樋口一葉については、けっこうな長さの没原稿がある。彼女のことは改めて別の機会に出版するとして(そんな機会があればだが)、とりあえず公開しておこうと思う。
樋口一葉は明治二十六年、二十二才の時、生活の糧を得るため、下谷竜泉寺町の長屋に移り住み駄菓子屋を始める。梅の花咲く神の斎垣とは「たけくらべ」に出てくる三島神社か、千束神社(千束稲荷神社。一葉の胸像が建っている)か、大鳥神社(鷲神社)であったろうか。かつて吉原遊郭の西隣に竜泉寺という寺があったが移転して明治には代わりに大音寺という寺が建った。吉原と大音寺に挟まれたこの一帯は「たけくらべ」に「大音寺前とは仏臭けれど」とあるように当時は大音寺前と呼ばれていた。この地は今、日比谷線三ノ輪駅からほど近く、高級住宅街もしくは高層ビル街となっている。「塵の世に混じり」住むようになって、一葉は「塵の中」と題する日記を書き始める。「此の家は下谷より吉原通ひの只一筋道にて」とあるのは下谷の三島神社から東へ一葉の店の前を通って吉原の北側、揚屋丁辺りにぶつかる茶屋町通りのことだろう。「夕方よりとどろく車の音、飛び違ふ燈火の光り、例へんに詞なし。行く車は午前一時までも絶えず、帰る車は午前三時より響き始めぬ。」「家は長屋建てなれば、壁一重には人力引く男ども住むめり。」「男気なき家のいかに侮られて悔しき事ども多からむ。」父を亡くして一葉は母と妹と女三人で暮らすことになった。長屋の両隣は壁一枚隔てて荒くれ者の車夫が住んでいる。ずいぶん心細かったに違いない。「蚊のいと多き処にて、藪蚊といふ大きなるが夕暮れよりうなり出づる、おそろしきまでなり。」「井戸は良き水なれど深し。」「行方も知れず影を消してかくあやしき塵の中に交はり、」などと散々に描写されている。この頃の樋口一葉の日記や歌を見ていくと、
世の中を 横にのみ這ふ 蟹ながら 心は清き 水にこそ棲め (蟹)
月の輪の 熊となるとも 世の人の 腹黒きには 習はざらなむ (熊)
ちはやぶる 神の斎垣に 咲く梅も 香は塵の世に 混じりけるかな (社頭梅)
こうした江戸狂歌と見紛うような歌が突然出てきてびっくりする。
あはれいかに 今年の秋は 身に沁まむ 住みも習はぬ 宿の夕風
いづれぞや 憂きにえ堪へで 入りそむる 深山の奥と 塵の中とは
さわがしき 市のちまたも 咲く花の 木陰ばかりは のどけかりけり (市桜)
秋風が吹き「綿入れ羽織」を終日着る人を見るようになった頃、憂き世を離れ山奥に入るのと、街中に降る紅塵にまみれるのと、どちらがまだましだろうか、などと物思いにふけっている。
思ふどち 吹きかはしたる 笛竹の 昔の音こそ 恋しかりけれ
呉竹の 直なりと思ふ 我にしも あやしき節を 人は付けけり
この二首は、子供の頃のように自由に歌を詠みたい、自分は素直に詠んでいるつもりなのに師はダメだしする、という不満を詠んだものであるらしい。一葉は中島歌子という師についたのだが、歌子は一葉の非凡な歌才を認めつつ、その反抗的な性格を見抜き、疎んでいた。
紅葉がり いざと言ふべき 友もなし 昨日も今日も 時雨のみして
すがれよと 招く袂も 憂かりけり 一人や立たむ ただ一人にて
一葉は頑固で強がりで孤独を好む人であった。
もろともに すめばすまるる 世なりけり 野山の月も おのが心も
いとふべき ほどだにもなし 世の中は 風に結べる 青柳の糸
尋ぬべき 君ならませば 告げてまし 入りぬる山の 名をばそれとも
なかなかに 漂ふもまた おもしろし 月の前行く 空の浮き雲
世の中はいづこかさして 宿ならむ 行き止まるをぞ 限りと思はむ
今日しまた うはの空にて 過ぎぬなり 何思ふらむ 身と知らねども
これをしも 恋とは言ふや 山柿の 乱るるばかり 胸の苦しき
打ち寄する 波にも花は 咲くものを ただに砕けて 我はやまめや
これらの歌を見るに塵の中に住む一葉を見かねて助けてやろう、金銭的に援助してやろうと言う人がいなかったわけではなさそうが、それらを拒んで、自立しよう、漂泊しようと、歯を食いしばって堪えているのは、いったいどういうわけか。塵の中に陥った己の身を嘆きながら飄々と歌を詠み痩せ我慢している。何かそうせねばならぬ理由があったのだろうか(世の中には人の施し、哀れみ、お節介をがんとして拒絶し続ける偏屈婆さんのような人がままいるようだがその心理はいかなるものなのか。一度ひねくれてしまった心は元に戻らないのだろうか)。
