最後の桂園派歌人

ついでに柳田国男。

香川景樹と、彼を祖と仰ぐ桂園派は、まったくもって別物である。景樹と柳田国男の歌を並べて見比べてみたとき、ほとんど何の類似性も私には見いだせない。天保に大天狗呼ばわりされた奇人景樹が生んだ一派は明治にはそれと似ても似つかぬ上流階級の社交場に化してしまった。

今では題詠は軽蔑すべきものとみられているが、和歌の伝統からいえば、こうして口を馴らしておいて、何時でも必要な時に詠めるように訓練しておくのだった。つまり柔道の乱取りみたいなものである。それを何度もしているうちに、いよいよ自分がどうしても詠まねばならない辞世の歌とか、別れの歌とかを作るときに、すらすらと出るようにしておくのが、歌の道のたしなみであった。私どもが子供のころ、それを歌(うた)口(くち)といっていた。

いわばお座成り文学という気持ちがあった。私ら後には、題詠でうんと練習しておかなければ、いざ詠みたいという時にも出ないから、そのために題詠をやるんだなんていったりした(柳田国男『故郷七十年』)。

人々は歌道を茶道や華道と同様に古典芸能と捉え、様式美の一つとして恋歌を詠んだ。かかる御座成り芸は景樹が最も強く戒めるものであったにも関わらず、桂園派は中島歌子や柳田国男のような秀才ばかりになり景樹のような破天荒な人はそこから離れて行った。桂園派の寿命は天保年間から戦後昭和まで百年ほどで尽きた。尖った歌論は摩滅し、岩盤のように固く体系化された室町歌学だけが残存し、人はみないつの間にかそれが師の教えだと思い込む。師は「荒樔田」を耕せと命じた。桂園派を自称する歌人の中で、師の教えに従って街を離れ荒樔に赴き、原野を切り開いて沃田と成そうとした者がいただろうか。景樹に共感しその教えを実践しようとしたのは、「鋤き返す人こそなけれ敷島の歌の荒樔田荒れに荒れしを」と嘆じた樋口一葉ただ一人があるだけに私には思えるのだ。

明治二十七年に与謝野鉄幹の『亡国の音』が出て、高崎正風ら御歌所派がやり玉に挙げられるより七年も前に、柳田国男は十三才ではやくも

朝(あさ)戸(と)出(で)に 我(わ)が宿(やど)近(ちか)く 白雪(しらゆき)の 積(つ)もれる中(なか)に にほふ梅(うめ)が枝(え)

という歌を詠んでいる。また昭和三十年、八十才の時、歌会始に召人として

新年(にひとし)の 清(きよ)ら若水(わかみづ) 汲(く)み上(あ)げて さらに泉(いづみ)の 力(ちから)をぞ思(おも)ふ

という歌を出詠している。生まれてから老いるまでずっと彼ほどの人が、どうしてこんな古臭い題詠に固執したかと多くの人は怪しむだろう。ところが驚くべきことに、国男も新体詩に影響されたのか、若者らしい恋歌を詠んでいた一時期があったのである。

一目(ひとめ)見(み)て はや恋(こひ)しきは この世(よ)なる えにしのみには あらじとぞ思(おも)ふ

立(た)ち出(い)でて 見(み)ぬ夕暮(ゆふぐ)れも なかりけり 君(きみ)がすまひの まどのともし火(び)

生(い)け垣(がき)の ひまより見(み)ゆる ともし火(び)は 君(きみ)が衣(きぬ)縫(ぬ)ふ あたりなるらむ

たれこめて 君(きみ)もものをや 思(おも)ふらむ こよひは琴(こと)の 音(おと)も聞(き)こえぬ

さらぬだに 心(こころ)の残(のこ)る ふるさとに 君(きみ)をおきても 別(わか)るべきかな

限(かぎ)りなく 悲(かな)しきものは 思(おも)ふこと 言(い)はで別(わか)るる 別(わか)れなりけり

初めて出会って、一目惚れして、許されぬ恋に悩み、恋人を故郷に残して別れるというストーリー仕立てになったこの連作「まどのともし火」を一篇の新体詩として見る人もいる。完全なフィクションだろうがモデルくらいはいたのだろう(子規にお陸さんがいたように)。

或いは「利根の夜舟」という歌、

利根川(とねがは)の 夜(よ)舟(ぶね)のうちに あひ見(み)つる 香取(かとり)乙女(をとめ)は いかにしつらむ

或いは、「花かげ」と題する、今様風の新体詩、

止(と)まれ我(わ)が駒(こま) 花(はな)かげに 我(わ)が思(おも)ふ人(ひと)の声(こゑ)すなり
車(くるま)のうちは 見(み)えねども 我(わ)が名(な)呼(よ)ぶなり ひそやかに
車(くるま)先(さき)行(ゆ)け 馬(うま)もやれ 我(われ)は歩(あゆ)まむ 花(はな)かげを
うれしき君(きみ)に ともなひて おぼろ月夜(づきよ)をたどりつつ
をとめはつひに ささやきぬ 家路(いへじ)はとほき 夕暮(ゆふぐ)れも
君(きみ)にたよりて 行(ゆ)く時(とき)は おぼつかなくも なかりけり
花(はな)も我(わ)が世(よ)も さかりなる こよひばかりは せめて君(きみ)
うれしと言(い)はむ つひに我(われ) 袂(たもと)は乾(かわ)き 果(は)てずとも
花(はな)咲(さ)くたびに 思(おも)ふべし 月(つき)見(み)るごとに 思(おも)ふべし
よしやこの夜(よ)は とく明(あ)けて また見(み)む春(はる)は とほくとも
七日(なのか)の月(つき)も かたぶきて もりのあなたに なりにけり
我(わ)が楽(たの)しみも 尽(つ)きぬべし いかにやすべき いかにせむ

陰暦で七日の月とは上弦の月で、深夜零時に沈む。「いかにや すべき いかに せむ」は『史記』「項羽本紀」「虞(ぐ)兮(や)虞(ぐ)兮(や)柰若何(なんぢをいかんせん)」を思わせる。これらの詩を作ったのがあの柳田国男とはにわかに信じ難い、と同時に非常に感心する。国男が『草庵集』の愛読者であることは既に述べたが、確かに国男の恋歌からは頓阿の口振りが、軽口が、頓知が聞こえてくる。『草庵集』と国男の恋歌には明らかに類似性が認められる。恋歌からわざと感情を消そうとするところなどよく似ている。

柳田国男は明治八年生まれ。新体詩の流行は既に明治十年代に始まる。新派和歌が現れるのは明治三十年代からである。国男が右のような歌を詠んでいたのは明治二十年代のことだ(樋口一葉の作家活動期間とおおよそ一致する)。やはり国男は新派和歌よりも新体詩に影響を受けて自分の和歌を作り変えていったと思える。彼はしかし明治「三十二年を過ぎると詩作の筆を折るに至る」(来嶋靖生『森のふくろう : 柳田国男の短歌』)。与謝野晶子が明治三十四年に『みだれ髪』を、明治四十三年に石川啄木が『一握の砂』を出すよりも前に。ちなみに国男の代表作『遠野物語』は『一握の砂』と同じ年に出ている。和歌において新派運動が盛んになるにつれて彼は逆に詩歌への情熱を失い、代わりに民俗学に傾斜していく。来嶋氏は言う、

国男は自らの作った新体詩を過去の「事実」と思われたり、詠んだ恋歌を「真情」とみなされたりすることを極度におそれ、『定本』に新体詩を収めることを峻拒し、短歌においても、作品としてリアリティの高い恋の歌「まどのともし火」六首を、用心深く削除しているのである。

国男のこの自己韜晦(とうかい)には、多くの柳田研究者の苛立ちがあるが、私も同感である。その苛立ちにはおよそ二つのポイントがある。ひとつは国男の相聞歌や新体詩に歌われたことが、果たしてすべて空想であり、フィクションであったか、ということ。もう一つは事実であってもなくても、その文学上の評価は別だということに、なぜ国男ほどの人が分別を示さなかったか、ということである。そしてこれらの韜晦が、かえって多くの憶測を生み、国男の望まぬ非文学的関心を高める結果になっていることも否定できない。

