最後の推敲

本を書いているということ、本が出版されることを心待ちにしているということが、私の人生の、それ以外のものごとすべてをつまらなくしている一番の要因、少なくとも要因の一つであるのは確かだと思う。本を書くことに比べるとそれ以外のことにはもう慣れてしまい飽きてしまい疲れてしまった。

昔は新宿の雑踏の中を歩くことすらワクワクして楽しさを感じていた。渋谷でJRから東横線に乗り換えたり、目黒で目蒲線に乗り換えることさえ楽しかったが、今はただ面倒なだけだ。

とにかく都会を歩き回ることが厭で仕方ない。人と何かの接触をしなくてはならないことがストレスにしかならない。

同じ仕事を30年間続けることがこんなに苦痛だとは思わなかった。私の同僚たちは定年退職した後もなんらかの形で続けたがっている人しかいないのだが、私には信じられない。もう私は飽き飽きした。

本を書くことも次に、今私の関心事の二番目は定年退職後死ぬまでの時間をどうやって暇つぶしするかということだ。これは本を書くということとかなり密接な関係がある。本を書いてさえいればたぶん気は紛れる。

今回の本が売れなければもうどうしようもない。売れなくても注目されることはあるかもしれない。そのどちらもないのに書き続けるのはバカげている。そこまでして私はこの世に奉仕したいのではない。

本を書く気はまだまだあるがもう本を書くことはなくなるかもしれない。それが怖いので今は最後の推敲に励んでいるといえる。ますます他の仕事がばかばかしくなる。

今度出す本(題名はまだ決まってない)

今度出す本なのだが、今月中にはたぶんゲラが返ってくる。多少手直しというか加筆はするだろう。これが私としては最後のチャンスだと思っている。これが売れなければ要するに私の書いたものなどこの世に需要が無いのであるから、もう人のためとか世の中のためとか、いくらがんばっても無駄であるから、あとは自分のことだけ考えて余生を送ろうと思う。

もし私が死んだ後に再評価されるようなことがあったとしても、すでに書くべきことは書いてあるからこれ以上書かなくてもよかろうと思う。

今の時代1万部売れれば売れたうちである。5千部でもよい。そのくらい売れたら死ぬまでほそぼそ執筆活動は続けよう。千部2千部とかだと極めて微妙。

世の中の人は吉田松陰とか浅見絅斎とか山鹿素行のような威勢が良くわかりやすい人が好きだ。しかしいまさらそういう人の本を書いたとしても、みんながすでに書いているから読まれるはずもない。結局私が好きだったのは、本居宣長と頼山陽だったのだと思っている。中学生の頃から漠然とした憧れはあった。この二人は、みんな名前は知っているが実際に読む人はいない。栗山潜鋒もそうだ。実際に読む人はいない。

小林秀雄にしても小室直樹にしても、丸谷才一にしても、生きていた頃の勢いと比べてると、死んでしまうと全然読まれていないし、理解も評価もされていない。吉行淳之介とか安岡章太郎とかはどうだろうか。中学生の頃、私はけっこう読んでいた。今、吉行淳之介の書いたエッセイなど読むとすごくいやらしい感じだ。そりゃまあそうだろう。私ももう60過ぎで、彼が若い頃に書いたものを読むと、それだけで嫌な気分になっておかしくない。自分が若い頃書いたものを読むのも厭だけどね。

逆にたとえば三島由紀夫なんかは今もカリスマ的人気があり、外国人も読んでいたりする。現象的にはそちらのほうが好ましいが、私は三島由紀夫は好きでもなんでもないし、そんなすごいとも思っていない。やはり、40代までに書いた文章という気がする。いや、年寄りの文章だから面白いとは全然限らないのだが。何が言いたいのだろうな。

ま、ともあれ、私はまだ全然歴史に名を残すようなところまではいってない。ウィキペディアの記事にすらなっていない。せめてそのくらいやってから死にたいものだが。

私は、藤原定家と本居宣長と頼山陽は見切ったと思っている。この三人がわかれば、日本の歴史と文芸と思想は全部わかるはずだ。その自信はある。逆にこの三人がわからんのにあれこれうだうだ言っている連中はみんなダメだ。ということが理解されれば私の本は自然に売れるだろう。というか私はまずそのことを書ききらなくてはならない。