うれしくも 来つる冬かな 大方の 世に捨てられし 宿ぞともなく (閑居冬来)
一葉は春夏秋冬のうちで冬が一番好きなのだろうか。そうではない。冬の寒さの他に誰も家を訪ねてくれなくて寂しいと言いたいのである。
世の人は 花に浮かるる 春の日の 長きを一人 知るすまひかな (閑中日長)
春夏秋冬ひねくれている。
思ふこと 少し漏らさむ 友もがな 浮かれてみたき おぼろ月夜に (春夜思友)
「浮かれてみたき」が口語的である。
折りしもあれ 今宵の月に かかりける 拗け心の 空の浮雲 (夜雲妬佳月)
名月を妬んで隠す雲を恨む心を詠んでいる。これまた変な歌だ。「拗け心」とは万葉の古歌「奈良山の 児手柏の 両面 とにもかくにも 拗け人かも」から採ったか。コノテガシワは葉が垂直に立っていて葉の表裏が判別できない。どっちつかずでひねくれた人だなという意味。
世の中の 憂さもつらさも 忘れけり ただ一杯の これの情けに (酒)
風を待つ 花にも似たる 姿かな 誰と汲みたる 情けなるらむ (酔美人)
笹の葉の 露も心の 乱れずば この泉こそ 汲むべかりけれ (酒)
「情けの酒より酒屋の酒」「お情けより樽の酒」などと言い、「なさけ」は当時流行った「さけ」の隠語で、「お情け頂戴」とは遊女が客に酒をねだる意味も兼ねていたろう。「笹の露」とも呼ぶのは「酒の歌」で先述した通り。
汲みて知る 人こそなけれ 旨酒の 身は心にも あらずなりしを
汲む酒の 色にも出でば くちなしの 言はぬ心も 人見てましを
「寄酒歌」と題する歌。いわゆる「寄物題」、何か物に喩えて、思いを託して詠む歌で、酒に託して恋心を詠んでいる。ちょっとわかりにくいが一つ目は、酒に酔って平常心を失っているとは誰も知るまい、二つ目は、言葉では言わないが、酔った様子で心が見えるのではないか、くらいの意味であろう。
酒の歌は狂歌にはいくらでもあるのだが、長らく和歌では忌避されてきた。狂歌と和歌の境界ぎりぎりの歌を詠んでいる。和歌の範疇に踏み留まりながら旧来の和歌が閉じ籠もりがちな題材から敢えて逸脱しようとする。彼女の内部に新たな表現に挑戦しようという抑えがたい衝動がある。一見つつましやかで古典的に見える彼女の歌よりもはるかに広い世界を彼女が見ていたことはこれら酒の歌を見るだけでわかるし、彼女が明治の女流歌人コミュニティにいたたまれなかったのもそのためだ。
咲きにほふ 花にも酔ひて 澄田河 うつし心の 人なかりけり
隅田川の河原で一葉も皆と一緒に花を見て酒を飲み、酔っぱらって現し心を失って楽しんでいる。彼女は決して、すましてお上品な歌ばかりを詠む人ではなかった。
世の人は よも知らじかし 世の人の 知らぬ道をも たどる身なれば
明治天皇と樋口一葉、この二人は、時代の荒波に取り残された二つの岩礁のように、私には思える。一方は君主で男性、他方は庶民で女性。まったく異なる境遇にあり、おそらく全く没交渉だったのに二人の歌はどこか似通っている。この二人は典型的な明治人でありながら、同時に明治から自由だった。明治天皇の歌に対する、また一葉の歌に対する世の中の批評(というか誤解、あるいは無理解)も実に似通っている。明治という希有な時代に邂逅した人々はみな激昂し、その奔流に身を委ねた。一葉と明治天皇はだがどこか醒めている。明治を一個の過渡現象であると達観している。時代に流されようとも流されまいともせず、ただ受け流しているように見える。明治において二人はアウトサイダーであるが、もっと長いスパンでみれば彼らこそが本流であると私には思えるし、彼らもそれを自覚していたと思う。
歌人一葉が理解されないのは彼女が短命なばかりではない。新派歌人らにとって旧派に属する彼女が目障りだったからだ。しかも彼女は旧派のコミュニティからも浮いた存在だった。一葉の歌は黙殺され、その小説だけが森鴎外や幸田露伴らに賞賛され、研究されて今日に至る。
一葉と同じく明治天皇は、たった一人で歌を詠み、師や弟子、同輩とか歌詠み仲間と呼び得るような人間関係もなく何のコミュニティにも属していなかった。与謝野晶子に鉄幹という夫があったように、社会とつながりが強い男と一葉が結婚していたら、一葉の評価はまったく違ったものになっていたはずだ。一葉はそれを拒んだ。その結果貧苦に苦しみ、仲間からも見捨てられ、衰弱し結核を患い早世した。
天皇もまた御歌所派に属する一歌人であったか。それはあり得ない。正風と天皇の間にあった断絶は新派旧派間の距離よりも大きかった。
