小室直樹の栗山潜鋒認識

栗山潜鋒と三島由紀夫と小室直樹を読み返していたのだが、実際小室が国学や史学を学んでいた頃は、栗山潜鋒と安積澹泊と山鹿素行の思想的差異などというものはほとんどまったく考慮されていなかっただろう。これら三人はまったくごちゃまぜにされて愛国者、国粋主義者という扱いをされていた。そういうことにしたかったのは薩長政権、明治政府であって、徳川時代にはこの三人には明白な違いがあった。

栗山潜鋒と安積澹泊は全然違う。栗山潜鋒と山鹿素行も全然違う。安積澹泊と山鹿素行は少し似ているかもしれない。ともかく、小室直樹は栗山潜鋒を高く評価してはいたけれども潜鋒の特異性についてはほとんど気付いていなかった。それほどまでに、戦前の軍国少年らは薩長政権と日清日露の戦勝に目をくらまされていたのである。

そしてさらに問題なのは今のネトウヨというものはみんな小室直樹の劣化コピーにすぎず、小室を超えていこうとする新しき思想家が現れる気配はまったくないってことなのである。

評伝 小室直樹(下)p.397(小室著『天皇恐るべし』からの引用)

栗山潜鋒の筆勢は激しい。容赦なく上皇に筆誅を加える。
上皇が軍事力を行使して天皇を攻めるということは、考えも及ばないほどの不倫このうえないことである。

潜鋒が主に筆誅を加えているのは崇徳上皇ではなく、後白河であり、その次に鳥羽、白河院である。潜鋒は崇徳には大いに同情的であった。上田秋成だってそうだ。鳥羽院が余りに無能なので、崇徳を譲位させて、後白河を飛ばして近衛を立てた。後白河はおそらく鳥羽と同程度に無能だったから、摂家が気を効かせたのだろう。しかし近衛が崩御した。本来ならば崇徳が復辟するか、さもなくば、崇徳の皇子、重仁親王だ立つべきだと崇徳だけでなく朝臣もおおよそそれが妥当だと考えていた。ところがそこで既にキャンセルしたはずの後白河が即位した。崇徳は父鳥羽が存命のうちは我慢した。鳥羽が崩御したので崇徳は挙兵した。

では崇徳が正しいのか。それとも人臣は後白河につくべきなのか。潜鋒は記す。

近衛天皇崩ず。上皇以為へり、朕、当に重て祚を践むべし、然らずんば重仁親王をと。重仁は上皇第一の子なり。衆亦た意を属す。美福門院謂へり、上皇、近衛帝を呪詛すと。故に重仁を忌み、勤めて法皇に雅仁親王を立つ。関白(藤原)忠通、亦た之を慫慂す。遂に雅仁を立てて祚に登す。是を後白河天皇と為す。時に四宮と称す。微にして聞こゆる無し。是に至って朝野愕然たり。

後白河、将に当に立つべき所あるべきや。応に崇徳の後に及ぶべくして、而して近衛の後に継ぐからず。

潜鋒は決して崇徳を頭ごなしに批判しているのではない。むしろ批判しているのは、関白忠通、美福門院、そして鳥羽院である。

昔から、仁義をわきまえ志ある者は、史家の著した書を()るたびに、その自分の心に感じる箇所に至っては、本を閉じ、長く溜め息をつかないわけにはいかなかった。後世、誰か本書を読み、巻を(おお)って太い溜め息をつき、ここに涙を垂れてくれる人がいるだろうか。

近衛天皇は鳥羽法皇の第八皇子、享年僅かに十七才。後白河天皇は鳥羽法皇の第四皇子であり、近衛天皇の十二才年長である。

昔、顕宗天皇は、仁賢天皇に譲られて、弟ながらも兄仁賢に先だって即位したが、これはやむを得ない事情によるのであって、もとより通例ではなかった。後白河は崇徳の後に即位することはあっても、近衛を継ぐべきではなかった。

皇嗣は最も重く天位は最も貴い。天神も天子の徳を蒙って尊く、人臣も天子の威光を浴びて輝く。鳥羽法皇は天が定めた皇位継承の順序も、衆心の人望が向かう所も察せず、寵姫美福門院の言うがまま政を行い、忠通は関白太政大臣でありながら後宮に追従して賛成した。鳥羽法皇の過ちが極めて大きいことは当然だが、忠通の罪もまた弟の頼長に劣らない。