エウドキア再説

エウドキアを再びいじり始めたのだが、これがいろいろややこしい。問題がありすぎる。

まず、Εὐδοκία Μακρεμβολίτισσα。日本語のウィキペディアでは、1021年に生まれ、1050年以前にコンスタンティノスと結婚し、夫コンスタンティノスは1059年に東ローマ皇帝に即位して Κωνσταντίνος Ιʹ Δούκαςとなり、夫が1067年に亡くなると女帝となり、1096年に死去したとある。しかし英語のウィキペディアでは彼女が生まれたのは 1030年頃であろう、Some authors give her a lifespan of 1021–1096, but this is not corroborated by other sources.(裏付けが取れてない)などと書かれている。

1050年以前に結婚したというのはエウドキアの長男Μιχαὴλ Δούκας が1050年頃に生まれたとされるからだろう。これまた実に不確かである。

彼女の長女 Θεοδώρα Δούκαινα が生まれたのは 1058年と確定しているらしい。

もし1021年に生まれて1050年に結婚したのであれば29才、かなりの晩婚となる。1040年頃にすでに結婚していたとなればまあ辻褄は合うとしてその場合10年間子がいなかったことになり、これまた不自然である。

英語版ウィキペディアには、コンスタンティノスには前妻があったが子はなかったという。By his first wife, a daughter of Constantine Dalassenos, Constantine X Doukas had no issue. これもあやしい。

コンスタンティノスはイサキオス1世コムネノスに仕えていたのだが、コンスタンティノスはイサキオスに信任されて彼の後継となる。コムネノス家とドゥカス家には姻戚関係があったのではないかと疑うのが自然だと思う。つまりコンスタンティノスの前妻はコムネノス家の女であったか、或いは、ウィキペディアにも書いてあるようにダラッセノス家の女だったすれば、コムネノス、ダラッセノス、ドゥカスの3家は、婚姻関係で結ばれていたのだろうと考えるのが自然だ。

コンスタンティノスがエウドキアと結婚した理由はエウドキアの叔父Μιχαὴλ Κηρουλάριος がコンスタンティノープル総司教になったからに違いない。彼が総司教になったのは1043年だった。エウドキアとその叔父ミカエルの関係については英語版ウィキペディアに次のように書かれている。

Eudokia Makrembolitissa was the daughter of John Makrembolites and a maternal niece of Michael I Cerularius, the patriarch of Constantinople, whose sister Keroularie had married Makrembolites.

つまりエウドキアの父はヨハネス、母の名は知れないがケールラリオス家出身で、ミカエルはその兄弟に当たる。

ローマカトリックではローマ教皇を神の代理人としたが、ギリシャ正教会では東ローマ皇帝を同様に神の代理人とした。そのためイコンには皇帝には後光が描かれている。神の代理人たるローマ皇帝になるにはコンスタンティノープル総司教による承認が不可欠であっただろう。だから慌てて血縁関係になった。

コンスタンティノスとエウドキアが結婚することになったのは、イサキオスが死ぬときにコンスタンティノスを後継者に指名した時ではないのか。エウドキアもコンスタンティノスと同様再婚であり、エウドキアの子とされるミカエルやテオドーラなども実はどちらかの連れ子であった可能性が高い。

テオドーラが生まれたのはコンスタンティノスが即位する1年前である。かなりきわどい。

テオドーラがドメニコ・セルヴォと結婚するのは 1075年。17才。マラズギルトの戦いは 1071年なのでその 4年前。時系列が狂ってるとシャレにならんのでちゃんと確認しないとね。

テオドーラは1083年死去。25才。ドメニコは 1087年死去。

ドゥカス家とコムネノス家はイサキオスとコンスタンティノス以後長らく東ローマ皇帝の地位を世襲することになったのだが、おそらくコムネノスには武力があり(或いは広大な土地を持つ領主)、ドゥカス家には財力(おそらくは海運業)があった。ドゥカスが東ローマで勃興する理由は他には考えられないのである。