一葉は明治天皇より二十年遅く生まれ天皇より十六年早く死んだ。佐佐木信綱が大正元年に編んだ一葉歌集、これが私には恐ろしくつまらなくて仕方ない。昭和十六年、幸田露伴が監修し萩原朔太郎が責任編集した一葉歌集が出たが、これもまったくつまらない。どちらもつまらない歌ばかり拾い面白い歌をわざと落としているように見える。昨今メディアの切り取り報道がよく問題視されるが、一葉にしても、或いはその他の歌人、たとえば西行や定家にしても、どの歌を選んで歌集にしてどんな解題をつけるかで印象はがらりと変わってしまう。
昭和三十年に出た塩田良平・和田芳恵 編『一葉全集 第五巻 和歌』は一葉の仕事を網羅した歌集だが(後に筑摩書房から『樋口一葉全集 第四巻上下 和歌』が出ている)、これで彼女が遺した歌の全容を見るに(日記や随筆にも歌はあるのでそれらも含めて)、私は改めて世評に対し呪詛の如き反論を吐きたくなる。
佐佐木信綱は一葉を「その歌風は古今風桂園風の流れを汲み、その題目着想いづれも古を襲ひ、その作概ね題詠を出で」ず、「忌憚なく言えば、いわゆる囚われたる歌なりしなり、」「古来の題詠思想に閉じられおりしなり」(『一葉歌集のはじめに』)「大体において当時の旧派歌壇の作風で、今日の標準から判断すれば、もとよりその小説の如く光輝あるものとはいへない」(『一葉女史とその和歌』)などと旧派の歌だから全く価値はないと言う。
佐佐木信綱は明治天皇に対しては「忌憚なく言え」る立場になかった。彼の父佐佐木弘綱は高崎正風の師八田知則と同じく国学者であり桂園派であった。信綱自身も初期は桂園派の歌人であって父弘綱や小出粲ら、桂園派歌人に混じって『韻文学』『こころの華』などで活動していたが次第に桂園派から離れ新体詩や新派の中心人物になっていった。彼は一葉に過去の自分、或いは自分の祖先を見たのだろう。自己嫌悪あるいは同族嫌悪。それが彼の目を塞いだ。彼にとって一葉は訣別すべき、絶縁すべき過去だ。彼はおそらく一葉に対すると同じような感想を明治天皇にも持っていたにすぎないと思う。
萩原朔太郎も一葉を評して「その歌の大部分は類型的の形式文学であり、或る一定の調律と修辞学をおぼえ、規範された歌言葉と歌の作法さへ知って居れば、立ちどころに口をついて出るようなもの」などと切り捨てる(新世社『樋口一葉全集』「後記」)。幸田露伴が樋口一葉の大ファンであったことは疑いようもないが、露伴が絶賛するのは一葉の小説であって、露伴は一葉の歌にほとんど言及していない。塩田氏以下、今日まで多くの人が一葉の小説や日記について微に入り細を穿って研究し尽くしているのに和歌はほとんど放置されているのには呆れ返るしかない。和田氏も一葉が小説を書いていた時期だけを取り上げて「奇跡の十四か月」などと言う。それ以外は奇跡ではないのだろうか。なぜこのようなことが起きるのか。
人はつい一葉を与謝野晶子と比較してしまう。一葉は武家の娘で平素良家の子女を演じておらねば周りから浮いてしまう。当時歌道は、生け花や茶道など、子女が修養する習い事の一つに過ぎなかった。お堅い女史や刀自に弟子入りして、お座敷で「忍恋」「不逢恋」などのお題が出て、そつなく取り繕った歌を詠むだけ。そんな中でもともと生意気な娘だと目されていた樋口夏子こと一葉が紳士淑女が集う歌会の場で何か思わせぶりな恋歌を詠むのは不可能に近い。堺の和菓子屋の娘晶子ならば町娘らしく自由奔放な歌を詠むだろうけど。
秋の夜の 長きもさらに 短しと 思ふや恋の ならひなるらむ (恋長短)
花筐 数ならぬ身と 知りながら 目を洩るものは 涙なりけり (恥身恋。世阿弥作とされる能の演目、花筐にちなむか。筐は形見に通じる)
これらはどうみても実感のこもっていない一葉の題詠だが、こうした歌は京都祇園のお座敷で舞妓さんが気のない男からちょっかいをかけられたときやんわりかわすためのお愛想のようなもの、貴婦人のウィット、賢女の証であった。和歌にはそうした社交辞令の役割もある。
ことさらに 鳥の音早き 心地して まれに逢ふ夜の 明けやすきかな (恨短夜恋)
もろともに 見し夜のさらに 偲ばれて 火影も寂し 独り寝の床 (独寝恋)
まれまれの 夜離れを何に 恨みけむ 絶えてぞ人は 恋しかりける (絶後恋人)
書き交はす この玉章の なかりせば 何をか今日の 命にはせむ (通書恋)