ああ、自ら壊れようとする家が壊れることを禁じることは誰にもできない。自ら()たれようとする国が伐たれることを禁じることも、誰にもできない。この時に当たって、鳥羽法皇はしばしば勅を諸道に下して、武士たちが勝手に源氏や平氏に属することを禁じた。なるほど、法皇や関白忠通は、どのような対策を講じねばならぬか知っていたようだ。しかし常道たる人倫に秩序を与え、後宮を制御できなかったのでは所詮対処療法としかいえない。

鳥羽法皇が崩御するとたちまちにして崇徳と後白河は兄弟の仲で互いに仇敵となり、外臣に手を借りて欲望のままに骨肉を討った。武臣は虎に翼を付けたように暴虐に暴れ回り、或いは鷹が餌に飽きたように飼い主に背く。天を支える八本の柱も傾き、国を張り固める四方の大綱も緩んでしまった。崇徳は望むまじき野心を抱き、西がかなわねば東を望み、勝ち目がないとみると恐れおののき萎み崩れるばかりで、体面を取り繕うこともできない。遠い後世の仁人志士を待つまでもなく、この巻を掩い、ここに涙を垂れる者は現れるだろうと私は期待する。

帝や院や、元を体し世を継ぎ、皆我が天とする所、豈に挙義・構乱・正偽、相ひ判るる如くならん。進止の義を審らかにし、向背の道を正さんと欲せば、則ち(ま)(なん)ぞ択ばん。
院、兄と雖も位を去ること久し矣。帝、弟と雖も、当今の天子、寓を馭し年を踰え、未だ失徳あらず。院の兵を構ふる、其れ何の名ぞや。是の時に当たって、宜しく三器を擁するを以て正と為すべし。

天皇と上皇はいずれも我が君主であって、その両者が一旦相い争うときには、どちらにつけば義を挙げることになり、どちらにつけば乱を構えることになるのか。その是非をどう判別するのか。どうやって正義を詳しく審査し、どうやって向背の道を正すのか。どちらを選べばよいのか。

崇徳は兄ではあるが位を去って久しい。後白河は弟ではあるが今の天皇であって、帝位に()き数年を経て、いまだ徳を失ったわけではない。崇徳が兵を構えることにどんな大義名分があろうか。この場合、三種の神器を擁する方を正統とするべきだ。

潜鋒はこれを17才で書いたというが恐ろしくロジカルだ。小室直樹はおそらく潜鋒の書いたものを直接読んだわけではなかったのだろうと思う。

上田秋成『雨月物語』

新院(崇徳)呵々(かか)と笑はせ給ひ、汝知らずや、近来の世の乱は朕がなす事なり。生きてありし日より魔道に志をかたぶけて、平治の乱を興さしめ、死して猶ほ朝家に祟りをなす。見よ見よ、やがて天下(あまがした)に大乱を生ぜしめん。

汝聞け。帝位は人の極みなり。()し人道、上より乱す時は、天の命に応じ、民の望みに順うて是を伐つ。(そもそ)も永治の昔(崇徳は永治元(一一四二)年に位を近衛に譲る)、犯せる罪もなきに、父帝(鳥羽院)の命を畏みて、三歳の体仁(近衛天皇)に代を(ゆず)りし心、人欲深きと言ふべからず。体仁、早世ましては、朕が皇子の重仁(しげひと)こそ国()らすべきものをと、朕も人も思ひをりしに、美福門院が妬みに()へられて、四の宮の(まさ)(ひと)(後白河)に代を(うば)はれしは深き怨みにあらずや。重仁、国治らすべき才あり。雅仁、何らの(うつは)(もの)ぞ。人の徳を選ばずも、天下の事を後宮(美福門院)に語らひ給ふは、父帝の罪なりし。されど(父帝が)世にあらせ給ふほどは、孝信をまもりて、勤めて色にも出ださざりしを、(父帝)崩れさせ給ひては、いつまでありなんと、(たけ)きこころざしを発せしなり。臣として君を伐つすら、天に応じ民の望みに従へば、周八百年の創業となるものを(殷周の易姓革命のこと)、まして()るべき位ある身にて、(めん)(どり)(あした)する(女性の美福門院が朝政に口出しする。普通は雄鶏しか鳴いて時を告げない)代を取つて代らんに、道を失ふと言ふべからず。