私が書いているものはフィクションなので必ずしも史実に沿う必要はなく、史実があやふやならばなおさら、仮説を立てて書いて良いわけである。実は既に『エウドキア』は、最初に生まれたのがアンナ、次に生まれたのがテオドーラで、この二人はコンスタンティノスの前妻が産んだ連れ子という設定になっており、その後二人の間にミカエルが生まれたという設定になっている。またミカエル(ややこしいが叔父の方のミカエル)が総司教になったと同時に、ハギア・ソフィアの隣に住んでいて後妻を探していたコンスタンティノスがエウドキアを見初めて結婚したということにしてある。

ウェブ版「エウドキア」のアイキャッチ画像の背景はハギア・ソフィアなのだが、よく見ると壁にアラビア文字が描かれた円盤がある。もとはもっと目立つ所にもあったのだが消させたがまだ残っていた。AIはまだこんなにバカなのだ。これ以上修正するのがめんどくさいので放ってある。

見切り

私が公務(?)というか本業(?)というか、ともかくそれまで自分がやってきた仕事に見切りをつけて、趣味の仕事(?)というか個人的な仕事というか、和歌のようなものに本腰を入れ始めたのが 2009年くらい44才の時だった。小説をめったやたらに書き始めたのもそれ以後だし、藤原定家の本を書かせてもらったり、ヨハンナ・シュピリの初期作品集など翻訳をやったりもした。32才の時に転職してから私の人生は全然違う方向へ向かい始めたのだが、46才で大病を患った後はほぼ全然違う、もうひとつの人生みたいになっていた。そういう意味では絵は子どもの頃から描いていたし、和歌は18才くらいから詠もう詠もうと努力していたので、今もあまり変わらずに続いている趣味であって、あとどのくらい生きるか知らないがたぶん死ぬまで続けると思う。

映画のようなものはとうてい一人では作れないのだが小説ならば一人でものすごく壮大な話も作れると思い、小説を書いていたのだけど、最近は AI に頼めば自分の小説を原作に映像作品くらい作れるんじゃないか、すくなくとも、挿絵くらいは全部描き直せるんじゃないかなどと思ったんだが、いい加減疲れてきた。まあ無理だなと思い始めた。

初出・初版一覧 など見るに特務内親王遼子もまた 2013年頃に書いている(この年 kdp が始まった)。遼子もまたそれなりに思い入れのある作品だが、最初から挿絵をCGで描いたりしていた。今これをAIに全部描き直してもらおうかなどと考えていたのだが、全然ダメだ。元絵があるからそれをAIに見せれば描けるかと思ったが、元絵があるからこそ全然気に入るようにならない。まず、キャラクターの顔が固まらない。毎回違う顔になる。だんだん設定がズレていく。丸椅子が四角い椅子に変わったりする。夢の中ではよくある話だ。とにかく全然ダメ。

word文書 (.docx) を pタグと rubyタグだけのシンプルな html に変換したいと思った。そうすれば wordpress の html 編集でそのままもってこれるからだ。gemini に頼んでも chatgpt に頼んでもできるという。ネットでググってもできるという記事しかないが、全然出来ない。たったこれだけのことがいまだにできない。もしかすると1文字ずつルビがふってある場合はルビと認識できるのかもしれない。2文字以上まとめてふってあるとルビとして認識できないとかなんかそういうややこしい事情があって、できるものもあればできないものもある、.docx からコピペしただけでできるときもあればできないときもあるという、できるんだかできないんだかどっちでもない状態。AIも同じだ。できるんだかできないんだかどっちかよくわからん状態。