「なぜ国男ほどの人が分別を示さなかったか、」そう思うのは単なるブンガク至上主義に過ぎまい。明治天皇の恋歌もまた厳重に秘匿されている。されていないはずがない。もし明治天皇が国男のような夢見がちな青年で、「香取乙女はいかにしつらむ」などという歌を詠んでそれが外に漏れでもしたらたちまち「香取乙女」探しが始まり、どれほどの騒ぎに発展するかもしれぬ(「香取乙女」の歌は『定本柳田国男集』にも載っている。余りに作り話めいているので間違う人もあるまいと思ったか。しかしではなぜ「まどのともし火」だけ削ったのだろうか)。もし柳田国男が兄のように寄人となって、田山花袋の『蒲団』のような破廉恥な、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』のようなスキャンダラスな和歌や新体詩を詠んでいたら、和歌の世界に新派と旧派の垣根をぶち壊すような業績を残し得たかもしれない。しかし彼はそうした新時代の旗振り役になることを拒んだ。歌人としての彼は少年の日に完成してしまっていた。それはあまりにもかっちりと整っていて、てそれを新しい時代に合わせて自在に作り変えることができなかった。そういう自由創作というものに不器用な人であったかもしれない。それゆえ歌以外のこと(文芸ではなく、民俗学などの学術的なこと)に自分の才能を向けてそちらで世の中に認められることにした。

柳田国男は「文学の両面」なる文で、「歌や文学は」「いわゆるロマンチックなフィクションで、自分で空想して何の恋の歌でも詠める」と言う人と「自分の経験したことでなければ詠めない、あるいはありのままのことを書く真摯が文学だという近ごろの人々のいうような側」の両面があって、国男自身はフィクションの側であると断言している。「やっと二十そこそこの若い者にそうたくさんの経験がある気遣いはない。」「われわれのような男には露骨に男女の情を表すようなことは、実際生活にはあり得なかった」、「フィクションが一種の情操教育になった」、「後になって子孫に誤解せられたりすると、かなり困ることになる。」「後の世になると事実と空想の境がはっきりしなくなって、これをしも真実の告白と思われてはたまらない。」などとしつこく言い訳している。本当のところはどうなのだろう。「連中の詩は西洋の系統から来て居るので、胸の中の燃えるようなものをそのまま出すのが詩というものだと考えていた。」果たして西洋だけだろうか。日本にだって、『伊勢物語』や『源氏物語』、小野小町や和泉式部のような系統があるではないか。「胸の中の燃えるようなものをそのまま」詠んで何がいけないのか。孝明天皇も「漕ぎ出でて行き来の人の浮かれ妻」などと遊女の歌を詠んだりもしている。やかましくなったのは明治に入ってからで、それまでは天皇もおおらかに恋歌を詠んでいたのではなかったか。

やはり柳田国男の言っていることは荷田春満に似てどこか矛盾している。何かを懸命に隠し否定しようとしている。自己韜晦、つまり本音を理屈や建前でごまかそうとしている。私には到底彼の言うことをその言葉通りに受け取ることができない。文学に「両面」はもちろんある。それはしかしゼロとイチの二値ではない。フィクションと真情が渾然(こんぜん)としていて何がいけないのか。

詠歌によって思わず知らず自分の本音が出てしまう。自分の知らない、理性で制御できない自分が出てくる。腹の皮が裂けて腸(はらわた)がこぼれ落ちるような、胸に手を突っ込まれて魂をひっこ抜かれるような感覚。それこそが歌に備わる魔力だが、それに気付いて柳田国男は詩歌を自ら封じた。正岡子規もまた同じ理由で恋歌を封印したのであったかもしれない。

塵の中

樋口一葉については、けっこうな長さの没原稿がある。彼女のことは改めて別の機会に出版するとして(そんな機会があればだが)、とりあえず公開しておこうと思う。

樋口一葉は明治二十六年、二十二才の時、生活の糧を得るため、下谷竜泉寺町の長屋に移り住み駄菓子屋を始める。梅の花咲く神の斎垣とは「たけくらべ」に出てくる三(み)島(しま)神社(さま)か、千束神社(千束稲荷神社。一葉の胸像が建っている)か、大鳥神社(鷲(おほとり)神社)であったろうか。かつて吉原遊郭の西隣に竜泉寺という寺があったが移転して明治には代わりに大音寺という寺が建った。吉原と大音寺に挟まれたこの一帯は「たけくらべ」に「大音寺前とは仏臭けれど」とあるように当時は大音寺前と呼ばれていた。この地は今、日比谷線三ノ輪駅からほど近く、高級住宅街もしくは高層ビル街となっている。「塵の世に混じり」住むようになって、一葉は「塵の中」と題する日記を書き始める。「此の家は下谷より吉原通ひの只(ただ(一筋道にて」とあるのは下谷の三島神社から東へ一葉の店の前を通って吉原の北側、揚屋丁辺りにぶつかる茶屋町通りのことだろう。「夕方よりとどろく車の音、飛び違(ちが(ふ燈(ともし(火(び(の光り、例(たと)へんに詞(ことば)なし。行く車は午前一時までも絶えず、帰る車は午前三時より響き始めぬ。」「家は長屋建てなれば、壁一(ひと)重(へ)には人力引く男ども住むめり。」「男(をとこ)気(げ)なき家のいかに侮(あなづ)られて悔(くやしき事ども多からむ。」父を亡くして一葉は母と妹と女三人で暮らすことになった。長屋の両隣は壁一枚隔てて荒くれ者の車夫が住んでいる。ずいぶん心細かったに違いない。「蚊のいと多き処にて、藪(やぶ)蚊(か)といふ大きなるが夕暮れよりうなり出づる、おそろしきまでなり。」「井戸は良き水なれど深し。」「行方も知れず影を消してかくあやしき塵の中に交はり、」などと散々に描写されている。この頃の樋口一葉の日記や歌を見ていくと、

世(よ)の中(なか)を 横(よこ)にのみ這(は)ふ 蟹(かに)ながら 心(こころ)は清(きよ)き 水(みづ)にこそ棲(す)め (蟹)

月(つき)の輪(わ)の 熊(くま)となるとも 世(よ)の人(ひと)の 腹(はら)黒(ぐろ)きには 習(なら)はざらなむ (熊)

ちはやぶる 神(かみ)の斎(い)垣(がき)に 咲(さ)く梅(うめ)も 香(か)は塵(ちり)の世(よ)に 混(ま)じりけるかな (社頭梅)

こうした江戸狂歌と見紛うような歌が突然出てきてびっくりする。

あはれいかに 今年(ことし)の秋(あき)は 身(み)に沁(し)まむ 住(す)みも習(なら)はぬ 宿(やど)の夕風(ゆふかぜ)

いづれぞや 憂(う)きにえ堪(た)へで 入(い)りそむる 深(み)山(やま)の奥(おく)と 塵(ちり)の中(なか)とは

さわがしき 市(いち)のちまたも 咲(さ)く花(はな)の 木陰(こかげ)ばかりは のどけかりけり (市桜)

秋風が吹き「綿入れ羽織」を終日着る人を見るようになった頃、憂き世を離れ山奥に入るのと、街中に降る紅塵にまみれるのと、どちらがまだましだろうか、などと物思いにふけっている。

思(おも)ふどち 吹(ふ)きかはしたる 笛(ふえ)竹(たけ)の 昔(むかし)の音(ね)こそ 恋(こひ)しかりけれ

呉竹(くれたけ)の 直(すぐ)なりと思(おも)ふ 我(われ)にしも あやしき節(ふし)を 人(ひと)は付(つ)けけり

この二首は、子供の頃のように自由に歌を詠みたい、自分は素直に詠んでいるつもりなのに師はダメだしする、という不満を詠んだものであるらしい。一葉は中島歌子という師についたのだが、歌子は一葉の非凡な歌才を認めつつ、その反抗的な性格を見抜き、疎んでいた。

紅葉(もみぢ)がり いざと言(い)ふべき 友(とも)もなし 昨日(きのふ)も今日(けふ)も 時雨(しぐれ)のみして

すがれよと 招(まね)く袂(たもと)も 憂(う)かりけり 一人(ひとり)や立(た)たむ ただ一人(ひとり)にて

一葉は頑固で強がりで孤独を好む人であった。

もろともに すめばすまるる 世(よ)なりけり 野(の)山(やま)の月(つき)も おのが心(こころ)も

いとふべき ほどだにもなし 世(よ)の中(なか)は 風(かぜ)に結(むす)べる 青柳(あをやぎ)の糸(いと)