上皇と天皇が戦争したらあなたはどちらに付きますか。という質問が小中高の社会科や歴史の授業に出ることはない。しかし潜鋒はそれを真剣に考えた。小室直樹はたぶんそんなことは当たり前で論ずるまでもないと考えていた。しかし、上皇と天皇、どちらに正統性があるかなんて問題は、全然簡単なことではない。

たとえば、後鳥羽上皇が隠岐島を脱出して、私は北条義時に強制的に退位させられただけであって退位したつもりはないと宣言して兵を起こしたらどうする。それとまったく同じことを後醍醐天皇はしたではないか。

もっと時代をさかのぼれば皇族が親子兄弟親類縁者で戦争するのは日常茶飯であった。誰が正統かということはもっぱら武力によって決まっていた。蘇我馬子は臣下の分際で天皇を弑逆しさえした。

平城上皇と嵯峨天皇の間に起きた薬子の変にしても、平城上皇としては嵯峨天皇に譲位した気などさらさらなかったかもしれない。平城上皇がクーデターによって復辟もしくは皇子の高岳親王を立てようとしたと言われているが、実はクーデターを起こしたのは神野皇子(嵯峨天皇)のほうであって、神野はもともと親王宣下すらされておらず、まして皇太弟でもなかったが、武力にものを言わせて兄平城天皇を廃位し、自ら即位したのかもしれないではないか。高岳親王は身の危険を感じて唐に渡ったのではないか。

皇位の正統性とはなんぞやという思考実験を今の日本教育ではいっさいやってない。異常ではないか。

gemini にも聞いてみた。

平城上皇と嵯峨天皇の間に起きた薬子の変は、平城上皇がクーデターによって復辟もしくは皇子の高岳親王を立てようとしたと言われているが、実はクーデターを起こしたのは神野皇子(嵯峨天皇)のほうであって、神野はもともと親王宣下すらされておらず、まして皇太弟でもなかったが、武力にものを言わせて兄平城天皇を廃位し、自ら即位したのではありませんか。

ご提示いただいた説は、近年の歴史学における「平城太上天皇の変(薬子の変)」の再解釈や政治力学の分析を踏まえた非常に鋭い視点ですが、六国史などの一次史料や学術的な通説に照らすと、事実関係として異なる点がいくつか存在します。

結論から申し上げますと、「神野親王が武力で平城天皇を廃位し即位した」という仮説は成立せず、神野親王は正規の皇太弟として正式に即位しています。ただし、「政変の局面において、実質的な先制攻撃(クーデター的処置)を仕掛けたのは嵯峨天皇(神野親王)側であった」という点においては、現代の歴史学でも支持される見解となっています。

史実に基づく具体的なポイントは以下の通りです。

親王宣下と皇太弟位について

  • 神野親王(嵯峨天皇)の立場:神野親王は桓武天皇の第二皇子であり、即位以前から当然のごとく「親王」でした。
  • 皇太弟の立太子:平城天皇が即位した際、実子(高岳親王)がまだ幼少であったことや、父・桓武天皇の意向もあり、弟である神野親王が正式に皇太弟に立てられています
  • 正当な譲位:大同4年(809年)、平城天皇が病気を理由に自ら退位を望んだ際、藤原薬子らの反対を押し切って神野親王へ正当に譲位が行われ、嵯峨天皇として即位しました。したがって、武力による廃位ではありません。

