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この3年ほどずっと本の原稿を書いていたので、執筆欲とでもいうものがそちらですべて満たされてしまって、ブログを更新しようという気持ちがほとんどおきなかった。その上ツイッターなどというダラダラとつぶやきを垂れ流すツールもあったから、なおさらブログという形で書く気持ちがおきなかった。さらにいえば私の場合、ブログは日記のように毎日コンスタントに書くのでなく、書きたい衝動にまかせてある時期に、欲求のはけ口のようにまとめて書いていたから、よけいにブログは書かなくなっていた。

それでまあ今後はここでいろいろ書いていこうと思っているのだがまだ google search console で xml sitemap も URL検査もしてなかったから登録しておいた。

こちらでブログをいじっているだけでも adsense に影響が出ることはわかった。同じことは楽天アフィリエイトなどでも言えるのであって、そうやって自作自演で収益化することは規約違反でもあるし、そもそもなんの意味もない。赤の他人から金をもらってこそのアフィリエイトではないか。

adsense の予測収益額は 1円が2円となり0円に戻ったり、6円が10円になって8円に戻ったり、まるで水前寺清子のマーチのようだ。一喜一憂しても仕方ない。

tanaka0903.net がなかなか adsense の審査が通らないのは微妙にストレスである。adsense ならば無茶な広告をぶっこんでくることもないし、ブランドイメージを守れることはわかったので、日本語サイトつまり tanaka0903.net にも広告を入れてどれくらい収益化できるものなのか早く試したいのだが、ずっとじらされている。

今度出す本は秋には出るだろう。遅くとも年内に出るだろう。そこには論語のことなども多少書いたのだが、この、ユヴァル・ノア・ハラリの時代に論語を再説してみるのは少しは意味があるだろう。呉智英にしろ山本七平にしろ孔子や儒教を根っこで尊敬しているので、どこか肯定的であり、冷静に客観的に述べてはいない。苫米地英人などは単に認知科学とか脳科学などというそれっぽい理屈を振り回して伝統的な解釈を頭ごなしに否定しその真逆の主張をして受けを狙っているが、彼の根っこにあるのは単に戦後民主主義的左翼思想に過ぎまい。

宮崎市定はさすがに学者らしいまともな研究をしているが、なにしろもう古い。

別に論語とか仏教の話がしたかったわけではないのだが、本居宣長について書いていると宣長は仏教と儒教という二連星に挟まれその強い重力場の中で国学というものを作った人だから、その二連星の影響力というものに言及しないわけにはいかなかった。私は今では宣長は単なる仏教徒であり、儒教から逃れるために国学にすがっただけだと思っている。これが次に出す本の核心である。宣長によって国学の自立は完成しなかった。篤胤のようなものが出て、国学をさらに儒教や仏教から遠ざけようとしたがそれは国学を単なるオカルトにしただけだった。国学はいまだこの混迷から抜け出ていない。宣長を凌駕したものなどまだ出ていないのだ。宣長には限界があったが、その宣長を、300年後の我々はまだ超えられていない。

私は孔子は単にことわざ格言や詩のコレクターでその解釈をする人だったと思っている。人はみな格言が好きだ。格言を知ってなにかを知ったつもりになる。それが論語の本質であろう。

それはそうと生成AIの作る絵はすごい。日進月歩でどうなるかわからん。去年の今頃と比べてもすごく進化している。しかし自分が望む絵を出すために必死でAIにプロンプトで指示しているところを想像すると実に馬鹿らしくもある。昔のマンガやセルアニメをAIで実写化するなど、すぐに陳腐化するのだろう。

A Sketch of Asakusa だが、だいぶ方向性が定まってきた。Just another Asakusa guide、単なる浅草観光ガイドではない。かなり辛辣なことを書いているが、英文なので、日本人で気付いて文句を言う人はいるまいと今はたかをくくっている。英文をまた日本語に戻すとこんな感じだ。