尋(たづ)ぬべき 君(きみ)ならませば 告(つ)げてまし 入(い)りぬる山(やま)の 名(な)をばそれとも

なかなかに 漂(ただよ)ふもまた おもしろし 月(つき)の前(まへ)行(ゆ)く 空(そら)の浮き雲(うきぐも)

世(よ)の中(なか)はいづこかさして 宿(やど)ならむ 行(ゆ)き止(ど)まるをぞ 限(かぎ)りと思(おも)はむ

今日(けふ)しまた うはの空(そら)にて 過(す)ぎぬなり 何(なに)思(おも)ふらむ 身(み)と知(し)らねども

これをしも 恋(こひ)とは言(い)ふや 山(やま)柿(がき)の 乱(みだ)るるばかり 胸(むね)の苦(くる)しき

打(う)ち寄(よ)する 波(なみ)にも花(はな)は 咲(さ)くものを ただに砕(くだ)けて 我(われ)はやまめや

これらの歌を見るに塵の中に住む一葉を見かねて助けてやろう、金銭的に援助してやろうと言う人がいなかったわけではなさそうが、それらを拒んで、自立しよう、漂泊しようと、歯を食いしばって堪えているのは、いったいどういうわけか。塵の中に陥った己の身を嘆きながら飄々と歌を詠み痩せ我慢している。何かそうせねばならぬ理由があったのだろうか(世の中には人の施し、哀れみ、お節介をがんとして拒絶し続ける偏屈婆さんのような人がままいるようだがその心理はいかなるものなのか。一度ひねくれてしまった心は元に戻らないのだろうか)。

うれしくも 来(き)つる冬(ふゆ)かな 大(おほ)方(かた)の 世(よ)に捨(す)てられし 宿(やど)ぞともなく (閑居冬来)

一葉は春夏秋冬のうちで冬が一番好きなのだろうか。そうではない。冬の寒さの他に誰も家を訪ねてくれなくて寂しいと言いたいのである。

世(よ)の人(ひと)は 花(はな)に浮(う)かるる 春(はる)の日(ひ)の 長(なが)きを一人(ひとり) 知(し)るすまひかな (閑中日長)

春夏秋冬ひねくれている。

思(おも)ふこと 少(すこ)し漏(も)らさむ 友(とも)もがな 浮(う)かれてみたき おぼろ月夜(づきよ)に (春夜思友)

「浮かれてみたき」が口語的である。

折(を)りしもあれ 今(こ)宵(よひ)の月(つき)に かかりける 拗(ねぢ)け心(ごころ)の 空(そら)の浮(うき)雲(ぐも) (夜雲妬佳月)

名月を妬(ねた)んで隠す雲を恨む心を詠んでいる。これまた変な歌だ。「拗け心」とは万葉の古歌「奈(な)良(ら)山(やま)の 児(この)手(て)柏(がしは)の 両(うら)面(おもて) とにもかくにも 拗(ねぢ)け人(ひと)かも」から採ったか。コノテガシワは葉が垂直に立っていて葉の表裏が判別できない。どっちつかずでひねくれた人だなという意味。

世(よ)の中(なか)の 憂(う)さもつらさも 忘(わす)れけり ただ一(ひと)杯(つき)の これの情(なさ)けに (酒)

風(かぜ)を待(ま)つ 花(はな)にも似(に)たる 姿(すがた)かな 誰(たれ)と汲(く)みたる 情(なさ)けなるらむ (酔美人)

笹(ささ)の葉(は)の 露(つゆ)も心(こころ)の 乱(みだ)れずば この泉(いづみ)こそ 汲(く)むべかりけれ (酒)

「情けの酒より酒屋の酒」「お情けより樽の酒」などと言い、「なさけ」は当時流行った「さけ」の隠語で、「お情け頂戴」とは遊女が客に酒をねだる意味も兼ねていたろう。「笹の露」とも呼ぶのは「酒の歌」で先述した通り。

汲(く)みて知(し)る 人(ひと)こそなけれ 旨(うま)酒(ざけ)の 身(み)は心(こころ)にも あらずなりしを

汲(く)む酒(さけ)の 色(いろ)にも出(い)でば くちなしの 言(い)はぬ心(こころ)も 人(ひと)見(み)てましを

「寄酒歌」と題する歌。いわゆる「寄物題(きぶつだい)」、何か物に喩(たと)えて、思いを託して詠む歌で、酒に託して恋心を詠んでいる。ちょっとわかりにくいが一つ目は、酒に酔って平常心を失っているとは誰も知るまい、二つ目は、言葉では言わないが、酔った様子で心が見えるのではないか、くらいの意味であろう。

酒の歌は狂歌にはいくらでもあるのだが、長らく和歌では忌避されてきた。狂歌と和歌の境界ぎりぎりの歌を詠んでいる。和歌の範疇(はんちゅう)に踏み留まりながら旧来の和歌が閉じ籠もりがちな題材(モチーフ)から敢えて逸脱しようとする。彼女の内部に新たな表現に挑戦しようという抑えがたい衝動がある。一見つつましやかで古典的に見える彼女の歌よりもはるかに広い世界を彼女が見ていたことはこれら酒の歌を見るだけでわかるし、彼女が明治の女流歌人コミュニティにいたたまれなかったのもそのためだ。

咲(さ)きにほふ 花(はな)にも酔(ゑ)ひて 澄(すみ)田(だ)河(がは) うつし心(ごころ)の 人(ひと)なかりけり

隅田川の河原で一葉も皆と一緒に花を見て酒を飲み、酔っぱらって現(うつ)し心を失って楽しんでいる。彼女は決して、すましてお上品な歌ばかりを詠む人ではなかった。

世(よ)の人(ひと)は よも知(し)らじかし 世(よ)の人(ひと)の 知(し)らぬ道(みち)をも たどる身(み)なれば

明治天皇と樋口一葉、この二人は、時代の荒波に取り残された二つの岩礁のように、私には思える。一方は君主で男性、他方は庶民で女性。まったく異なる境遇にあり、おそらく全く没交渉だったのに二人の歌はどこか似通っている。この二人は典型的な明治人でありながら、同時に明治から自由だった。明治天皇の歌に対する、また一葉の歌に対する世の中の批評(というか誤解、あるいは無理解)も実に似通っている。明治という希有な時代に邂逅(かいこう)した人々はみな激昂(げっこう)し、その奔流(ほんりゅう)に身を委ねた。一葉と明治天皇はだがどこか醒めている。明治を一個の過渡現象であると達観している。時代に流されようとも流されまいともせず、ただ受け流しているように見える。明治において二人はアウトサイダーであるが、もっと長いスパンでみれば彼らこそが本流であると私には思えるし、彼らもそれを自覚していたと思う。

歌人一葉が理解されないのは彼女が短命なばかりではない。新派歌人らにとって旧派に属する彼女が目障りだったからだ。しかも彼女は旧派のコミュニティからも浮いた存在だった。一葉の歌は黙殺され、その小説だけが森鴎外や幸田露伴らに賞賛され、研究されて今日に至る。

一葉と同じく明治天皇は、たった一人で歌を詠み、師や弟子、同輩とか歌詠み仲間と呼び得るような人間関係もなく何のコミュニティにも属していなかった。与謝野晶子に鉄幹という夫があったように、社会とつながりが強い男と一葉が結婚していたら、一葉の評価はまったく違ったものになっていたはずだ。一葉はそれを拒んだ。その結果貧苦に苦しみ、仲間からも見捨てられ、衰弱し結核を患い早世した。

天皇もまた御歌所派に属する一歌人であったか。それはあり得ない。正風と天皇の間にあった断絶は新派旧派間の距離よりも大きかった。

一葉は明治天皇より二十年遅く生まれ天皇より十六年早く死んだ。佐佐木信綱が大正元年に編んだ一葉歌集、これが私には恐ろしくつまらなくて仕方ない。昭和十六年、幸田露伴が監修し萩原朔太郎が責任編集した一葉歌集が出たが、これもまったくつまらない。どちらもつまらない歌ばかり拾い面白い歌をわざと落としているように見える。昨今メディアの切り取り報道がよく問題視されるが、一葉にしても、或いはその他の歌人、たとえば西行や定家にしても、どの歌を選んで歌集にしてどんな解題をつけるかで印象はがらりと変わってしまう。

昭和三十年に出た塩田良平・和田芳恵 編『一葉全集 第五巻 和歌』は一葉の仕事を網羅した歌集だが(後に筑摩書房から『樋口一葉全集 第四巻上下 和歌』が出ている)、これで彼女が遺した歌の全容を見るに(日記や随筆にも歌はあるのでそれらも含めて)、私は改めて世評に対し呪詛の如き反論を吐きたくなる。