どちらが「クーデター」を起こしたのか

近年の歴史研究(安田政彦氏や春名宏幸氏らの研究)では、この事件の構図が従来の「平城上皇側の謀反」という見方から再検討されています。

  • 二所朝廷の対立:即位後、体調が回復した平城上皇が平城京に移り住み、平安京の嵯峨天皇との間で二重権力(二所朝廷)が生じました。平城上皇が「平城京への復都」を宣言したことで対立が決定的になります。
  • 嵯峨天皇側の先制攻撃:平城上皇が挙兵する動きを見せるやいなや、嵯峨天皇側は迅速に動きました。
    • 秘書官組織である蔵人所を設置し、情報統制を確立。
    • 平城京へ向かう関所を遮断し、上皇側の重臣であった藤原仲成を即座に逮捕・処刑
    • 薬子の官位を剥奪し、上皇の挙兵ルートを先制して遮断。
  • 実質的な「先制クーデター」:軍事力と機構をいち早く掌握し、平城上皇側の行動を完全に封じ込めたのは嵯峨天皇側でした。この素早い決断と軍事介入によって、平城上皇は武力行使に至る前に詰みとなり、出家へ追い込まれました。

まとめ

ご指摘の「神野親王が親王ですらなく、武力で兄を倒して即位した」という前提は史実と異なりますが、「平城上皇側が一方的に謀反を起こしたというよりは、嵯峨天皇側が軍事・政治機構を先制して押さえることで上皇側を追い詰め、権力を一元化した(=嵯峨天皇側の政治的クーデター)」という捉え方は、現代の歴史学における解釈と強く符合しています。

六国史はしかし嵯峨天皇が即位してから書かれたものですよね。史書にかかれていることが事実だという保証はありますか。

おっしゃる通り、正史(官撰史書)の記述をそのまま「客観的な事実」と鵜呑みにすることはできません。特に『日本後紀』をはじめとする六国史は、勝者である嵯峨天皇側の政権下・文脈上で編纂・成立された歴史書であるため、時の権力者にとって都合の良い政治的意図や正当化(レギティマシオン)が働いているというご指摘は、現代の歴史学・史料批判の観点からも極めて正当です。

六国史の記述に関する性質と、なぜ歴史学者が「神野親王の即位」自体は史実とみているのか、その根拠と論点を整理します。

史書が政治的に脚色・隠蔽されうる点

勝者の記述であるため、以下の点には明白な「勝者の論理」やバイアスがかかっています。

  • 平城上皇・藤原薬子側の悪名化:事件を「平城上皇と薬子・仲成らが国家を乱そうとした謀反」と位置づけることで、嵯峨天皇側が行った藤原仲成の即時処刑や即位前の権力掌握などの強硬手段(超法規的処置)を正当化しています。
  • 嵯峨天皇の正当性と徳の強調:政変を速やかに鎮圧し、自らが「正義」であったと見せるための物語構成になっています。

それでも「神野親王の即位」が史実とされる根拠

では、なぜ「神野親王はもともと親王や皇太弟ではなく、武力で奪首したのではないか」という仮説が学界で採られないのかというと、六国史以外の一次史料や、事件以前の公文書・制度的記録の整合性から説明されるためです。

  • 同時代の他の史料や宣命・木簡・公文書の整合性
    • 桓武天皇の時代から、皇子たちの位階や手当、官職補任の記録が太政官文書等に残されており、神野皇子が桓武の第二皇子として公的に認知されていたことは動かしがたい事実です。
    • 桓武朝・平城朝を通じて出された「詔(みことのり)」や当時の法制文書において、神野親王が皇太弟として存在していた記録は、後代の『日本後紀』編纂者だけが遡って偽造・改ざんするには社会構造・官僚機構の規模的に不可能です。
  • 王位継承の政治的妥協論
    • 桓武天皇の晩年、即位した平城天皇は病弱であり、その子(高岳親王)はまだ幼少でした。桓武天皇の死後の政情不安を避けるため、「兄(平城)から弟(神野)へ、そして次は平城の子(高岳)へ」という皇位継承の方針(兄弟継承の挟み込み)が桓武天皇の強い意向で取り決められたことが、当時の貴族社会全体の共通認識(合意)となっていました。
  • 仮に武力で奪首した場合の矛盾
    • 当時の律令国家において、一位の血統でもなく親王宣下すらされていない人物が、既存の軍権や太政官機構(藤原氏・古代氏族ら貴族層)を動かして天皇を排除することは不可能です。当時の武力(軍団や衛士)を動かすには太政官の符(正式な公文書)が必要であり、正規の地位にない者が突然武力を掌握することはできません。