もうほとほといやになった。あと数年もすれば、或いは十分に課金すれば、遼子を映像化できるんじゃないかという期待もあったが、今は文字作品としての完成度を上げることに集中して寝かせておこうと考えている(完璧な小説を書いておけばそのうち誰かが映像化してくれるかもしれない。自分で見ることはできなくとも)。もう60才を過ぎたので、今から新しいことを一から始めるよりも、今まで作ってきたものを保全して完成に近づけるだけで手一杯だ。2013年頃に戻ってしまった。

rubyタグを使っているのは日本人くらいなのだろう。だからいつまでたってもバグがとれない。AIもまじめに取り組まない。やれやれ。

AIというものを相手にしてみて、監督というものはずいぶん厄介な仕事なんだろうなと思い至ったりもした。

定家の禅

あいかわらず「はかもなきこと」を整理しているのだが、定家の禅、定家の禅2、定家の禅3。「虚構の歌人 藤原定家」はもともと「定家の禅」というタイトルにする予定だったなどと書いていて、全然忘れてて我ながらびっくりしている。当時執筆しながら悩んでいたことと今書いていて感じていることが、ほとんど同じなのにも呆れる。

「絞り切れてない」「膨らませるのが苦手」というのは一つのテーマ、一人の評伝に集中して書きたいのだが、いろんなことをついでに書いてしまって、それで300枚とか文字数が増えて、話が拡散してしまって良くないなどと言っている。

丸谷才一など、しばしば本題とは関係ないことを書き散らかしているのをみると、ずいぶん殊勝なことを言っているようにも思えるが、あっちは売れっ子作家でなんでも良いから書いてくれと言われて書いてるのだろうから自分とは比べようもない。300枚というのはざっと10万字くらいのことを言っているのかと思うが、今から思えば分量としては全然少ない。

「定家の禅」というタイトルでもう一冊定家について書けるかと言われると、ちょっと難しい。結局私は一人の人間の評伝を書くというタイプではないのだ。

「評伝 小室直樹」上下巻。圧倒的である。公私両面微に入り細を穿つとはああいうものをいうのだろう。評伝としてはあれ以上のものは書けまい。

私が書くならもっと違う構成になると思う。

「ソビエト帝国の崩壊」「アメリカの逆襲」この2つは紛れもない名著である。がしかしおかしなこともたくさん書いている。これら以外は、まあ、普通か。小室直樹は、山本七平やマックス・ヴェーバーの影響が強すぎる。ヴェーバーの説にしても一つの仮説、学説に過ぎないのにそれを真理であるかのように書く。山本七平のいう空気とか急性アノミーについても、うまく社会現象を説明できているようにみえて実際にはそうともいえない。

小室直樹の栗山潜鋒認識はかなりおかしく、浅見絅斎や山鹿素行、安積澹泊などと混同している。これらすべては平泉澄の受け売りに過ぎず、自分で一から崎門学を身に着けたわけではないからだろうと思う。この平泉澄の影響というものが小室直樹を大きく歪めてしまっているのは否定しようもない事実だ。

「保建大記」は、谷秦山が異様なほど絶賛している書籍。谷秦山を、平泉澄博士は、最高の尊王学者と評価している。
「評伝 小室直樹」下 p.358

ここがおかしい。学者や学説というものは絶賛したり最高に評価したりするものではない。どんな学説も問題究明の途中経過に過ぎない(数学や自然科学ならば最終結論 or 一旦解決というものはあるかもしれないが)。まして学者を崇拝してはいけない。この態度が根本的に間違っている。谷秦山はどちらかといえば普通の凡人、単なる努力家である。崎門学などを信じている時点でたかが知れている。彼はあれほど丁寧克明に「保建大記」を解説してみせたけれども栗山潜鋒の主張や執筆動機についてはほぼ何も理解していなかった。それを崎門学的に解釈しただけだった。

小室直樹は、日本史だけでなく世界史についてもその認識はかなりあやしい。宮崎市定などとは雲泥の差だ。

しかしながらここまでおかしなことを言っているのにも関わらず、彼はときどき誰も気付かず、指摘もしないような論点をえぐり出して投げつけてくる。誰の影響かも不明だ。まず社会主義国家の崩壊。アメリカ資本主義の矛盾。日本の司法(田中角栄問題など)、日本の教育(戸塚宏擁護など)、日本の税制(消費税など)、フィリピンの独裁(マルコス)。そうすると高校生くらいの読者(当時の私など)がみると、それらの真偽の区別はまったくわからず、なにもかもが混然としていて、ただものすごい勢いでそれっぽいことを言っている人、世間では敢えて言わないことを言う人、に見えるのである。そこが彼の魅力であり、本が売れた理由だろう。単にすごく偉い学者が、難しい理論を、一般人にもわかるように噛み砕き力説してみせた、だけではない。

