最後の桂園派歌人

ついでに柳田国男。

香川景樹と、彼を祖と仰ぐ桂園派は、まったくもって別物である。景樹と柳田国男の歌を並べて見比べてみたとき、ほとんど何の類似性も私には見いだせない。天保に大天狗呼ばわりされた奇人景樹が生んだ一派は明治にはそれと似ても似つかぬ上流階級の社交場に化してしまった。

今では題詠は軽蔑すべきものとみられているが、和歌の伝統からいえば、こうして口を馴らしておいて、何時でも必要な時に詠めるように訓練しておくのだった。つまり柔道の乱取りみたいなものである。それを何度もしているうちに、いよいよ自分がどうしても詠まねばならない辞世の歌とか、別れの歌とかを作るときに、すらすらと出るようにしておくのが、歌の道のたしなみであった。私どもが子供のころ、それを(うた)(くち)といっていた。

いわばお座成り文学という気持ちがあった。私ら後には、題詠でうんと練習しておかなければ、いざ詠みたいという時にも出ないから、そのために題詠をやるんだなんていったりした(柳田国男『故郷七十年』)。

人々は歌道を茶道や華道と同様に古典芸能と捉え、様式美の一つとして恋歌を詠んだ。かかる御座成り芸は景樹が最も強く戒めるものであったにも関わらず、桂園派は中島歌子や柳田国男のような秀才ばかりになり景樹のような破天荒な人はそこから離れて行った。桂園派の寿命は天保年間から戦後昭和まで百年ほどで尽きた。尖った歌論は摩滅し、岩盤のように固く体系化された室町歌学だけが残存し、人はみないつの間にかそれが師の教えだと思い込む。師は「荒樔田」を耕せと命じた。桂園派を自称する歌人の中で、師の教えに従って街を離れ荒樔に赴き、原野を切り開いて沃田と成そうとした者がいただろうか。景樹に共感しその教えを実践しようとしたのは、「鋤き返す人こそなけれ敷島の歌の荒樔田荒れに荒れしを」と嘆じた樋口一葉ただ一人があるだけに私には思えるのだ。

明治二十七年に与謝野鉄幹の『亡国の音』が出て、高崎正風ら御歌所派がやり玉に挙げられるより七年も前に、柳田国男は十三才ではやくも

(あさ)()()()宿(やど)(ちか)白雪(しらゆき)()もれる(なか)に にほふ(うめ)()

という歌を詠んでいる。また昭和三十年、八十才の時、歌会始に召人として

新年(にひとし)(きよ)若水(わかみづ) ()()げて さらに(いづみ)(ちから)をぞ(おも)

という歌を出詠している。生まれてから老いるまでずっと彼ほどの人が、どうしてこんな古臭い題詠に固執したかと多くの人は怪しむだろう。ところが驚くべきことに、国男も新体詩に影響されたのか、若者らしい恋歌を詠んでいた一時期があったのである。

一目(ひとめ)()て はや(こひ)しきは この()なる えにしのみには あらじとぞ(おも)

()()でて ()夕暮(ゆふぐ)れも なかりけり (きみ)がすまひの まどのともし()

()(がき)の ひまより()ゆる ともし()(きみ)(きぬ)()ふ あたりなるらむ

たれこめて (きみ)もものをや (おも)ふらむ こよひは(こと)(おと)()こえぬ

さらぬだに (こころ)(のこ)る ふるさとに (きみ)をおきても (わか)るべきかな

(かぎ)りなく (かな)しきものは (おも)ふこと ()はで(わか)るる (わか)れなりけり

初めて出会って、一目惚れして、許されぬ恋に悩み、恋人を故郷に残して別れるというストーリー仕立てになったこの連作「まどのともし火」を一篇の新体詩として見る人もいる。完全なフィクションだろうがモデルくらいはいたのだろう(子規にお陸さんがいたように)。

或いは「利根の夜舟」という歌、

利根川(とねがは)()(ぶね)のうちに あひ()つる 香取(かとり)乙女(をとめ)は いかにしつらむ

或いは、「花かげ」と題する、今様風の新体詩、

()まれ()(こま) (はな)かげに ()(おも)(ひと)(こゑ)すなり
(くるま)のうちは ()えねども ()()()ぶなり ひそやかに
(くるま)(さき)()(うま)もやれ (われ)(あゆ)まむ (はな)かげを
うれしき(きみ)に ともなひて おぼろ月夜(づきよ)をたどりつつ
をとめはつひに ささやきぬ 家路(いへじ)はとほき 夕暮(ゆふぐ)れも
(きみ)にたよりて ()(とき)は おぼつかなくも なかりけり
(はな)()()も さかりなる こよひばかりは せめて(きみ)
うれしと()はむ つひに(われ) (たもと)(かわ)()てずとも
(はな)()くたびに (おも)ふべし (つき)()るごとに (おも)ふべし
よしやこの()は とく()けて また()(はる)は とほくとも
七日(なのか)(つき)も かたぶきて もりのあなたに なりにけり
()(たの)しみも ()きぬべし いかにやすべき いかにせむ

陰暦で七日の月とは上弦の月で、深夜零時に沈む。「いかにや すべき いかに せむ」は『史記』「項羽本紀」「()()()()柰若何(なんぢをいかんせん)」を思わせる。これらの詩を作ったのがあの柳田国男とはにわかに信じ難い、と同時に非常に感心する。国男が『草庵集』の愛読者であることは既に述べたが、確かに国男の恋歌からは頓阿の口振りが、軽口が、頓知が聞こえてくる。『草庵集』と国男の恋歌には明らかに類似性が認められる。恋歌からわざと感情を消そうとするところなどよく似ている。