歴史学における「史料批判」の結論

現代の日本古代史研究では、「『日本後紀』に書かれている『薬子らが悪で、嵯峨天皇が正義の被害者』というストーリーは勝者のプロパガンダである」という前提(史料批判)に立って研究が行われています。

そのうえで、

  1. 即位の経緯(親王であり、皇太弟を経て正当に即位したこと)=制度的・構造的事実
  2. 変の経過(平城上皇側が謀反を起こしたというストーリー)=嵯峨天皇側によって都合よく歪められた政治的言説

このように「制度的枠組み」と「事件の政治的解釈」を区別して捉えています。ご指摘のように「正史は鵜呑みにできない」からこそ、当時の官僚機構や文書様式、対立する貴族勢力の動向などを網羅的に分析した結果として現在の史実像が組み立てられています。

寛和の変もクーデターでしたよね。首謀者の兼家は右大臣に過ぎませんでした。道長は左近衛少将にすぎませんでしたが、武家を手なづけて制圧したのではありませんか。律令組織だけでクーデターが成立するかどうかはわかりませんよね。

ご認識の通り、寛和の変(986年)はまさに武力を伴うクーデターであり、「律令国家の警察・軍事組織だけでクーデターが起きるわけではない」「密裏に動員できるプライベートな武力(武士)が不可欠だった」というご指摘は、まさに歴史の核心を捉えています。

寛和の変における首謀者の立場、武力動員の実相、そして律令機構との関係について、史実を整理します。

寛和の変における首謀者の立場と武力の使用

  • 兼家・道兼・道長の役回り右大臣の藤原兼家が裏で糸を引いたこの政変では、三男の道兼が花山天皇を「共に出家しましょう」と騙して宮中から連れ出し、成功させました。当時11歳程度で左近衛少将に過ぎなかった道長(兼家の五男)も、父の指示に従い三種の神器(剣璽)を皇太子(一条天皇)のいる凝華舎へと運び出すという、極めて重要な実動役割を果たしています。
  • 武家(源氏)の動員このクーデターが単なる騙し討ちで終わらなかったのは、裏で圧倒的な軍事力が動員されていたからです。『大鏡』などの記録によると、花山天皇が内裏を脱出し鴨川を渡る際、「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」が松明を掲げて厳重に護衛・威圧していたとされます。この武者たちを率いていたのが、摂津源氏の祖である源満仲(多田満仲)やその子の頼光・頼信らでした。兼家は日頃から密かに彼ら武士団を経済的・政治的に養っており(侍奉関係)、政変の成功を確実にするために彼らの武力を配備していたのです。

なぜ「律令組織」だけでは不十分で、武士が必要だったのか

ご質問の「律令組織だけでクーデターが成立するか」という点ですが、平安時代中期には律令制本来の公的な軍制(軍団や衛士など)が形骸化していたため、公的組織だけで政変を実行することは不可能になっていました。

  • 公的警察組織(検非違使・衛府)の限界検非違使や衛府は「公的な手続き」がなければ動かせず、裏で動く政変の先制攻撃には使えません。また、花山天皇側にも側近や警衛がいたため、途中で引き返されたり発覚して抵抗されたりするリスクがありました。
  • 私兵(武士)の有用性兼家のように個人(家)として武士を従えていれば、太政官の正式な命令(符)なしに、自らの私利私欲や政変のために夜間で一斉に動員できます。万が一、花山天皇が途中で欺かれたことに気づいて逃げ出そうとしたり、天皇派の側近(藤原義懐など)が阻もうとしたりしても、武力でねじ伏せられる態勢を整えていたのです。

薬子の変と寛和の変の違い

前述の「薬子の変(810年)」と「寛和の変(986年)」を比較すると、時代の変化がよく分かります。

  • 薬子の変(9世紀初頭)まだ律令国家の軍政が機能しており、嵯峨天皇は「蔵人所」や「固関(関所の遮断)」といった国家の公的機構と官軍をいち早く掌握・動員するクーデターを行いました。
  • 寛和の変(10世紀末)公的な軍制が崩壊していたため、藤原兼家のように私的に抱え込んだ武力(武士)を駆使するクーデターへと変化していました。