だから私が小室直樹を書くとしたら、学者や学説を崇拝するな、疑え、丁寧に分析せよ、他者から受けた影響と本人独自の直感洞察を見分けろ、というような主旨のものを書くことになろう。それは小室直樹がカッパ・ブックスから出した本とは完全に真逆な本であるから売れるはずがないのである。

なぜ小室直樹があれほど田中角栄を愛したかといえばやはりそれは小室が会津の出身であり、山一つ隔てた越後から出た角栄が宰相にのぼりつめて日本の戦後高度経済成長を成し遂げた人であったからだろう。好き嫌いというものは大事だ。好きであればこそ、世間の風評を突き抜けた先の真理にたどり着けるのだから。

ところで、どちらかといえば崎門学とはさほど関係なさそうな書の解説「保建大記打聞」を谷秦山はなぜを書こうと思ったのか。内容を理解して書いているならともかく理解してないのに書いているのがあやしいのである。

保建大記打聞一(谷秦山の弟子による序)
師(谷秦山)曰く、吾も人も日本の人にて、道に志あるからは、日本の神道を主にすべし。其の上に器量・気根もあらば、西土(もろこし)の聖賢の書を読みて、羽翼にするぞならば、上(うへ)もないよき学なるべし。是れ、舎人(いへひと)親王(『日本書紀』を編纂した舎人(とねり)親王のこと)の御本意、恐れながら吾等、内々の志なり。然るに今の神道者は、西土の書に疎くて文盲なり。儒者は人の国を贔屓し、吾が国の道を異端のやうに心得て誹(そし)り、各(おのおの)異を立てて湊合(集合)根著(根付く)せず。学風が薄く猥(みだ)りにして、見るに足らぬぞ。吾これを憂ひ、内々同志と講習して、天下の学風の助けにもなるやうにしたいと思へども、山崎(闇斎)先生は過ぎ去り給ひて久しく(天和二(一六八二)年死去)、浅見安正(絅斎(けいさい)。闇斎門下)は晩年神道に志は出来たれども(垂加神道に従わず闇斎と疎遠になったが、闇斎死後神道に興味を示し、闇斎説を継承したことを言う。正徳元(一七一一)年死去)、やうやう一両年のうち卒去めされて、うしろだてだにすべい先輩なく、其の外、名ある学者たち、多くは斉の国、魯の国の詮索を第一にして、吾が国に懇切なる志無く、または神道を尊敬はせらるれども、未伝授なり。其の外は詩文の淫華に愛(め)で、どれこそ取るに足らぬぞ。平生、是を気の毒に思ひをりたに、このごろ不慮に此の書(保建大記)が出たぞ。是ほど珍重なことはない。古今珍しい書ぞ。是こそ神道を大根にして、孔孟の書を羽翼にしたと云ふものぞ。さるによって吾、ことのほか信仰する。過ぎ去った人なれども、甚だ味方に思ふて、此の講席を開くぞ。別して本望千万ぞ。栗山氏の師授淵源は知らねども、両巻とも論に間然することはないと見へた。先賢にも愧(は)ぢぬ見識、後学の良き矜式(きょうしょく)(手本)なり。日本の学者は、ただこのやうに学問をしなすべいものぞ。千万祈祝の至りなり。

この序文を見るに、おそらく、山崎闇斎、浅見絅斎が没したあと、崎門を率いる先達としては谷秦山くらいしか残っていなかった。そこで崎門の門人らは、強いて谷秦山に保建大記を講義してもらってこれを出版し、崎門学を広め強固にしようとしたのだろう。これだけのものを口述筆記するというのは並大抵ではない。つまり、当時の名も無き崎門学者の中に非常に優れた編集者(おそらくは熱心な神道家)がいたということなのだと思う(ガウタマ・シッダルタの弟子にサーリプッタやアーナンダがいたように。イエスの弟子にパウロがいたように。孔子の弟子に無名の筆記者がいたように)。

