宣長の和歌趣味

中根道幸も「宣長さん」で、宣長が選んだ「古今選」を分析して、これを「二条派の目で拾われた定家なのである。」とし、「宣長さんの定家観には歪みがあるのではないだろうか。」「宣長さんと定家と共通性なし」「定家の言を金科玉条とし、詠歌を古今独歩とする宣長さんは、何を見ていたのだろう。」「宣長さんが同じく敬する俊成についても同様のことがいえる。」などと、宣長と定家の歌の関連性について疑問を呈している。

結局、宣長の和歌趣味というものは、父方の小津家、母方の村田家らが属していた歌詠み仲間の社交場、伊勢松坂樹敬寺の塔頭、嶺松院で催された歌会のレベルを超えていくものではなかった。彼が生涯詠み続けた歌というものは、彼の親戚らが詠んでいた歌の再生産に過ぎなかった。宣長の定家観がまったくトンチンカンなのもそれでうまく説明が付く。定家は床の間に飾られた色紙に過ぎない。正しい定家認識などというものは、歌会における遊興には邪魔でしかない。いわば、田舎のゲートボール場で勝ち負けを競うおじいちゃんおばあちゃんにとって、プロゴルフ界などほとんど何の意味も無いようなものだ。

もちろん宣長は超一流の国学者であるから、歌学を論じることもあったが、革新的な歌道を興そうとか、歌学の発展に寄与しようなどというだいそれた野望はまったくなかったと言い切ってよかろう。

宣長と仏教

小林秀雄は『宣長』第十一章で、「彼の学問への興味は殆ど万学に渉っていた」「殆ど無秩序とも言える彼の異常な好学心」「彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をしてきた」などと言っている。若き日の乱学乱読が次第に収束していって、最終的に宣長は「古事記」研究にたどり着いた、小林はそう言いたいのだろう。宣長は一見、勝手気ままに、興味の赴くまま、手当たり次第なんでも学んでいるように見える。『玉かつま』などのエッセイを読むとますますそう思えてくるが、ほとんどすべての人がそうであるように、宣長もまた、その学問も趣味も、その根本命題はすべて彼の幼少時の家庭環境から発しているように見える。

宣長はもともと単純素朴な仏教徒であり神道家であった。そこに、荻生徂徠などの儒学者から、仏教批判、神道批判があった。儒者にとって神仏習合は迷信にすぎない。直接的な批判を受けたのは他でもない、宣長が京都遊学中に教えを受けた堀景山その人であった。

師堀景山から自らの信仰を守るため、宣長特有の国学、そしてもののあはれ論が形成されていった。彼は決して仏教を捨てなかった。宣長にとって真の敵は古文辞学であったが、古文辞学は国学にとっても極めて有効だから、それを巧みに偽装し鎧った。彼の古事記研究も、もののあはれ論も、歌学も、すべては堀景山、賀茂真淵、そしてその背後にいる荻生徂徠と出会ったことで、歪み捻じ曲がり、理解困難なものにした。

宣長のもののあはれ論は明らかに浄土思想である。浄土宗では、はかなくおろかなことは、浄土に生まれ変わるために必要な、尊いものなのである。浄土宗では愚者こそ往生すべき、救済されるべき存在である。宣長はすなおに、仏教徒としてそれを主張すればよかったのだが、彼はすでに自らを国学者と規定していたから、神道や国学の味付けで、仏教色を出さずに、もののあはれ論を説くしかなかった。

実際、宣長の釈教歌には優れたものが多い。彼が阿弥陀仏信仰、すなわち浄土思想に心酔していたのは明らかだ。

みづからの 力及ばぬ 末の世に 誰かは弥陀みだを 頼まざるべき
とにかくに 思はで頼め 往生は 弥陀の力に うちまかせつつ
つひに行く 道はたがはぬ 世の中に 遅れ先立つ ほどぞ知られぬ

宣長の父方、小津家を見るに、「道印」「道喜」「道樹」などの「道号」が非常に多くみられ、中には宣長の祖父「唱阿」のように「阿号」の者もいる。これは、この家系が熱心な仏教信者であったことを意味している。一方で母方の家系には、伊勢神道(外宮神道)系で出口延経(本姓は度会氏)門下の随徳、また垂加神道系で、浅見絅斎門下の寅斎などがいる。宣長自身が名乗った名には「宣長」の他に「栄貞」「春庵」などがあって、決して仏教的でも神道的でもなかったのは、父方と母方と両方の影響を受けてどちらかに片寄ったわけではなかったからかもしれない。

私自身、祖母から物心つかぬ頃に、「帰命無量寿如来(きみょー、むりょー、じゅーにょーらいー) 南無不可思議光(なーむーふーかーしーぎーこー)」などと唱えさせられたことをいまだに覚えている。父方も母方も一族郎党皆が熱心な浄土宗信者であれば、宣長本人もどっぷりとその空気に浸かってしまうに決まっている。