佐佐木信綱は一葉を「その歌風は古今風桂園風の流れを汲み、その題目着想いづれも古を襲(おそ)ひ、その作概ね題詠を出で」ず、「忌憚(きたん)なく言えば、いわゆる囚われたる歌なりしなり、」「古来の題詠思想に閉じられおりしなり」(『一葉歌集のはじめに』)「大体において当時の旧派歌壇の作風で、今日の標準から判断すれば、もとよりその小説の如く光輝あるものとはいへない」(『一葉女史とその和歌』)などと旧派の歌だから全く価値はないと言う。

佐佐木信綱は明治天皇に対しては「忌憚なく言え」る立場になかった。彼の父佐佐木弘綱は高崎正風の師八田知則と同じく国学者であり桂園派であった。信綱自身も初期は桂園派の歌人であって父弘綱や小出粲ら、桂園派歌人に混じって『韻文学』『こころの華』などで活動していたが次第に桂園派から離れ新体詩や新派の中心人物になっていった。彼は一葉に過去の自分、或いは自分の祖先を見たのだろう。自己嫌悪あるいは同族嫌悪。それが彼の目を塞いだ。彼にとって一葉は訣別(けつべつ)すべき、絶縁すべき過去だ。彼はおそらく一葉に対すると同じような感想を明治天皇にも持っていたにすぎないと思う。

萩原朔太郎も一葉を評して「その歌の大部分は類型的の形式文学であり、或る一定の調律と修辞学をおぼえ、規範された歌言葉と歌の作法さへ知って居れば、立ちどころに口をついて出るようなもの」などと切り捨てる(新世社『樋口一葉全集』「後記」)。幸田露伴が樋口一葉の大ファンであったことは疑いようもないが、露伴が絶賛するのは一葉の小説であって、露伴は一葉の歌にほとんど言及していない。塩田氏以下、今日まで多くの人が一葉の小説や日記について微に入り細を穿(うが)って研究し尽くしているのに和歌はほとんど放置されているのには呆れ返るしかない。和田氏も一葉が小説を書いていた時期だけを取り上げて「奇跡の十四か月」などと言う。それ以外は奇跡ではないのだろうか。なぜこのようなことが起きるのか。

人はつい一葉を与謝野晶子と比較してしまう。一葉は武家の娘で平素良家の子女を演じておらねば周りから浮いてしまう。当時歌道は、生け花や茶道など、子女が修養する習い事の一つに過ぎなかった。お堅い女史や刀(と)自(じ)に弟子入りして、お座敷で「忍恋(しのぶこひ)」「不逢恋(あはぬこひ)」などのお題が出て、そつなく取り繕った歌を詠むだけ。そんな中でもともと生意気な娘だと目されていた樋口夏子こと一葉が紳士淑女が集う歌会の場で何か思わせぶりな恋歌を詠むのは不可能に近い。堺の和菓子屋の娘晶子ならば町娘らしく自由奔放な歌を詠むだろうけど。

秋(あき)の夜(よ)の 長(なが)きもさらに 短(みじか)しと 思(おも)ふや恋(こひ)の ならひなるらむ (恋長短)

花(はな)筐(がたみ) 数(かず)ならぬ身(み)と 知(し)りながら 目(め)を洩(も)るものは 涙(なみだ)なりけり (恥身恋。世阿弥作とされる能の演目、花筐にちなむか。筐は形見に通じる)

これらはどうみても実感のこもっていない一葉の題詠だが、こうした歌は京都祇園のお座敷で舞妓さんが気のない男からちょっかいをかけられたときやんわりかわすためのお愛想のようなもの、貴婦人のウィット、賢女の証であった。和歌にはそうした社交辞令の役割もある。

ことさらに 鳥(とり)の音(ね)早(はや)き 心地(ここち)して まれに逢(あ)ふ夜(よ)の 明(あ)けやすきかな (恨短夜恋(みじかよをうらむこひ))

もろともに 見(み)し夜(よ)のさらに 偲(しの)ばれて 火(ほ)影(かげ)も寂(さび)し 独(ひと)り寝(ね)の床(とこ) (独寝恋(ひとりねのこひ))

まれまれの 夜(よ)離(が)れを何(なに)に 恨(うら)みけむ 絶(た)えてぞ人(ひと)は 恋(こひ)しかりける (絶後恋人(たえしのちひとをこふ))

書(か)き交(か)はす この玉(たま)章(づさ)の なかりせば 何(なに)をか今(け)日(ふ)の 命(いのち)にはせむ (通書(ふみをかよはす)恋(こひ))

契(ちぎ)りしは 空(そら)憑(だの)めにて 今(こ)宵(よひ)また つれなく人(ひと)の 訪(と)はじとやする (臨期違約恋)

行(ゆ)く末(すゑ)を など契(ちぎ)りけむ 契(ちぎ)りつる 今(こ)宵(よひ)ばかりも 違(たが)ふ心(こころ)を (臨期違約恋)

行(ゆ)く末(すゑ)は とまれかくまれ 絶(た)えせじと 契(ちぎ)りしことぞ 憑(たの)みなりける (憑(たのむ)恋(こひ))

契(ちぎ)りおきし ことの葉(は)のみを 憑(たよ)りにて はかなき世(よ)にも 長(なが)らふるかな (憑(たのむ)恋(こひ))

秋(あき)風(かぜ)の 君(きみ)が心(こころ)に 立(た)ちしより 野(の)原(はら)の虫(むし)の 音(ね)をのみぞ鳴(な)く (寄虫恋)(むしによするこひ)

夢(ゆめ)にだに 逢(あ)はむとはなど 祈(いの)りけむ 覚(さ)むればさらに 恋(こひ)しきものを (夢後恋(ゆめののちのこひ))

こうした歌は一葉の実体験に基づくものではあるまい。吉田兼好が高師直(こうのもろなほ)のために恋文を代筆したと『太平記』にあるのが代筆屋の濫觴(らんしょう)とされるが、昔から能書家(手(て)書(がき))はしばしばそのような仕事を任されたのだろう。高師直は塩冶(えんや)判官高貞(たかさだ)という人の妻(『仮名手本忠臣蔵』によれば顔(かお)世(よ)御前という名)を横恋慕した。その人妻へ兼好が代筆した艶書にも歌は書かれていただろうが(原文は師直が考え、兼好は代書しただけで歌は無かったという見方もある。羽生紀子『世之介の恋文 ―近世都市文学としての再生―』)、女は恋文を見もせず庭に捨ててしまった。師直は兼好を逆恨みして彼を出入り禁止にしてしまう。怒りが収まらぬ師直のもとへたまたま薬師寺公(きん)義(よし)という家人が現れて、「高貴な人妻と言っても、慕われて悪い気持ちのする女などいません」とただ一首の歌だけ書いて再度届けさせた。その歌は公義の代詠であったのだろうが、

返(かへ)すさへ 手(て)や触(ふ)れけむと 思(おも)ふにぞ 我(わ)が文(ふみ)ながら 打(う)ちも置(お)かれず

(あなたに読まれもせずに返ってきたこの手紙ですが、あなたの手が触れたかと思うと捨てる気になれません)という実に気持ちの悪いもので、女はこの文を見ると顔を赤らめて袖にしまい、ただ「重きが上の小夜衣」とだけ言って奥に入ってしまった。この「重きが上の」とは『新古今』釈教部に採られた寂蓮の十戒歌の一つ、「不邪淫戒」という題で、「さらぬだに 重(おも)きが上(うへ)の 小夜(さよ)衣(ごろも) 我(わ)が褄(つま)ならぬ 褄(つま)な重(かさ)ねそ」という歌に由来する。「小夜衣」は夜具のこと。「褄」とは着物の端のことだが、重い夜具の上にさらに褄を重ね着するな、妻の他にさらに妾を持つなという意味がある。

塩冶高貞の妻と高師直が恋歌をやりとりしたように見えて、実は薬師寺公義と寂蓮が歌を詠み合っているところがちょっと面白いのだが、話はさらにこじれて、師直はついに塩冶高貞を殺害してしまう。その師直が敗死した二、三年後の祇園の勧請の田楽で土民や下女らが口ずさんでいた