其の外は詩文の淫華に愛で、どれこそ取るに足らぬぞ。平生、是を気の毒に思ひをりたに

うっかり読み過ごしてしまうところだが、この、「詩文の淫華に愛で」とはなんぞや。「打聞」が出たのは1720年なので、漢学や詩文にばかりかかずらって神道をないがしろにした荻生徂徠を暗に批判しているようにも思える。「平生」「気の毒に思ひをりた」のは誰か。谷秦山ではあるまい。頼りなさげな彼を師と仰ぐ崎門学派の門下生らだったに違いない。

神道を大根にして、孔孟の書を羽翼にした

孔孟の書を大根にして、神道を羽翼にしたのが徂徠であった。

さらに言えば、崎門は経典を、崎門学の聖典を必要としていたのだ。山崎闇斎、浅見絅斎らは、気合は十分だったが、彼らの書は必ずしも経典にふさわしい体裁を備えたものではなかった(国学者らが「古事記伝」を経典として必要としたように)。そこで崎門学派の中でめぼしい書を見繕ったときに、「保建大記」がちょうどその目的によろしかろうと目を付けたということではなかったか。実際今や崎門学のバイブルとして第一に挙げられるのがこの「保建大記打聞」なのである。少なくとも平泉澄はそう認識している。それを小室直樹は鵜呑みにしている。

吾も人も日本の人にて、道に志あるからは、日本の神道を主にすべし。其の上に器量・気根もあらば、西土の聖賢の書を読みて、羽翼にするぞならば、上もないよき学なるべし。

日本の学者は、ただこのやうに学問をしなすべいものぞ。

崎門学徒にとって崎門学とはかかる学問でなくてはならなかった。栗山潜鋒はしかしそんなことは必ずしも主張しなかったし、そういう目的のために「保建大記」を書いたのでもなかった。「保建大記」を虚心に読めば明らかだ。

山崎闇斎、浅見絅斎、山鹿素行、彼らはみな、日本が主となり、中国が副となるような思想宗教が正しい、日本の学者ならば日本を主とし中国を副とする学問をすべきだ、という結論が先になければならぬと主張するが、それはすべて中国に対する劣等感の裏返しに過ぎない。

栗山潜鋒も同じようなことを言ってはいるのだが、彼は相対主義者であって、闇斎、絅斎、素行は絶対主義者だった。潜鋒は明確に、地球上のどの地点も世界の中心たり得る、中国人は中国が中心だと考えればよく、同じ様に日本人は日本が中心であると考えればよいと言っているだけだ。闇斎、絅斎、素行は日本こそが中華で中国は田舎である、日本が偉く中国が劣っていると主張している。そこが根本的に違う。

世に学者が現れると弟子が集まってくるものである。漱石を慕って集まってきた、芥川龍之介などの文人らもまたそうだ。なぜ学者が現れるかと言えば時代がそうした学者を必要とするからであり、学者が自分の力で世に出るのではない。宣長の場合も同じだ。

社会が、時代が、弟子たちが期待する師と、実際の師は乖離している。その乖離がはなはだしかったので、宣長は容易に理解されなかったし、いまだに理解されていない。それは宣長のせいというよりも、宣長をありのままに受け入れられない世の中が悪いのだといえる。宣長は決してこむつかしいわかりにくい超絶理論を他人に押し付けようとしたのではない。

預言者は郷里に容れられぬというが、モーセもまたイスラエル人を率いてイスラエル人に理解されなかった人だっただろう。

世の中にすんなり受け入れられるのは普通の師である。そうした場合、師が何か言う前に人は師が何をいうかすでに知っている。しかしそうしたわかりやすい師というものは結局何も言っていないのと同じだ。一方でわかりやすくない師というものは永遠に人に理解されない。ただ世の中の都合で曲解されるだけなのである。

栗山氏の師授淵源は知らねども、両巻とも論に間然することはないと見へた。

今から思えばこれも、「打聞」編集者自身潜鋒の考えは、山崎闇斎、浅見絅斎の教えとは直接関係ない、ほんとうは何が言いたいのかは自分らにもわからんと白状しているようなものではないか。