契りしは 空憑めにて 今宵また つれなく人の 訪はじとやする (臨期違約恋)
行く末を など契りけむ 契りつる 今宵ばかりも 違ふ心を (臨期違約恋)
行く末は とまれかくまれ 絶えせじと 契りしことぞ 憑みなりける (憑恋)
契りおきし ことの葉のみを 憑りにて はかなき世にも 長らふるかな (憑恋)
秋風の 君が心に 立ちしより 野原の虫の 音をのみぞ鳴く (寄虫恋)
夢にだに 逢はむとはなど 祈りけむ 覚むればさらに 恋しきものを (夢後恋)
こうした歌は一葉の実体験に基づくものではあるまい。吉田兼好が高師直のために恋文を代筆したと『太平記』にあるのが代筆屋の濫觴とされるが、昔から能書家(手書)はしばしばそのような仕事を任されたのだろう。高師直は塩冶判官高貞という人の妻(『仮名手本忠臣蔵』によれば顔世御前という名)を横恋慕した。その人妻へ兼好が代筆した艶書にも歌は書かれていただろうが(原文は師直が考え、兼好は代書しただけで歌は無かったという見方もある。羽生紀子『世之介の恋文 ―近世都市文学としての再生―』)、女は恋文を見もせず庭に捨ててしまった。師直は兼好を逆恨みして彼を出入り禁止にしてしまう。怒りが収まらぬ師直のもとへたまたま薬師寺公義という家人が現れて、「高貴な人妻と言っても、慕われて悪い気持ちのする女などいません」とただ一首の歌だけ書いて再度届けさせた。その歌は公義の代詠であったのだろうが、
返すさへ 手や触れけむと 思ふにぞ 我が文ながら 打ちも置かれず
(あなたに読まれもせずに返ってきたこの手紙ですが、あなたの手が触れたかと思うと捨てる気になれません)という実に気持ちの悪いもので、女はこの文を見ると顔を赤らめて袖にしまい、ただ「重きが上の小夜衣」とだけ言って奥に入ってしまった。この「重きが上の」とは『新古今』釈教部に採られた寂蓮の十戒歌の一つ、「不邪淫戒」という題で、「さらぬだに 重きが上の 小夜衣 我が褄ならぬ 褄な重ねそ」という歌に由来する。「小夜衣」は夜具のこと。「褄」とは着物の端のことだが、重い夜具の上にさらに褄を重ね着するな、妻の他にさらに妾を持つなという意味がある。
塩冶高貞の妻と高師直が恋歌をやりとりしたように見えて、実は薬師寺公義と寂蓮が歌を詠み合っているところがちょっと面白いのだが、話はさらにこじれて、師直はついに塩冶高貞を殺害してしまう。その師直が敗死した二、三年後の祇園の勧請の田楽で土民や下女らが口ずさんでいた
月は見む 月には見えじ とぞ思ふ 憂き世に巡る 影も恥づかし
取れば憂し 取らねば人の 数ならず 捨つべきものは 弓矢なりけり
などという戯れ歌は逃れた薬師寺公義が師直に仕えたことを深く悔いて詠んだのだと、今川了俊が『落書露顕』に書いている。いずれも世の功名を忘れ身を隠そうというもの。この薬師寺公義という人を、さすがに私もこうして調べてみるまでまったく知らなかったが、彼は出家して元可と称し、『元可法師集』という私家集を遺しており、勅撰集にも六首採られていて中には面白い歌もある。例えば「苗代」という題で、
敷島の うたかた水を 堰き入れて たれ苗代に 種を蒔きけむ
など。独特の軽みと含みがある。南北朝時代の雰囲気を今日に伝える貴重な歌人の一人と言って良い。
時々話が脇道に逸れることをお許し願いたい。元禄頃まで京都では正月に懸想文売りという者が笹に文を付けて売り歩いたと言い(文芸資料研究会『変態十二史』)、戦後渋谷の道玄坂には恋文横丁なるものがあって、米兵へ送る英文の恋文を代筆したという。一葉もまた読み書きのできぬ遊女らのために艶書の代書をしていた。『伊勢』『源氏』の例を出すまでもなく、恋文には歌が添えられ、そうした歌がずいぶん一葉の歌集にも含まれていると考えて間違いあるまい。
一葉は結核に罹り死ぬまで「新開」(新しく開けた町)と呼ばれていた、小石川辺りの田んぼや沼を埋め立てた丸山福山町というところに住んだ。そこには銘酒屋と称する、表向きは小料理屋で淫売宿も兼ねる「あいまい茶屋」が立ち並んでいて、一葉が住んだ家の隣も「鈴木亭」という、そうした類いの店であった。その鈴木亭にお留という酌婦がいたが、彼女は男に遣る手紙の代筆をたびたび一葉に頼み、後に数寄屋町の芸妓になってもお留はわざわざ人力車に乗って一葉に代筆してもらいに来ており、『にごりえ』の主人公「お力」はこのお留がモデルになっているという(村松定孝『評伝樋口一葉』)。日記に「隣りに酒売る店あり、女子あまた居て客の伽をすること歌女の如く遊女に似たり、常に文書きて給はれとして我がもとに持て来る、ぬし(艶書の宛先)は何時もかはりてその数はかり難し。」とあって、