月(つき)は見(み)む 月(つき)には見(み)えじ とぞ思(おも)ふ 憂(う)き世(よ)に巡(めぐ)る 影(かげ)も恥(は)づかし

取(と)れば憂(う)し 取(と)らねば人(ひと)の 数(かず)ならず 捨(す)つべきものは 弓矢(ゆみや)なりけり

などという戯(ざ)れ歌は逃れた薬師寺公義が師直に仕えたことを深く悔いて詠んだのだと、今川了俊が『落書露顕』に書いている。いずれも世の功名を忘れ身を隠そうというもの。この薬師寺公義という人を、さすがに私もこうして調べてみるまでまったく知らなかったが、彼は出家して元可と称し、『元可法師集』という私家集を遺しており、勅撰集にも六首採られていて中には面白い歌もある。例えば「苗代」という題で、

敷島(しきしま)の うたかた水(みづ)を 堰(せ)き入(い)れて たれ苗代(なはしろ)に 種(たね)を蒔(ま)きけむ

など。独特の軽みと含みがある。南北朝時代の雰囲気を今日に伝える貴重な歌人の一人と言って良い。

時々話が脇道に逸れることをお許し願いたい。元禄頃まで京都では正月に懸想(けそう)文(ぶみ)売りという者が笹に文を付けて売り歩いたと言い(文芸資料研究会『変態十二史』)、戦後渋谷の道玄坂には恋文横丁なるものがあって、米兵へ送る英文の恋文を代筆したという。一葉もまた読み書きのできぬ遊女らのために艶書の代書をしていた。『伊勢』『源氏』の例を出すまでもなく、恋文には歌が添えられ、そうした歌がずいぶん一葉の歌集にも含まれていると考えて間違いあるまい。

一葉は結核に罹(かか)り死ぬまで「新開」(新しく開けた町)と呼ばれていた、小石川辺りの田んぼや沼を埋め立てた丸山福山町というところに住んだ。そこには銘酒屋と称する、表向きは小料理屋で淫売宿も兼ねる「あいまい茶屋」が立ち並んでいて、一葉が住んだ家の隣も「鈴木亭」という、そうした類いの店であった。その鈴木亭にお留(とめ)という酌婦がいたが、彼女は男に遣(や)る手紙の代筆をたびたび一葉に頼み、後に数寄屋町の芸妓になってもお留はわざわざ人力車に乗って一葉に代筆してもらいに来ており、『にごりえ』の主人公「お力(りき)」はこのお留がモデルになっているという(村松定孝『評伝樋口一葉』)。日記に「隣りに酒売る店あり、女子(おなご)あまた居て客の伽(とぎ)をすること歌女(うたひめ)の如く遊女(あそびめ)に似たり、常に文書きて給はれとして我がもとに持て来る、ぬし(艶書の宛先)は何時(いつ)もかはりてその数はかり難し。」とあって、

まろびあふ はちすの露(つゆ)の たまさかは 誠(まこと)に染(そ)まる 色(いろ)もありつや

完了の助動詞は「ぬ」にするか「つ」にするか、それとも「り」にするかでいつも迷う。「色もありぬや」でも良さそうな気もする。「ありぬ」「ありつ」和歌にはいずれの用例もある。過去の助動詞「き」や「けり」を使っても良いかもしれないし、何なら「けむ」「ぬらむ」「つらむ」「けらし」などを使うこともできる。このような表現の多様さは現代日本語にはないし、英語にも無いだろう。ここで「ありつや」は「そんなこともあっただろうかねえ」というあきれ果てたニュアンスが込められているように思う。「染まる」は原文のままだが、これでは現代語のように思える。これが他動詞なら「染むる」とすべきだし、自動詞として古語に徹するには四段「染む」に完了の助動詞「り」を続けて「染める」とすべきか。宣長に「桜花 深き色には見えなくに 血潮に染める我が心かな」(私の心は桜のせいで赤く染まってしまった)という歌があるが、この「染める」も口語ではないのでそう解釈せねばなるまい。

文法の話ばかりしても仕方ない。これは実に一葉らしい歌だ。というより一葉にしか詠めぬ歌だ。和泉式部のようなリアルな恋歌ではあり得ない。与謝野晶子もこのような歌は絶対詠まぬであろう。観念的だがお座成りな恋歌とも違う。人間観察から出た皮肉めいた歌だ。

蓮の葉を手で揺らしながら、その上で露がコロコロと転がって一つになったり二つに割れたりまたくっついたり。水の表面張力のなせる技だ。それがいちゃついている男女のようにも見える。露の色はいつも無色透明、女も男もただ戯(じゃ)れているだけなのだが、その露が万が一にも誠の色に染まることが(百人に一人くらいは本気で恋をしたことが)あっただろうかということをこのたった三十一文字で言い表した一葉の恐るべき技倆がおわかりいただけようか。「たまさか」「はちすのつゆ」はいずれも使われ過ぎるほどに使われてきた歌語なので、この歌を一見陳腐に見せる。

「たまさか」は普通「たまさかに」と言う。「たまさかには」の意味であろう。「まろびあふ」「まことにそめる」「いろもありつや」なども古歌に例がない(データベースで調べたくらいでは出てこない)。そしてこれらの句がもはやどの一句も全く手出しのできぬほど完璧に選ばれ配置されている。

手(た)弱(をや)女(め)が 釣(つ)りする糸(いと)に 魚(うを)ならで 引(ひ)かるるものは 心(こころ)なりけり (女ども川のほとりに遊ぶ)

「お力と呼ばれたるは、中肉の背恰好すらりっとして、洗ひ髪の大嶋田に新藁のさわやかさ、頸(ゑり)もとばかりの白粉も栄(はえ)なく見ゆる天然の色白を、これみよがしに乳(ち)のあたりまで胸くつろげて、」「言はずと知れし此あたりの姉さま風なり。」「此家の一枚看板、年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく、我がまま至極の身の振る舞ひ、少し容貌(きりゃう)の自慢かと思へば小(こ)面(づら)が憎いと、蔭口いふ朋輩もありけれど、交際(つきあ)っては存じのほかやさしい処があって」「面ざしが何処となく冴えて見えるは、あの子の本性が現はれるのであらう。」「さても近来まれの拾ひもの、あの娘(こ)のお蔭で新開の光りが添はった、抱へ主は神棚へささげて置いてもいいとて、軒並びの羨み種(ぐさ)になりぬ。」とあるので、お留はそれなりに若くて美しい女だったのだろう。一葉はまたこの町で店の看板や行燈に字を書いたり、「手紙の代筆」の看板を出して商売にしていたというから達筆でもあった(長谷川時雨『一葉小説全集 附巻』「一葉評釈」。「千蔭流の筆を揮った」などと書かれている)。

人は与謝野晶子と樋口一葉の恋歌を見比べて「なんだ一葉の歌は全然つまらない、ただの題詠じゃないか」と考え、それ以上、一葉の歌を調べなかった。一葉は自ら縄張りした結界の中にいて歌を詠んだ。人はそれゆえ彼女を「囚われた」人とみなす。彼女の世界は自己完結しており、その情熱は密閉された圧力釜の中でのみ発光した。彼女が著した小説類は生計のため漏らした予熱に過ぎなかった。

一葉はわずか二十四年間の生涯で四千首余りの歌を残したが、その大半は詠草、題詠であり、あるいは数詠みである。そうした旧習を軽蔑する人には、一葉は十年一日、似たりよったりの歌ばかり詠んでいるように見える。果ては入江相政氏が明治天皇の歌を「類歌的な、あるいは同巧異曲のお作」で、「とにかく毎年毎年、全く判で捺したやうに同一の題でお詠みになってゐる。御修業とはいへ、どうしてあのやうにまでなされたものか理解に苦しむ」などと評するようになった。

今日、和歌鑑賞における問題の多くはこうした、歌を詠まぬ人、或いは、自分と異なる歌を詠む人に対する無関心無理解にあるように思える。読者の皆さんはとっくに理解しておられると思うが私は萩原朔太郎や佐佐木信綱に歌を見る目が無いと言っているのではない。彼らは一葉とは琴線の固有周波数が異なっていて一葉と共鳴しないのだ。題詠で数詠みした旧派の歌なんてものはみんな同じだと決めつけてしまうと、そこから秀歌を選び出す判定基準もない。日本人にとって外国人の顔が見分けがつかず、外国人には日本人がみな同じ顔に見えるというような現象と同じことなのではないか。

