり前ではないか。有能な武臣が草莽から現れて、世の中のうまくいかないところを直し改めて、新しい制度を作る。それこそ忠臣というべきではないか。藤原氏の専横も天下国家のためであればこそ許されるのだ。
「応用問題としての赤穂浪士論」。これなど余計な付け足しだと思う。三宅観瀾が詳細なレポートを書いたとか、荻生徂徠や太宰春台は否定的で批判的であったが世論はそれを受け付けなかった、などどうでも良いことではないか。徂徠や春台について論じなくてはならないことは他にいくらでもあるはずだ。