まろびあふ はちすの露の たまさかは 誠に染まる 色もありつや
完了の助動詞は「ぬ」にするか「つ」にするか、それとも「り」にするかでいつも迷う。「色もありぬや」でも良さそうな気もする。「ありぬ」「ありつ」和歌にはいずれの用例もある。過去の助動詞「き」や「けり」を使っても良いかもしれないし、何なら「けむ」「ぬらむ」「つらむ」「けらし」などを使うこともできる。このような表現の多様さは現代日本語にはないし、英語にも無いだろう。ここで「ありつや」は「そんなこともあっただろうかねえ」というあきれ果てたニュアンスが込められているように思う。「染まる」は原文のままだが、これでは現代語のように思える。これが他動詞なら「染むる」とすべきだし、自動詞として古語に徹するには四段「染む」に完了の助動詞「り」を続けて「染める」とすべきか。宣長に「桜花 深き色には見えなくに 血潮に染める我が心かな」(私の心は桜のせいで赤く染まってしまった)という歌があるが、この「染める」も口語ではないのでそう解釈せねばなるまい。
文法の話ばかりしても仕方ない。これは実に一葉らしい歌だ。というより一葉にしか詠めぬ歌だ。和泉式部のようなリアルな恋歌ではあり得ない。与謝野晶子もこのような歌は絶対詠まぬであろう。観念的だがお座成りな恋歌とも違う。人間観察から出た皮肉めいた歌だ。
蓮の葉を手で揺らしながら、その上で露がコロコロと転がって一つになったり二つに割れたりまたくっついたり。水の表面張力のなせる技だ。それがいちゃついている男女のようにも見える。露の色はいつも無色透明、女も男もただ戯れているだけなのだが、その露が万が一にも誠の色に染まることが(百人に一人くらいは本気で恋をしたことが)あっただろうかということをこのたった三十一文字で言い表した一葉の恐るべき技倆がおわかりいただけようか。「たまさか」「はちすのつゆ」はいずれも使われ過ぎるほどに使われてきた歌語なので、この歌を一見陳腐に見せる。
「たまさか」は普通「たまさかに」と言う。「たまさかには」の意味であろう。「まろびあふ」「まことにそめる」「いろもありつや」なども古歌に例がない(データベースで調べたくらいでは出てこない)。そしてこれらの句がもはやどの一句も全く手出しのできぬほど完璧に選ばれ配置されている。
手弱女が 釣りする糸に 魚ならで 引かるるものは 心なりけり (女ども川のほとりに遊ぶ)
「お力と呼ばれたるは、中肉の背恰好すらりっとして、洗ひ髪の大嶋田に新藁のさわやかさ、頸もとばかりの白粉も栄なく見ゆる天然の色白を、これみよがしに乳のあたりまで胸くつろげて、」「言はずと知れし此あたりの姉さま風なり。」「此家の一枚看板、年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく、我がまま至極の身の振る舞ひ、少し容貌の自慢かと思へば小面が憎いと、蔭口いふ朋輩もありけれど、交際っては存じのほかやさしい処があって」「面ざしが何処となく冴えて見えるは、あの子の本性が現はれるのであらう。」「さても近来まれの拾ひもの、あの娘のお蔭で新開の光りが添はった、抱へ主は神棚へささげて置いてもいいとて、軒並びの羨み種になりぬ。」とあるので、お留はそれなりに若くて美しい女だったのだろう。一葉はまたこの町で店の看板や行燈に字を書いたり、「手紙の代筆」の看板を出して商売にしていたというから達筆でもあった(長谷川時雨『一葉小説全集 附巻』「一葉評釈」。「千蔭流の筆を揮った」などと書かれている)。
人は与謝野晶子と樋口一葉の恋歌を見比べて「なんだ一葉の歌は全然つまらない、ただの題詠じゃないか」と考え、それ以上、一葉の歌を調べなかった。一葉は自ら縄張りした結界の中にいて歌を詠んだ。人はそれゆえ彼女を「囚われた」人とみなす。彼女の世界は自己完結しており、その情熱は密閉された圧力釜の中でのみ発光した。彼女が著した小説類は生計のため漏らした予熱に過ぎなかった。
一葉はわずか二十四年間の生涯で四千首余りの歌を残したが、その大半は詠草、題詠であり、あるいは数詠みである。そうした旧習を軽蔑する人には、一葉は十年一日、似たりよったりの歌ばかり詠んでいるように見える。果ては入江相政氏が明治天皇の歌を「類歌的な、あるいは同巧異曲のお作」で、「とにかく毎年毎年、全く判で捺したやうに同一の題でお詠みになってゐる。御修業とはいへ、どうしてあのやうにまでなされたものか理解に苦しむ」などと評するようになった。