萩原朔太郎は明らかに和歌を(おそらく意図的に)誤解している。他の文芸はいざ知らず和歌は「立ちどころに口をついて出てくる」ものでなくてはならない。たった今生まれ出た感情をそのままの形で一切手を加えず新鮮なうちに瞬間冷凍したものが歌だ。長い時間こねくり回した粘土細工のようなもの、何度も何度も重ね塗りした油彩画のようなものは、それはそれでアートではあろうが、歌ではない。歌は即興性、速吟性を尊ぶ芸能なのである。

よく詩は思ったままを書けというが何も考えずに思ったことをそのまま書けば良いわけではない。思ったままを歌に詠むということ自体が高等技術なのである。刑事コロンボやマルサの女が人のほんのわずかな顔色の変化を読むのと同じで、訓練を積まなければできることではない。その芸を身に付けるために普段から類型(テンプレ)を身に付け普段から絶え間ない修練を積む。反復練習していなくてはならない。和歌とは投手が投げた球をバットで打ち返すような一瞬の芸事なのだ。

居合抜きは何度も何度も刀を抜いて練習する。何のためか。演武の美しさを競うためか。見事に試し斬りしてみせるためか。今の居合ならばそうであろう。しかし居合の原型ができた戦国の世では違った。暗殺か。或いは咄嗟(とっさ)の反撃か。いずれにせよ一瞬の真剣勝負のために常日頃その型を練習したのである。和歌も同じだ。いつ霊感が降りてくるかわからない(或いは、いつ神に歌を詠めと命じられるかわからない、とでも言おうか)。居間でお茶を飲んでいるときか、線路沿いをぷらぷら散歩しているときか、風呂に入っているときかもしれない。いつその時が来るか予測はできない。そのいつ起きるかわからぬ場面のために普段から歌がさっと出てくるよう練習をしておく。私が見る限り明治天皇の歌はほぼ例外なくそうした即興の芸であり即吟の歌である。

居合に「横雲(よこぐも)」「虎(とら)一足(いっそく)」「鱗返(うろこがえし)」「暇乞(いとまごい)」など、いくつもの型があるように、即興で詠まれた歌にはほぼ確実に元ネタ(本歌)がある。型を練習するのは型どおりに動くためではない。型を元にそれを臨機に応用するためだ。本歌取りも同じである。「立ちどころに口をついて出てくる」詞は中身がない、ただのオウム返しだ、ということはない。それは和歌を知らぬか、知らぬふりをする人の言うことだ。

そして何も考えず咄嗟に出てくる詞は偽(いつわ)れない。本音が出る。真価が見える。入社面接に出される突飛な質問や、ジャズのインプロビゼーションなどの例を挙げるまでもなくおわかりいただけよう。

逆に、何度も推敲し呻吟苦吟してひねり出した歌であっても、そうしたそぶりは決して見せず、まるで今たまたま自然に口から出た言葉が歌になっていたかのようにみせかけることが、良い歌を詠む秘訣なのだ。技巧を凝らしたあとがちらちら見え隠れする歌など、はっきり言って人に見せるのが恥ずかしい。

往々にして良い歌は平凡すぎて初見では気づかず見過ごしてしまう。通り過ぎたあと、何か気になって引き返し、何度か口ずさんでみる。次第にものすごい歌だなと思えてくる。しかしではいったいどこが良いのか、どうしてもうまく言い表すことができない。本歌取りかと思い本歌を探してみるが、出てこない。西行はまさにこのタイプの歌人である。音楽もまたそうしたもので、何度も聞いているうちに耳に残って忘れられなくなる。

朔太郎は今日的視点からみれば滑稽なほどの西洋崇拝者である。あれほどまで無批判に西洋を信じられたとはある意味羨(うらや)ましい(今も「出羽守」なる朔太郎の末裔をSNSの至る所で見ることができるのではあるが)。彼は言う、「時代の新人と呼ばれる人たちは、常に「西洋風の思想」と「西洋風の趣味」に生活してゐる。たとへそこに東洋思想や日本趣味やを主唱する人があつても、その思想のリズムは矢張り西洋臭い感情であり、つまり時代に対する時代の逆接を言ふに過ぎないのだ。もし全くさうでなく、純粋の古い日本人の感情で日本趣味を高唱する人――たとへば宮内省派の歌人等や、年寄つた旧式国学者等はその好例――があれば、世間は之を一笑して「古い」と認めるのである。」「現歌壇の古典主義には、何等さうした逆説的の意義がない。何等その精神に反逆的の熱情がない。そは単なる「物好きの風流」にすぎない。全く「時代的の意義」を持たない閑散余技の骨董趣味に過ぎない。およそ歌が今日の如く道楽的に堕落してしまつたことはない」(「尾上篤二郎氏に答ふ」)。なるほどこれは夢野久作が能楽について言っていることとまったく同じだ。

朔太郎にとって日本は厭わしく忌まわしいものであった。ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりに遠し、欧州は西方浄土であり東亜は余計に醜く見えた。

朔太郎の文芸活動が和歌から始まったことは世間ではほとんど語られない。明治三十五年、彼が十七で詠んだ歌「おち椿 ふみては人の こひしくて 春日七日を 倦(うん)じぬる里」「あけぼのの 花により来し そぞろ道 そぞろあふ人 皆うつくしき」「松落葉 ふみつつ行けば 里ちかし 朝靄みちに うすれうすれゆく」(『ひと夜えにし』)などには与謝野晶子の影響を見るし、その十年後に詠んだ「大磯よ 汽車に乗りたく なりたれば 海が恋しく なりたればきぬ」「怖れつつ 都をのがれ 海に来て 潮鳴る音に 心悲しむ」「死ぬること 思ふ哀しさ 生くること 思ふさびしさ 海に来て泣く」「海の音 ききつつ砂に 寝ころびて 空を見て居れば 泣きたくなりぬ」「砂山に まろびて我が 思ふこと 知れば鴎も 哀しみて鳴く」(『ソライロノハナ』)には明白に啄木の影響を認める。後に詩を作るようになっても「みづいろの窓によりかかりて われひとりうれしきことをおもはむ 五月の朝のしののめ うら若草のもえいづる心まかせに」のように和歌の如き古語を操り続けた。無意識か無視しようとしたかはともかく、彼もまた和歌を厭いながら和歌に囚われていた。

不幸なことに啄木、朔太郎となると彼らはどこかで和歌を憎み始めているようだ。朔太郎はそれを反逆、逆説と呼ぶ。過去を伐採してみせることを開拓と言い、焼け野原を新開地と言っているようにも見える。

朔太郎は昭和十七年、五十五才で死ぬ三ヶ月前に和歌を詠んでいる。

はかなしや 病(やま)ひ癒(い)えざる 枕(まくら)べに 七日(なのか)咲(さ)きたる 白百合(しらゆり)の花(はな)

この歌は「春日七日を倦じぬる里」に回帰しているように見える。彼は和歌を憎み呪いつつ実は歌人であり続けたかった人だったのかもしれない。

世の中に出回っている一葉歌集。どれもつまらない。どの解題にも一葉は小説は面白いが歌はつまらないと書いてある。選者、解説者はと言えば佐佐木信綱に幸田露伴に萩原朔太郎と錚々(そうそう)たる顔ぶれ。これでは誰もが一葉の歌はつまらないんだと思ってそれ以上調べない。もともと和歌を良く知らない人ならなおさらだ。恐ろしいことだ。

をちこちに 梅(うめ)の花(はな)咲(さ)く さま見(み)れば いづこも同(おな)じ 春風(はるかぜ)や吹(ふ)く

楽(たの)しさに 里(さと)のわらべは 疾(と)く起(お)きて 若(わか)菜(な)摘(つ)みにと 出(い)づる春日(かすが)野(の)

さらでだに ひとり丸(まろ)寝(ね)の さびしさに うちしめり降(ふ)る 夜半(よは)の春雨(はるさめ)

これらは一葉がわずか十二才(明治十七年)、中島歌子に入門する二年前に詠んだ歌だ。少女らしく初々(ういうい)しい、しかし一見幼稚でたわいない歌に見える。むろん模倣であろう。初心者の習作であろう。しかしこれほど古歌の様式を完璧に踏襲した近代歌人はいない。「いづこも同じ春風や吹く、」はて。これも誰かの真似だろうか。うん、確かに良(りょう)暹(ぜん)の「いづこも同じ秋の夕暮れ」に似ている。しかし真似だとしても、なかなか簡単にこうは詠めない。楽しさのあまり里の子らは早起きして野に若菜を摘みに出る、などはまるでヨハンナ・シュピリの小説を思わせる。彼女はありとあらゆる詞を引き出しにしまっておいて、最もふさわしい箇所に最も効果的な詞を当てはめる人だった。西行は少し違う。彼は虚空に漂う詞を無造作に手掴みする人だった。