宣長は一言も浅見絅斎には言及していないはずだが、宣長の国粋主義が崎門学に由来するとすればいろいろと腑に落ちるところがあるのである。小林秀雄は神田生まれのシティボーイなので、そういう抹香臭いことには疎く、宣長もまた、都会の少年のように、漫然と多方面に関心を持ったのだと思ったのではないか。小林はまた、山崎闇斎や山鹿遡行には多少言及しているが、浅見絅斎にはノーマークだったように見える。

香川景樹と閑院宮家

丸谷才一、鹿島茂、三浦雅士「文学全集を立ちあげる」に、香川景樹を閑院宮家が庇護している、という三浦雅士の発言がある。これはおそらく、景樹が妙法院宮真仁法親王(閑院宮家の皇子)の歌会で、妙法院宮が出した「いつはりの夕」と言う題に、

来(こ)むと言(い)ふを 待(ま)たじと言(い)ひし この暮(く)れの 我(わ)がいつはりも 苦(くる)しかりけり

と即興で返して一座を驚嘆させたという逸話(山本嘉将『香川景樹論』)によるのだろう。妙法院宮真仁法親王は光格天皇の異母兄である。この二人の父は閑院宮典仁親王であって、典仁親王が香川景樹を贔屓にしていたのはほぼ間違いない。そして光格、仁孝、孝明、明治天皇が、従来の堂上和歌、御所伝授から外れて、香川景樹の影響下にあったと言う仮説も十分成り立ち得る。

真仁法親王はもともとは小沢蘆庵の門人(?)であったらしい。蘆庵が冷泉為村に破門され太秦に移り住んでいたころ、真仁法親王は蘆庵の家を訪ねているという。景樹と蘆庵は懇意であったから、それで景樹は真仁法親王の歌会にも呼ばれたのであろう。

明治天皇の和歌指南役であった三条西季知などは堂上であったと思うが、堂上の間でもすでに桂園派が広まっていたということはあり得なくもない。

列聖全集第11巻、第12巻辺りに御製が収められているから、今度よく見てみよう。

なお尊号一件だが、典仁親王に太上天皇号を与えないと松平定信が決定した理由は、定信が朱子学に凝り固まっていたからではなく、おそらくは後桜町上皇と閑院宮家との確執のためであろう。典仁親王が上皇になれば後桜町上皇と対等ということになり、それが後桜町上皇には耐え難かったのだろう。傍系の天皇が即位してその父に院号を与える例はあるが、与えなかった例は(太上天皇号の制度が出来て以来)無いと言ってよい。定信がそれを知らぬはずがない。それ以外に定信がこだわらねばならぬ理由が見つからない。定信がすべての責任を負う形で、老中の職を辞したとみるべきだ。

淳仁天皇(天武の孫)の父は舎人親王だが、舎人親王には「崇道尽敬皇帝」という尊号が贈られた。太上天皇という号は持統天皇からであって、それ以前に既に、即位しなかった父に遡って尊号を贈るということは行われていたのである。これが果たして平和裏かどうかはともかく、天皇の父に尊号を贈ることはほぼマストだったといって良い。

ウィキペディアには後桜町上皇が

「御代長久が第一の孝行」と言って光格天皇を諭したことは有名である。このように朝廷の権威向上に努め、後の尊皇思想、明治維新への端緒を作った光格天皇の良き補佐を務めたことから、しばしば「国母」といわれる。

などと書かれているが、こんなことはまったく信用できない。典仁親王の足を引っ張ったのは後桜町上皇その人であろう。後桜町上皇に恨みがあったのは確かだが、彼女がなぜそこまでごねられたか。おそらく彼女は皇室財産を相続する正統な権利を持っていたからだろう。その財産を処分するなどと言われたら大変なことになる。或いは典仁親王と後桜町上皇の間で財産分割が行われることになり、それが嫌だったのかも。

闊歩する漱石

丸谷才一の「闊歩する漱石」が kindle unlimited だったので読んでみたのだが、これはひどい本である。

良い本はその人の悪いところがわかりにくいが、悪い本を読むとその人の本性が如実に見える。

まず、漱石とタイトルに謳いながら、漱石のことはほとんど書いてない。これが単に、よくある丸谷才一のエッセイ集であれば、まあそういうもんだろうと全然腹は立たなかっただろうが、漱石の本かと思って読むと、全然関係ないことばかり書いている。

次に、「坊っちゃん」と「三四郎」と「吾輩は猫である」この三つの作品のことしか書いてない。「坊っちゃん」は単なる娯楽小説、落語小説なので、おもしろいっちゃ面白いかもしれないが、別に大の大人が読むようなものではないし、ましてわざわざ論評するようなものでもない。「猫」に至っては

「大和魂やまとだましい! と叫んで日本人が肺病やみのような咳せきをした」
「起し得て突兀とっこつですね」と寒月君がほめる。
「大和魂! と新聞屋が云う。大和魂! と掏摸すりが云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸ドイツで大和魂の芝居をする」
「なるほどこりゃ天然居士てんねんこじ以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。
「東郷大将が大和魂を有もっている。肴屋さかなやの銀さんも大和魂を有っている。詐偽師さぎし、山師やまし、人殺しも大和魂を有っている」
「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」
「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇あった者がない。大和魂はそれ天狗てんぐの類たぐいか」