今日、和歌鑑賞における問題の多くはこうした、歌を詠まぬ人、或いは、自分と異なる歌を詠む人に対する無関心無理解にあるように思える。読者の皆さんはとっくに理解しておられると思うが私は萩原朔太郎や佐佐木信綱に歌を見る目が無いと言っているのではない。彼らは一葉とは琴線の固有周波数が異なっていて一葉と共鳴しないのだ。題詠で数詠みした旧派の歌なんてものはみんな同じだと決めつけてしまうと、そこから秀歌を選び出す判定基準もない。日本人にとって外国人の顔が見分けがつかず、外国人には日本人がみな同じ顔に見えるというような現象と同じことなのではないか。
萩原朔太郎は明らかに和歌を(おそらく意図的に)誤解している。他の文芸はいざ知らず和歌は「立ちどころに口をついて出てくる」ものでなくてはならない。たった今生まれ出た感情をそのままの形で一切手を加えず新鮮なうちに瞬間冷凍したものが歌だ。長い時間こねくり回した粘土細工のようなもの、何度も何度も重ね塗りした油彩画のようなものは、それはそれでアートではあろうが、歌ではない。歌は即興性、速吟性を尊ぶ芸能なのである。
よく詩は思ったままを書けというが何も考えずに思ったことをそのまま書けば良いわけではない。思ったままを歌に詠むということ自体が高等技術なのである。刑事コロンボやマルサの女が人のほんのわずかな顔色の変化を読むのと同じで、訓練を積まなければできることではない。その芸を身に付けるために普段から類型を身に付け普段から絶え間ない修練を積む。反復練習していなくてはならない。和歌とは投手が投げた球をバットで打ち返すような一瞬の芸事なのだ。
居合抜きは何度も何度も刀を抜いて練習する。何のためか。演武の美しさを競うためか。見事に試し斬りしてみせるためか。今の居合ならばそうであろう。しかし居合の原型ができた戦国の世では違った。暗殺か。或いは咄嗟の反撃か。いずれにせよ一瞬の真剣勝負のために常日頃その型を練習したのである。和歌も同じだ。いつ霊感が降りてくるかわからない(或いは、いつ神に歌を詠めと命じられるかわからない、とでも言おうか)。居間でお茶を飲んでいるときか、線路沿いをぷらぷら散歩しているときか、風呂に入っているときかもしれない。いつその時が来るか予測はできない。そのいつ起きるかわからぬ場面のために普段から歌がさっと出てくるよう練習をしておく。私が見る限り明治天皇の歌はほぼ例外なくそうした即興の芸であり即吟の歌である。
居合に「横雲」「虎一足」「鱗返」「暇乞」など、いくつもの型があるように、即興で詠まれた歌にはほぼ確実に元ネタ(本歌)がある。型を練習するのは型どおりに動くためではない。型を元にそれを臨機に応用するためだ。本歌取りも同じである。「立ちどころに口をついて出てくる」詞は中身がない、ただのオウム返しだ、ということはない。それは和歌を知らぬか、知らぬふりをする人の言うことだ。
そして何も考えず咄嗟に出てくる詞は偽れない。本音が出る。真価が見える。入社面接に出される突飛な質問や、ジャズのインプロビゼーションなどの例を挙げるまでもなくおわかりいただけよう。
逆に、何度も推敲し呻吟苦吟してひねり出した歌であっても、そうしたそぶりは決して見せず、まるで今たまたま自然に口から出た言葉が歌になっていたかのようにみせかけることが、良い歌を詠む秘訣なのだ。技巧を凝らしたあとがちらちら見え隠れする歌など、はっきり言って人に見せるのが恥ずかしい。
往々にして良い歌は平凡すぎて初見では気づかず見過ごしてしまう。通り過ぎたあと、何か気になって引き返し、何度か口ずさんでみる。次第にものすごい歌だなと思えてくる。しかしではいったいどこが良いのか、どうしてもうまく言い表すことができない。本歌取りかと思い本歌を探してみるが、出てこない。西行はまさにこのタイプの歌人である。音楽もまたそうしたもので、何度も聞いているうちに耳に残って忘れられなくなる。