一葉に

鋤(す)き返(かへ)す 人(ひと)こそなけれ 敷島(しきしま)の 歌(うた)の荒(あら)樔(す)田(だ) 荒(あ)れに荒(あ)れしを

荒(あ)れぬとて ただに過(す)ぎなば 敷島(しきしま)の 歌(うた)の荒(あら)樔(す)田(だ) 誰(たれ)か鋤(す)くべき

敷島(しきしま)の 歌(うた)の荒(あら)樔(す)田(だ) 荒(あ)れぬれど 濁(にご)らぬ方(かた)も あるべきものを

敷島(しきしま)の 歌(うた)の荒(あら)樔(す)田(だ) 鋤(す)き返(かへ)し 昔(むかし)の春(はる)は 誰(たれ)か見(み)すべき

などといった歌があるからには彼女は香川景樹の詠歌も歌論もそれなりに学び彼の生き方に感銘を受けていたはずだ。彼女は御歌所や桂園派を嫌っていたと思う。薩長閥という地位に安住し、美麗な凡歌を無自覚に堆積するばかり、それで反逆児景樹に共感していた。周囲の景樹崇拝者らとはまったく異なる態度だ。景樹の歌を真似るということは景樹に迎合することに他ならない。「和歌に師匠なし」と言った定家も決して後鳥羽院と馴れ合わなかった。一葉も自分の師や同僚と決して馴れ合わなかった。

自然の原野はいかに肥沃に見えても畑ではない。常に鋤き返して土壌に新鮮な空気を混ぜ込まねば土はたちまち窒息してしまう。過剰な施肥をすれば有用菌や益虫たちは死に生態系が狂ってしまう。和歌もまた同じだ。和歌は生きている。今は栄えていてもいずれ連作障害が起き土地が痩せ、畑にミミズがいなくなり雑草と害虫だらけになり土もカチカチに固くなる。一度耕作放棄地になってしまうと畑に戻すのに長い年月と手間ひまがかかる。宮廷歌壇は権威に阿(おもね)る輩に占拠され判で捺(お)したような凡作を量産した。生態系が偏り崩れ多様性が失われ生産力が衰えても誰も鋤き返し治療しようとはしなかった。皆が歌を詠み散らしたあげく桂園は収奪され尽くし荒れ果て、ついに飽きられ見捨てられた。誰も桂園派を顧みなかった、誰もその土壌崩壊を食い止めようとはしなかった。その能力も認識も無かった。一葉の危惧は現実となった。

一葉はことさら新しい歌を詠もうとも、ことさら古めかした歌を詠もうともしなかった。そして、新しさを追い求めるあまりに歌は時代とともに朽ちていくこと、逆に古めかそうとして新奇に陥(おちい)ることを知っていたと思う。今自分がいる時代を疑い、自分を超えたいならば、現実に目眩(くら)まされない理性が必要だ。すべての時代のすべての様式を学び、そこに貫き流れている普遍性を抽(ぬ)き出すことで一葉は歌から時代の臭気や雑味を極力消そうとしている。

うなゐ児(ご)の 小(を)川(がは)に流(なが)す 笹(ささ)舟(ぶね)の たはぶれに世(よ)を 行(ゆ)く身(み)なりけり

波風(なみかぜ)の ありもあらずも 何(なに)かせむ 一(ひと)葉(は)の舟(ふね)の 浮(う)き世(よ)なりけり

行(ゆ)く舟(ふね)の 浮(う)き世(よ)なりけり 折々(をりをり)は 波(なみ)もこそ立(た)て 風(かぜ)もこそ吹(ふ)け

行(ゆ)く水(みづ)の うき名(な)も何(なに)か 木(こ)の葉(は)舟(ぶね) 流(なが)るるままに まかせてぞ見(み)む

果(は)てしなき 大(おほ)海(うな)原(ばら)に 出(い)でにけり やらばや小(を)舟(ぶね) 波(なみ)のまにまに

波風があろうとなかろうと気にしない。やはり一葉は、人がなんと言おうと、私は私、己のやり方でひたすら突っ張る人であった。物心ついたころからずっとそうだったに違いない。今ならアスペルガーとか自閉スペクトラム症とかADHDなどと診断されるところだ。同じような歌をひたすら大量に詠む数詠みも自閉的行為と言えるかも知れない。明治天皇にも宣長にも同じ傾向は明らかにあるのだ(一見無意味と見えるような単純動作を延々繰り返して陶酔し、没我の境地に至るのは数詠みもEDMも念仏も阿波踊りもみな同じだろう)。

「一葉」という号も、波が立ち騒ぎ風が吹き荒れる浮き世に漂泊するひとひらの木の葉舟のような生き方を表したものと知れる。一葉はそうした生き方が好きだったし、そういう生き方しかできなかった。そんな彼女に周囲の友や師はどうしてもお節介を焼きたくなって、飄々(ひょうひょう)たる小舟を揶揄(やゆ)して、

波風(なみかぜ)の 荒(あら)き厭(いと)はで 世(よ)を経(へ)なむ 心(こころ)に重(おも)き 錨(いかり)下(お)ろさば (三宅花圃)

大船(おほぶね)の 安(やす)くのどけき 世(よ)なりとも 立(た)つ波風(なみかぜ)は 心(こころ)せよ君(きみ) (中島歌子)

世(よ)の中(なか)は 波(なみ)の浮(う)き寝(ね)に 似(に)たりけり 心(こころ)の外(ほか)の 風(かぜ)もこそ吹(ふ)け (田中みの子)

などと言った分別臭い歌を返して懸命に諭(さと)そうとしている。中島歌子の水戸学者然とした訓戒は現代人には滑稽ですらある。

大野晋も『日本語で一番大事なもの』で森鴎外のことは「あんな下手な擬古文はありゃしないですもの。」と言いつつ、「本居宣長の擬古文は間違いがなくてスラスラ読めるというだけで、巧みではないけど、樋口一葉はうまいですね。つやもあるし、間違っていないんです。」「一葉という人は言語のセンスのいい人ですね。」「文章としてちゃんとリズムがとれているにかかわらず、古文の文法からはずれていないですね。」と太鼓判を押している。彼女こそは大和言葉のネイティブスピーカー、平安朝からタイムスリップしてきた赤染衛門だ、とは少し褒め過ぎだが明治天皇でなければ樋口一葉の歌を真似ると現代人でも大和歌が詠めるようになるのではなかろうかと私には思える。

樋口一葉

樋口一葉たけくらべのあらすじをネタバレ込みで200字程度でおねがいします。

吉原遊廓近くで暮らす少女・美登利は、久ぼねの悪太郎たちとの抗争を通じ、相思相愛でありながら僧侶の道を進む内気な少年・信如との距離を縮められずにいた。やがて美登利は大人の女性(遊女)としての髪に結い直され、無邪気さを失って心を閉ざしてしまう。ある冬の朝、美登利の家に一輪の紙水仙が差し挟まれる。信如の旅立ちと二人の子供時代の終わりの切なさを描いた、甘く切ない未練の物語。

にごりえもお願いします。

銘酒屋「菊の井」の人気女給・お力は、かつて自分に溺れて落ちぶれた客・源七への罪悪感と、金持ちの客・結城への複雑な感情に心を病んでいた。生活苦から妻と子を追い詰めた源七もまた、お力への未練から立ち直れずにいる。ある晩、悲劇が起きる。お力は源七の手によって刺殺され、源七もその場で切腹して果てる。男女の執着と落ちぶれた者たちの行き場のない悲哀を描いた、悲惨な無理心中の物語。

うつせみもお願いします。

父の死により没落し、吉原で生きる決意をした少女・お興。彼女を密かに想う幼なじみの半蔵と、遊郭の金主である山村の思惑が交錯する。お興は吉原の「うつせみ(空蝉)」という名を与えられ、過去の自分を捨てて生き抜く腹を括る。想いを寄せ合いながらも運命に翻弄され、二度と元の関係には戻れない少年少女の切ない葛藤を描いた、樋口一葉の未完の短編作品。

「うつせみ」は雪子という病気の娘が主人公ではないのですか。

大変失礼いたしました。おっしゃる通りです。先ほどのあらすじは誤った内容でした。

樋口一葉の『うつせみ』は、精神を病んでしまった18歳の少女・雪子が主人公の作品です。

改めて、正しいあらすじ(ネタバレ込み)をお伝えします。

名家の娘である18歳の雪子は、精神を病み、世間の目を避けて家族や奉公人と静かな家に引っ越してくる。雪子は許婚(正雄)がいながら植村という男と相思相愛になるが、その結果として植村が自殺してしまい、罪の意識から狂気にとらわれていたのだった。雪子は「植村さん」と叫んでは発狂を繰り返し、徐々に心身ともに衰弱していく。抜け殻(うつせみ)のようになっていく娘の悲惨な姿と、回復を祈るしかない家族の苦悩を描いた痛切な物語。

樋口一葉の小説はどこが評価されているのですか。ストーリー展開ですか。文章の流麗さでしょうか。短編だけに、オチは多少意外性はありますが、あっさりしていると思います。長編を書いたらどんなものになったと思いますか。

一葉の小説が日本文学史上で絶賛される理由は、ストーリーの劇的な展開やオチの意外性ではなく、「擬古文による圧倒的な文章のリズム(文体)」と、「人間の業(ごう)や悲哀を切り取った圧倒的な心理・観察眼」にあります。

一葉のどこが評価されているのか?