この箇所だけ原文を丸ごと引用して、この箇所以外にはほとんど何も言及すらしていない。丸谷は、あまりにも左翼思想に凝り固まっているために、それ以外の箇所はまったく見えてもいなし、論じる価値さえ感じないらしい。

おそらくこの本は、出版社から漱石のことを書いた本を書けば売れそうだから書いてくれと言われて、やる気も興味もなくて、適当に書いたというようなものに違いない。あまりにも売れないから unlimited で出したか。「闊歩する漱石」なんなんだよそのタイトル。誰がなんのためにそんなタイトルを付けたのだ。実に人をバカにしている。

amazon のレビューもみてみたが、裏竹秋という人が私と同じようなことを書いて☆1つ付けていた。敬意を表して引用させてもらう。

脱線に継ぐ脱線
Reviewed in Japan on November 14, 2023
小林秀雄と同じ穴の狢で評論失格である。
まったく冒頭の「坊つちやん論」もどこが漱石論なのかというほど、大半が日本と西洋の小説の列記の列記で占められている(!)。穴埋め、水増し。たくさんの蘊蓄を語って結局何も言っていない。
しかも肝腎の、フィールディングに影響を受けたのではないかという説も確たる証拠があるわけではなく、《無意識に作用》だの《頭のどこかで引っかかってゐた》だのフロイドみたいな感想ごときものばかり。
だいたい初めからして《読んでゐない人はゐないし》って、私の友人は『坊つちやん』読んでませんでしたけどね。『フィネガンズ・ウェイク』の箇所はへーって思ったけどさ。

改めて丸谷才一という人がどんな小説家だったかということを考えてみるに彼は敗戦直後の左翼全盛期の日本でその波に乗っかって一過性の作品を書いてその界隈で一定の評価を受けた人、そのあとなぜか国語教育とか国文学に口出ししたけれど、よくよく読んでみると全然間違っていた人、小林秀雄を批判しながら自分も小林秀雄と似たりよったりだった人としか言いようがない(無関係なことを延々と書くという意味では小林秀雄よりひどい)。小林多喜二や葉山嘉樹は歴史に残るかもしれぬが丸谷才一は残るまい(残る必要すらないと思えてきた)。「エホバの顔を避けて」は好きだが、あれも旧約聖書の焼き直し以上のものではないしな。

亭子院歌合2

亭子院歌合 謎すぎる。

左の頭、女六宮、方の親王、御兄人の中務の四の親王、弾正の五の親王

wikipedia を信じるならば、女六宮は宇多上皇の第六皇女、誨子内親王であろう。

歌詠みのほかに、右または左に付いて応援する人がいたらしい。それを方の人、方の親王というのだろう。御兄人の中務の四の親王は敦慶親王、弾正の五の親王は敦固親王として問題あるまい。

亭子院とは主催者の宇多上皇の居宅であると同時にその人そのものの呼び名であったはずだ。

右の頭、女七宮、方の親王、御兄人の上野の八宮、清和貞数の八宮

女七宮は宇多上皇の第七皇女、依子内親王であろう。上野の八宮とは敦実親王、清和貞数の八宮とは、清和天皇の皇子、貞数親王の第八皇子かとも思えるが、貞数親王は清和天皇の第八皇子だったので、貞数親王本人のことだと考えるのが無難だと思う。清和天皇は摂家に極めて冷遇された人だから、貞数親王の皇子だと親王宣下はされていないだろうし、まして第八皇子で親王ということはまずあり得ない。

「御」「院」とあるのは宇多上皇のことであろう。

かくて左方に上の御心よりたりとて、右方の皇子恨みきこえさせたまふと聞こし召して
行き帰り 千鳥鳴くなる はまゆふの 心へだてて 思ふものかは
左も右もこれは合はずなりける

明らかにこれも宇多上皇の歌である。右方の皇子とは敦実親王のことだろう。

敦慶、敦固、敦実は醍醐天皇(敦仁親王)の実母弟であって、当時最も権勢があり、敦実が兄、敦慶敦固に文句を言ったということは普通にあり得るし、それを父の宇多上皇が歌を詠んでなだめたというのも、父子の情愛のうちであった。

しかるに、貞数親王はかなり血が遠い。清和天皇は妃藤原高子によって陽成天皇に譲位させられ、水尾の里に幽閉され、30年前に崩御しており、貞数親王は当時すでに38才と当時としては壮年であったから、かなり遠慮はあったに違いない。

また亭子院歌合は女房の伊勢が日記に書き残したものであり、記憶違いや書き間違い、欠落などが多かったと思う。

宇多上皇の歌はあまり残っていないが醍醐天皇と同じくらいには歌がうまく、かつ即興でいくらでも詠めたらしいことがわかる。

「はまゆふ」は葉が重なり合って育つので、幾重にも重なる意味に使われる。「はまゆふの いく重ねとも 知られざりけり」「はまゆふの 重ねてもなほ」「はまゆふの 百重なす心は 思へども」などなど。はまゆふの葉のように重ね重ね配慮しているよと言いたいわけである。