朔太郎は今日的視点からみれば滑稽なほどの西洋崇拝者である。あれほどまで無批判に西洋を信じられたとはある意味羨ましい(今も「出羽守」なる朔太郎の末裔をSNSの至る所で見ることができるのではあるが)。彼は言う、「時代の新人と呼ばれる人たちは、常に「西洋風の思想」と「西洋風の趣味」に生活してゐる。たとへそこに東洋思想や日本趣味やを主唱する人があつても、その思想のリズムは矢張り西洋臭い感情であり、つまり時代に対する時代の逆接を言ふに過ぎないのだ。もし全くさうでなく、純粋の古い日本人の感情で日本趣味を高唱する人――たとへば宮内省派の歌人等や、年寄つた旧式国学者等はその好例――があれば、世間は之を一笑して「古い」と認めるのである。」「現歌壇の古典主義には、何等さうした逆説的の意義がない。何等その精神に反逆的の熱情がない。そは単なる「物好きの風流」にすぎない。全く「時代的の意義」を持たない閑散余技の骨董趣味に過ぎない。およそ歌が今日の如く道楽的に堕落してしまつたことはない」(「尾上篤二郎氏に答ふ」)。なるほどこれは夢野久作が能楽について言っていることとまったく同じだ。
朔太郎にとって日本は厭わしく忌まわしいものであった。ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりに遠し、欧州は西方浄土であり東亜は余計に醜く見えた。
朔太郎の文芸活動が和歌から始まったことは世間ではほとんど語られない。明治三十五年、彼が十七で詠んだ歌「おち椿 ふみては人の こひしくて 春日七日を 倦じぬる里」「あけぼのの 花により来し そぞろ道 そぞろあふ人 皆うつくしき」「松落葉 ふみつつ行けば 里ちかし 朝靄みちに うすれうすれゆく」(『ひと夜えにし』)などには与謝野晶子の影響を見るし、その十年後に詠んだ「大磯よ 汽車に乗りたく なりたれば 海が恋しく なりたればきぬ」「怖れつつ 都をのがれ 海に来て 潮鳴る音に 心悲しむ」「死ぬること 思ふ哀しさ 生くること 思ふさびしさ 海に来て泣く」「海の音 ききつつ砂に 寝ころびて 空を見て居れば 泣きたくなりぬ」「砂山に まろびて我が 思ふこと 知れば鴎も 哀しみて鳴く」(『ソライロノハナ』)には明白に啄木の影響を認める。後に詩を作るようになっても「みづいろの窓によりかかりて われひとりうれしきことをおもはむ 五月の朝のしののめ うら若草のもえいづる心まかせに」のように和歌の如き古語を操り続けた。無意識か無視しようとしたかはともかく、彼もまた和歌を厭いながら和歌に囚われていた。
不幸なことに啄木、朔太郎となると彼らはどこかで和歌を憎み始めているようだ。朔太郎はそれを反逆、逆説と呼ぶ。過去を伐採してみせることを開拓と言い、焼け野原を新開地と言っているようにも見える。
朔太郎は昭和十七年、五十五才で死ぬ三ヶ月前に和歌を詠んでいる。
はかなしや 病ひ癒えざる 枕べに 七日咲きたる 白百合の花
この歌は「春日七日を倦じぬる里」に回帰しているように見える。彼は和歌を憎み呪いつつ実は歌人であり続けたかった人だったのかもしれない。
世の中に出回っている一葉歌集。どれもつまらない。どの解題にも一葉は小説は面白いが歌はつまらないと書いてある。選者、解説者はと言えば佐佐木信綱に幸田露伴に萩原朔太郎と錚々たる顔ぶれ。これでは誰もが一葉の歌はつまらないんだと思ってそれ以上調べない。もともと和歌を良く知らない人ならなおさらだ。恐ろしいことだ。
をちこちに 梅の花咲く さま見れば いづこも同じ 春風や吹く
楽しさに 里のわらべは 疾く起きて 若菜摘みにと 出づる春日野
さらでだに ひとり丸寝の さびしさに うちしめり降る 夜半の春雨
これらは一葉がわずか十二才(明治十七年)、中島歌子に入門する二年前に詠んだ歌だ。少女らしく初々しい、しかし一見幼稚でたわいない歌に見える。むろん模倣であろう。初心者の習作であろう。しかしこれほど古歌の様式を完璧に踏襲した近代歌人はいない。「いづこも同じ春風や吹く、」はて。これも誰かの真似だろうか。うん、確かに良暹の「いづこも同じ秋の夕暮れ」に似ている。しかし真似だとしても、なかなか簡単にこうは詠めない。楽しさのあまり里の子らは早起きして野に若菜を摘みに出る、などはまるでヨハンナ・シュピリの小説を思わせる。彼女はありとあらゆる詞を引き出しにしまっておいて、最もふさわしい箇所に最も効果的な詞を当てはめる人だった。西行は少し違う。彼は虚空に漂う詞を無造作に手掴みする人だった。
一葉に
鋤き返す 人こそなけれ 敷島の 歌の荒樔田 荒れに荒れしを
荒れぬとて ただに過ぎなば 敷島の 歌の荒樔田 誰か鋤くべき
敷島の 歌の荒樔田 荒れぬれど 濁らぬ方も あるべきものを