柳田国男は明治八年生まれ。新体詩の流行は既に明治十年代に始まる。新派和歌が現れるのは明治三十年代からである。国男が右のような歌を詠んでいたのは明治二十年代のことだ(樋口一葉の作家活動期間とおおよそ一致する)。やはり国男は新派和歌よりも新体詩に影響を受けて自分の和歌を作り変えていったと思える。彼はしかし明治「三十二年を過ぎると詩作の筆を折るに至る」(来嶋靖生『森のふくろう : 柳田国男の短歌』)。与謝野晶子が明治三十四年に『みだれ髪』を、明治四十三年に石川啄木が『一握の砂』を出すよりも前に。ちなみに国男の代表作『遠野物語』は『一握の砂』と同じ年に出ている。和歌において新派運動が盛んになるにつれて彼は逆に詩歌への情熱を失い、代わりに民俗学に傾斜していく。来嶋氏は言う、

国男は自らの作った新体詩を過去の「事実」と思われたり、詠んだ恋歌を「真情」とみなされたりすることを極度におそれ、『定本』に新体詩を収めることを峻拒し、短歌においても、作品としてリアリティの高い恋の歌「まどのともし火」六首を、用心深く削除しているのである。

国男のこの自己韜晦(とうかい)には、多くの柳田研究者の苛立ちがあるが、私も同感である。その苛立ちにはおよそ二つのポイントがある。ひとつは国男の相聞歌や新体詩に歌われたことが、果たしてすべて空想であり、フィクションであったか、ということ。もう一つは事実であってもなくても、その文学上の評価は別だということに、なぜ国男ほどの人が分別を示さなかったか、ということである。そしてこれらの韜晦が、かえって多くの憶測を生み、国男の望まぬ非文学的関心を高める結果になっていることも否定できない。

「なぜ国男ほどの人が分別を示さなかったか、」そう思うのは単なるブンガク至上主義に過ぎまい。明治天皇の恋歌もまた厳重に秘匿されている。されていないはずがない。もし明治天皇が国男のような夢見がちな青年で、「香取乙女はいかにしつらむ」などという歌を詠んでそれが外に漏れでもしたらたちまち「香取乙女」探しが始まり、どれほどの騒ぎに発展するかもしれぬ(「香取乙女」の歌は『定本柳田国男集』にも載っている。余りに作り話めいているので間違う人もあるまいと思ったか。しかしではなぜ「まどのともし火」だけ削ったのだろうか)。もし柳田国男が兄のように寄人となって、田山花袋の『蒲団』のような破廉恥な、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』のようなスキャンダラスな和歌や新体詩を詠んでいたら、和歌の世界に新派と旧派の垣根をぶち壊すような業績を残し得たかもしれない。しかし彼はそうした新時代の旗振り役になることを拒んだ。歌人としての彼は少年の日に完成してしまっていた。それはあまりにもかっちりと整っていて、てそれを新しい時代に合わせて自在に作り変えることができなかった。そういう自由創作というものに不器用な人であったかもしれない。それゆえ歌以外のこと(文芸ではなく、民俗学などの学術的なこと)に自分の才能を向けてそちらで世の中に認められることにした。

柳田国男は「文学の両面」なる文で、「歌や文学は」「いわゆるロマンチックなフィクションで、自分で空想して何の恋の歌でも詠める」と言う人と「自分の経験したことでなければ詠めない、あるいはありのままのことを書く真摯が文学だという近ごろの人々のいうような側」の両面があって、国男自身はフィクションの側であると断言している。「やっと二十そこそこの若い者にそうたくさんの経験がある気遣いはない。」「われわれのような男には露骨に男女の情を表すようなことは、実際生活にはあり得なかった」、「フィクションが一種の情操教育になった」、「後になって子孫に誤解せられたりすると、かなり困ることになる。」「後の世になると事実と空想の境がはっきりしなくなって、これをしも真実の告白と思われてはたまらない。」などとしつこく言い訳している。本当のところはどうなのだろう。「連中の詩は西洋の系統から来て居るので、胸の中の燃えるようなものをそのまま出すのが詩というものだと考えていた。」果たして西洋だけだろうか。日本にだって、『伊勢物語』や『源氏物語』、小野小町や和泉式部のような系統があるではないか。「胸の中の燃えるようなものをそのまま」詠んで何がいけないのか。孝明天皇も「漕ぎ出でて行き来の人の浮かれ妻」などと遊女の歌を詠んだりもしている。やかましくなったのは明治に入ってからで、それまでは天皇もおおらかに恋歌を詠んでいたのではなかったか。

やはり柳田国男の言っていることは荷田春満に似てどこか矛盾している。何かを懸命に隠し否定しようとしている。自己韜晦、つまり本音を理屈や建前でごまかそうとしている。私には到底彼の言うことをその言葉通りに受け取ることができない。文学に「両面」はもちろんある。それはしかしゼロとイチの二値ではない。フィクションと真情が渾然(こんぜん)としていて何がいけないのか。

詠歌によって思わず知らず自分の本音が出てしまう。自分の知らない、理性で制御できない自分が出てくる。腹の皮が裂けて(はらわた)がこぼれ落ちるような、胸に手を突っ込まれて魂をひっこ抜かれるような感覚。それこそが歌に備わる魔力だが、それに気付いて柳田国男は詩歌を自ら封じた。正岡子規もまた同じ理由で恋歌を封印したのであったかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です