江戸城なんだけど、見附の形とか向きをできるだけ丁寧に描いてみた。多聞とか巽とか櫓とか全部記入したいところではあるが、それは他の人ももうすでにやっていることなのでやらないことにした。
通常江戸城では橋と枡形城門(見附)が組み合わさっているのだが、雉子橋だけが少し違う。南側を平川(清水濠)、北側を日本橋川が流れ(そもそも元は平川しかなかったはずだが)、この二つの川に挟まれた狭い陸路に見附と橋が作られているので、こんな変則的な形になったのだろう。
おそらく昔は(つまり太田道灌の頃は)、平川を船で遡れるだけ遡った一番の上流に鎌倉河岸というものがあって、そこに脱穀所(御舂屋)があり、そのまま梅林坂をのぼった先に本丸があったはずである。この梅林坂は徳川時代になると城の勝手口として使われるようになり、米や魚などの食材を運び入れるとともに、汚物や死人などを城の外に排出するのに使われていた。
神田川の付け替えなどしたために水量が減って、鎌倉河岸はもっと下流に移されたのに違いない。鎌倉河岸と呼ばれたのは室町幕府時代に、まだ鎌倉公方が鎌倉にいて、鎌倉街道などが機能していたころの名残なのであろう。
今比較的見附が完全な形で残っているのは虎ノ門、田安門、大手門くらいであろうか。
虎ノ門とは見附、枡形城門のことを虎口(こぐち)と言うのと同じ理由であろう。