敷島の 歌の荒樔田 鋤き返し 昔の春は 誰か見すべき
などといった歌があるからには彼女は香川景樹の詠歌も歌論もそれなりに学び彼の生き方に感銘を受けていたはずだ。彼女は御歌所や桂園派を嫌っていたと思う。薩長閥という地位に安住し、美麗な凡歌を無自覚に堆積するばかり、それで反逆児景樹に共感していた。周囲の景樹崇拝者らとはまったく異なる態度だ。景樹の歌を真似るということは景樹に迎合することに他ならない。「和歌に師匠なし」と言った定家も決して後鳥羽院と馴れ合わなかった。一葉も自分の師や同僚と決して馴れ合わなかった。
自然の原野はいかに肥沃に見えても畑ではない。常に鋤き返して土壌に新鮮な空気を混ぜ込まねば土はたちまち窒息してしまう。過剰な施肥をすれば有用菌や益虫たちは死に生態系が狂ってしまう。和歌もまた同じだ。和歌は生きている。今は栄えていてもいずれ連作障害が起き土地が痩せ、畑にミミズがいなくなり雑草と害虫だらけになり土もカチカチに固くなる。一度耕作放棄地になってしまうと畑に戻すのに長い年月と手間ひまがかかる。宮廷歌壇は権威に阿る輩に占拠され判で捺したような凡作を量産した。生態系が偏り崩れ多様性が失われ生産力が衰えても誰も鋤き返し治療しようとはしなかった。皆が歌を詠み散らしたあげく桂園は収奪され尽くし荒れ果て、ついに飽きられ見捨てられた。誰も桂園派を顧みなかった、誰もその土壌崩壊を食い止めようとはしなかった。その能力も認識も無かった。一葉の危惧は現実となった。
一葉はことさら新しい歌を詠もうとも、ことさら古めかした歌を詠もうともしなかった。そして、新しさを追い求めるあまりに歌は時代とともに朽ちていくこと、逆に古めかそうとして新奇に陥ることを知っていたと思う。今自分がいる時代を疑い、自分を超えたいならば、現実に目眩まされない理性が必要だ。すべての時代のすべての様式を学び、そこに貫き流れている普遍性を抽き出すことで一葉は歌から時代の臭気や雑味を極力消そうとしている。
うなゐ児の 小川に流す 笹舟の たはぶれに世を 行く身なりけり
波風の ありもあらずも 何かせむ 一葉の舟の 浮き世なりけり
行く舟の 浮き世なりけり 折々は 波もこそ立て 風もこそ吹け
行く水の うき名も何か 木の葉舟 流るるままに まかせてぞ見む
果てしなき 大海原に 出でにけり やらばや小舟 波のまにまに
波風があろうとなかろうと気にしない。やはり一葉は、人がなんと言おうと、私は私、己のやり方でひたすら突っ張る人であった。物心ついたころからずっとそうだったに違いない。今ならアスペルガーとか自閉スペクトラム症とかADHDなどと診断されるところだ。同じような歌をひたすら大量に詠む数詠みも自閉的行為と言えるかも知れない。明治天皇にも宣長にも同じ傾向は明らかにあるのだ(一見無意味と見えるような単純動作を延々繰り返して陶酔し、没我の境地に至るのは数詠みもEDMも念仏も阿波踊りもみな同じだろう)。
「一葉」という号も、波が立ち騒ぎ風が吹き荒れる浮き世に漂泊するひとひらの木の葉舟のような生き方を表したものと知れる。一葉はそうした生き方が好きだったし、そういう生き方しかできなかった。そんな彼女に周囲の友や師はどうしてもお節介を焼きたくなって、飄々たる小舟を揶揄して、
波風の 荒き厭はで 世を経なむ 心に重き 錨下ろさば (三宅花圃)
大船の 安くのどけき 世なりとも 立つ波風は 心せよ君 (中島歌子)
世の中は 波の浮き寝に 似たりけり 心の外の 風もこそ吹け (田中みの子)
などと言った分別臭い歌を返して懸命に諭そうとしている。中島歌子の水戸学者然とした訓戒は現代人には滑稽ですらある。
大野晋も『日本語で一番大事なもの』で森鴎外のことは「あんな下手な擬古文はありゃしないですもの。」と言いつつ、「本居宣長の擬古文は間違いがなくてスラスラ読めるというだけで、巧みではないけど、樋口一葉はうまいですね。つやもあるし、間違っていないんです。」「一葉という人は言語のセンスのいい人ですね。」「文章としてちゃんとリズムがとれているにかかわらず、古文の文法からはずれていないですね。」と太鼓判を押している。彼女こそは大和言葉のネイティブスピーカー、平安朝からタイムスリップしてきた赤染衛門だ、とは少し褒め過ぎだが明治天皇でなければ樋口一葉の歌を真似ると現代人でも大和歌が詠めるようになるのではなかろうかと私には思える。