Googleマップのレビューが示す通り、この店は恐ろしいほど評判が悪い。観光客、特に外国人に対して明確な敵意を抱いているのは明白だ。商売をする気もほとんどないようで、おもてなしの精神など皆無である。料理に関しては可もなく不可もなく、といったところだ。

私は大酒飲みなので、ここに来ても大抵餃子一皿と瓶ビール(小)しか頼まない。単にそれ以外の酒がないからだ。滞在時間はわずか15分足らず。私にとっては、ほんの気まぐれに立ち寄って少し時間を潰すだけの場所に過ぎない。餃子が美味いかと聞かれれば、まあ美味い方かもしれない。店内は撮影厳禁なので、私も決して写真は撮らない。

自分以外の客を見たことがないのだが、それは私が平日の夕方遅くにしか訪れないからだろう。週末になればそれなりに混むはずだ。それにしても、この店の最大の特徴は、資本主義の匂いが全くしないことだ。

もちろん浅草には他に選べる店などごまんとあるが、あえてこの店に足を運ぶ唯一の理由は、その素っ気ない雰囲気がいかにも浅草らしいからに他ならない。

分かりやすく言えば、この店はマカロニ・ウェスタンやスター・ウォーズに出てくるような、愛想が悪く荒んだ居心地の悪い酒場に浸りたい」という、私の物好きな欲求を満たしてくれるのだ。

冷笑的と言われるかもしれないが、私は「食堂みずぐち」や「ヨシカミ」のような人気店に行列を作り、狭い席に押し込められて「B級グルメ」をありがたがるフリをするのが大嫌いだ。それよりも、ガラガラに空いていて、思い立った時にふらっと入れて、料理がすぐに出てきて、サッと次の店へハシゴできるような店の方がいい。

この程度のことは google maps のレビューにはいくらでもあるのだが、彼らは匿名なので書き放題だ。

或いはこういう記事も書いた。

そこは、まるでNHKのドラマからそのまま飛び出してきたかのように完璧な、定食屋兼居酒屋だ。スタジオのセットと見紛うほどで、老若男女を問わず客もスタッフも、まるで台本通りに配置された舞台俳優であるかのように思えてくる。あまりにも自然でありながら、それでいて巧妙に演出されているため、街からふらりと迷い込んできたエキストラにでもなったかのような錯覚に陥る。要するに、まるで50年前の日本にタイムスリップしたかのような感覚を味わわせてくれるのだ。

40年前に私が初めて東京に引っ越してきた頃、こうしたNHKのドラマを思わせるような店はどこにでもあった。しかし、今はどうだろうか。おそらく浅草のような場所にしか残っていないのかもしれない。

つい先日、横須賀でこれと驚くほどよく似た街を見かけた。そこは「三崎通り商店街」という半ば寂れたアーケード街で、大正時代から続く古い食堂や蕎麦屋が今も数軒営業していた。しかし「千束通り商店街」は、人口密度が高く、浅草という一大観光拠点の周辺部に位置しているおかげで、戦後の昭和の面影を残したまま今日まで生き残ることができたのだ。

墨田区には江戸東京博物館があり、大阪には国立民族学博物館がある。近い将来、千束通りや吉原の裏路地のような街並みも、そうした博物館の中で永久に保存されることになるのではないかと思わずにはいられない。

こういう観光ガイドのフリをしたヘンテコなエッセイを書く人はあまりいないと思うので、それなりの意義はあるのではないかと思う。

The Advent of Celestial Maidens

今回、天女降臨を The Advent of Celestial Maidens と英訳したのだが、a Celestial Maiden ではなく Celestial Maidens と複数形になっているのは、地球に降臨した天女はかぐや姫だけでなく、メソポタミアのイシュタル、ギリシャのアルテミス、エジプトのイシスなどもみな、銀河連邦評議会が派遣した調査隊員であって、しかもその女性たちはしばしば、地球の男となんらかのトラブルを起こし、宇宙人とはいえ、同じホモ・サピエンスの、生身の人間であるから、理性で自己を律し得なかった。