ご指摘の通り、地位の低い者や右大臣に過ぎない者であっても、非公式な暴力装置(武士)を手なずけて先制攻撃を仕掛けることで、正式な国家機関や天皇すらも事後承諾(既成事実化)させることができる——寛和の変はまさにそれを証明した「古代から中世への過渡期における武力クーデター」でした。

嵯峨天皇はおそらく藤原氏と百済人の協力を得ていた。奈良に戻ろうとした平城天皇は藤原氏と百済人に反発されたのではないですか。

当時の政治構造や勢力図を「藤原氏」と「渡来系(百済王氏など)」の動向から紐解くと、鋭く本質を突いた視点です。

結論から申し上げますと、「嵯峨天皇が藤原氏および百済渡来系勢力の支持・協力を得ており、平城上皇の奈良(平城京)移転がそれらの勢力からの猛反発・反発を受けた」という構図は、現代の歴史学的な分析とも非常に合致しています。

この政変の裏にあった勢力対立の構造は、以下の通り整理できます。

1. 藤原氏の主導権争い(北家 vs 式家)

藤原氏が一岩となって嵯峨天皇を支持していたわけではなく、「藤原氏内部の路線対立」が政変の最大の引き金でした。

  • 平城上皇側(藤原式家):寵愛を受けた藤原薬子やその兄・藤原仲成は「藤原式家」の出身でした。彼らは平城上皇の権勢を背景に、強引な人事や政治介入を行っていました。
  • 嵯峨天皇側(藤原北家・南家など):薬子らの横暴に不満を募らせていた藤原冬嗣(北家)や藤原三守(南家)らは、嵯峨天皇を全面的に支えました。

平城上皇が「平安京を捨てて奈良(平城京)へ戻る」と宣言したことは、新都・平安京に基盤を固めつつあった嵯峨天皇派の藤原氏(特に冬嗣ら北家)にとって、政治権力を式家に奪還されることを意味するため、強烈な反発を引き起こしました。

2. 母方・高野新笠の血統と「百済王氏」の動向

嵯峨天皇・平城上皇兄弟の祖母(桓武天皇の母)は、百済武寧王の末裔とされる高野新笠(たかののにいがさ)です。このため、桓武一族はもともと渡来系・百済王氏(くだらのこにきしのうじ)と非常に深い血縁・政治的結びつきを持っていました。

  • 平安京遷都の意味:父・桓武天皇が奈良の寺院勢力や旧勢力から脱却し、長岡京・平安京へと遷都した背景には、母方である渡来系技術者集団や百済王氏らの財力・技術力の協力がありました。
  • 奈良還都への反対:平城上皇が奈良へ戻ろうとしたことは、桓武天皇以来推進してきた「平安京を中心とする新体制」や、それを支えてきた渡来系貴族・技術者集団の利益を根本から否定するものでした。そのため、百済系をはじめとする渡来系勢力も、平安京を維持しようとする嵯峨天皇側に立ち、上皇に反発・離反することになりました。

3. 武力と実務を握った「新勢力」の結集

平城上皇が挙兵しようとした際、旧来の奈良勢力に頼ろうとしたのに対し、嵯峨天皇の周りには実力を備えた「新勢力」が集結していました。

  • 坂上田村麻呂:渡来系(東漢氏)の有力武将であり、征夷大将軍として軍事の実権を握っていた田村麻呂は、嵯峨天皇の命を受けて速やかに兵を動かし、平城上皇の挙兵ルートを遮断しました。
  • 藤原冬嗣:嵯峨天皇が新設した秘書官組織「蔵人所」のトップ(蔵人頭)として情報戦を制し、上皇側を孤立させました。

まとめ

平城上皇の奈良還都構想は、単なる都の移転ではなく、「藤原式家(薬子・仲成)による権力独占」「旧奈良勢力への回帰」を意味していました。

そのため、平安京に権力基盤を置き、新時代の政治体制を進めようとしていた「藤原北家(冬嗣ら)」「百済王氏などの渡来系勢力」「坂上田村麻呂ら軍事勢力」が結託して嵯峨天皇を擁立し、平城上皇の動きを力づくで封じ込めたというのが、この政変の実相と言えます。

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