そうした先輩たちを知っていたために、かぐや姫こと氷室加奈子は、地球の男を支配しようともし、己を律しようともし、先人らと同じ轍を踏まぬよう警戒していた、というプロットになっているのである。加奈子に対する卓也の執着と妄想は異常なようで実は彼はそれなりに彼女の本性が見えていた、と、そういうふうに読むことも可能であり、単なるよくいるストーカーだと見ることも可能だ、という設定になっている。どう解釈するかは読者に委ねられている。

この小説はしかし、天女降臨というタイトルがいかにも陳腐だし、主人公がかぐや姫という設定もいかにもありがちだし、その上、話が長すぎて、誰もまともに読んではいないと思う。またこういうジュヴナイルものというか、ラノベ的なものは世の中に溢れかえっているので、わざわざこんなめんどくさい話を読む人などいないのだろうと思う。

イシスは地球人オシリスと許されぬ恋に落ち、ホルスを産む。

イシスは地球を去ることになりホルスを連れて行こうとするがオシリスはホルスを隠してしまう。オシリスはホルスを川に流したと嘘を付き、逆上したイシスはオシリスを殺してしまう。オシリスを殺すのは神話ではオシリスとイシスの弟セトということになっている。オシリスを殺したセトを殺したホルスがエジプトの初代の王となる。

地球調査員にすぎなかったイシスはそうした重く深い業を抱えたまま、死んだ後もその自我はクラウドの中に溶けてなくなってしまいそうになりながら、なお存在し続けていた。イシスは加奈子の未来なのだ、という話。

いつものようにラノベのようなジュヴナイルのような話を書こうとして全然違う話になってしまった。

小室直樹

戸塚宏なんだけど、体罰というものが50年前まではふつうに人間社会にあったというのは、体罰がそれなりに有効だった証拠に他ならない。

私が中学生の頃には、ケツバットというものがあった。体育館の演壇のへりに手をつかせて生徒をならばせて順番にバットでケツをなぐっていく。

高校生のときも体罰はあった。逃げればいいのだが、なぜかそのころの私は逃げずに受け止めるものだと思っていた。

今なら殴られたら殴り返すと思う。正当防衛だ。

私は体罰を肯定したいわけではない。むしろ嫌いだ。しかし人間もまた動物の一種であるからには体罰は有効だ。猿の調教で根切というのがあるがあれはまさに体罰だ。猿と人がそんなに違うはずがない。戸塚宏は体罰は有効だと言っているのだが、それは真理だ。問題はその体罰を行使してよいかどうかという点だ。

戸塚宏は生物学的に間違ったことは言っていない。体罰で治る若者がいるのは当然だと思う。だが中にはよけいにこじらせたり、悪化したり、死んだりするかもしれない。

ま、私がいいたかったのは、戸塚宏を批判している人は、なんだかよくわからず、正義感で批判しているのではないかということだ。小室直樹が戸塚宏を養護しているのは、生物学的問題と社会学的問題を切り分けているからだ。今日の社会では許されないことも生物学的には正しい場合もある。

もちろん私がそんなややこしい問題に首を突っ込むはずはないのだけれど。

小室直樹は田中角栄も養護した。高校生の頃の私には、まだ、戸塚宏はわかったけれども田中角栄はわからなかった。要するに政治的な問題と倫理的な問題は別だと小室直樹は言っているだけなのだ。

小室直樹がああいう人になったのはなぜなのだろう。高校生の頃の私は小室直樹に心酔していたが、彼を何もしらなかった。いま、60才を過ぎ、1周どころか20周くらい回ってやはりわからない。あれだけたくさんのものを書いた人だからそれを読めばヒントがあるとは思うが、わからん。本居宣長はだいぶ調べてわかってきたつもりだ。次は小室直樹を書かないかと言われて正直困っている。