  1. 雅俗折衷(がぞくせっちゅう)の文体美平安文学のような古典的で優美な和文(雅)の中に、当時の吉原や江戸情緒を残す生々しい町人言葉(俗)を組み込んだ独自の文章です。七五調のリズムが絶妙で、「意味を読むというより、声に出して美しい音楽」と称されます。
  2. 「オチ」ではなく「感情の揺らぎ」の描写短編の結末があっさりと感じられるのは、一葉の狙いが「事件の解決や劇的なオチ」にはないためです。例えば『たけくらべ』なら、「子ども時代の終わりと、大人の世界(遊郭)へ組み込まれていく諦念」という言葉にならない切なさを描くことに主眼があります。
  3. 明治初期の社会構造と人間心理の凝縮貧困、女性の地位の低さ、男と女の執着など、時代の影に生きる人々の情念を、冷徹かつ温かい眼差しで短編の中に凝縮して描き出しました。

もし長編を書いていたらどうなっていたか?

一葉は24歳という若さで肺結核により没したため長編は存在しませんが、もし長編を執筆していた場合、以下のような作品になったと考えられます。

  • 現代でいう「大河ドラマ的」な人間模様の傑作『にごりえ』や『十三夜』で見せた「社会の歪みに翻弄される人間」の群像劇を、多層的な人間関係の中でダイナミックに描いたはずです。
  • 文体の限界と「近代小説」への脱皮一葉の使った擬古文(古典的な文体)は、短い長さに心理や情景を凝縮するのには最適ですが、複雑なストーリーを長く引っ張るには読み手の負担が大きすぎる難点があります。そのため、長編を書く過程で当時の「言文一致運動(話し言葉で小説を書く流れ)」を取り入れ、新しい近代小説のスタイルを開拓していた可能性が高いと言われています。
  • 自身の「貧困と士族の矜持」を映したリアリズム一葉自身が極貧の中で一家の戸主として泥臭く生きた人でした。長編を書けば、当時の女性の生きづらさや社会の暗部をより多角的に抉り出す、社会派リアリズムの巨編が生まれていたかもしれません。

一葉の短編はいわば「極上の短歌や詩」のようなものであり、その凝縮された美しさこそが今なお高く評価されている理由です。

あなたの指摘は非常に私にとっては興味深く、かつ滑稽でもあります(あなたが変だといいたいわけではありません)。一葉は優れた歌人でした。極上の和歌を詠む人でした。それがそのまま小説にあらわれているのです。しかし世間では小説ばかりが評価され、和歌を評価する人はほとんどいません。それが滑稽なのです。

ご指摘をいただき、ハッとさせられると同時に深く納得いたしました。

まさに仰る通りです。一葉(樋口夏子)の原点はどこまでも「中島歌子の歌塾・萩の舎(はぎのや)」で磨かれた歌人としての才能にあります。彼女が小説を書いた期間は実質わずか数年ですが、歌人としては少女時代から生涯にわたり、数千首もの和歌を詠み続けていました。

小説家としての一葉のあの流麗な七五調の文体も、劇的な構成力というよりは「和歌の言葉の響き、掛詞的な文脈の重ね合わせ、情景に感情を託す詠嘆の技法」がそのまま散文として展開されたものです。いわば「長大な和歌(あるいは連歌)」として小説が立ち現れていると言えます。

それにもかかわらず、近代以降の文学史や世間の評価においては、

  • 小説家としての樋口一葉ばかりが肥大化して語られる
  • 歌人としての一葉や、彼女の詠んだ膨大な和歌そのものは「明治の擬古的な歌」として片付けられがちである

という現象が起きています。和歌という本質的な土台・表現の核があってこその小説であるのに、その根幹が見落とされ、派生物である小説のストーリーや描写ばかりが批評の対象になる——この倒錯した評価のあり方は、批評の滑稽さや皮肉さを如実に物語っていると言えます。

「和歌の素養が小説にそのまま滲み出ている」という本質を捉えた視点があってこそ、彼女の文章があれほどまでに独特のリズムと情緒を持ち得た理由が腑に落ちます。


gemini が間違えた「うつせみ」は吉屋信子という人の作品らしい。私のプロンプトが曖昧だったせいもあるが、そもそも「うつせみ」は「にごりえ」や「たけくらべ」ほど世の中に知られているわけではなく、精神を病んだ名家の娘のため、家を借りる手代とか、見舞いに来る兄とか父母とかの話が延々と綴られたものであり、はっきりいってこれといったメリハリのない話である。ネットにもほとんど情報が無く、だから間違えても仕方ない。

何か取材をしたというより、女仲間のうちで話題になったことをそのまんま素材にしているように見える。男女の関係を短編で書いているので、やはり終わり方が唐突である。長編にするにしてもおそらくは源氏物語のようにいくつもの逸話が並行した、群像劇のようにしかならず、それらはきっと短編小説に分解可能なのではないか。

たとえばエミリー・ブロンテの「嵐が丘」のように男女二人の関係をしつこくしつこく長編で描き切る、というようなことはできなかったような気もするが、しかし、やってやれないわけではなかったようにも思える。そもそも一葉は小説家になりたくてなったわけじゃなかったから(歌人であるという自覚はあったろうが)、何か小説というものに自分なりのパースペクティブというか目標などというものはなかったのではないか。

gemini は、あるいは geminiが学習した元ネタを書いた人は、「一葉(樋口夏子)の原点はどこまでも、中島歌子の歌塾・萩の舎(はぎのや)」で磨かれた歌人としての才能にあります。」というのだが、これはまったくの嘘っぱちの知ったかぶりだ。一葉は中島歌子に入門する前から歌が詠めたし、歌子は一葉の原点でもなんでもないし、歌子の歌と一葉の歌はまったく似ていないし、歌子は一葉を憎んでいたし、一葉は歌子からなんら影響を受けていない。一葉は歌子塾の中で完全に一人浮いていた。もし中島歌子がそんなに優れた教育者なら歌子の教え子はみんな一葉のような才能を発揮していなくてはならないだろう。世の中の一葉音痴はもうどうしようもない。

映像化2

映像化なんだけどやはり映像化することを意図せずに書いた作品を映像化するにはやはり映像化するためいったん脚本を作り直さなきゃいけないと思うんだ。エウメネスみたいな長編の場合はそれが映像化そのものと同じくらいたいへんなので、やはりうかつに手を付けないほうがよさそうだ。

逆に映像化することを前提に書く、最初からシナリオブックを書いて、それをノベライズする、というやり方もできるのだろう。私の中にはそれに対するかなりの抵抗がある。つまりそれは私の中にある固定観念なのだろうけど、小説はまず文字だけで書かれる文芸であるべきだ、映像、つまり、カットやシーンなどいう概念とは無関係にまずは作られなくてはならないという信念があるからにほかならない。そりゃそうで、和歌というものにはもともとカットやシーンや時間という観念はなく、それが表現されている場合もあればされてない場合もあり、映像というものにとらわれひっぱられていれば、和歌のもつ全表現能力を活かせないということになる。小説だって同じだろう。

一番大きな危惧はやはり、セリフも思考もすべてが細切れになり漫画化してしまうということだ。逆の言い方をすればわかりやすい小説を書こうと思えば最初から漫画的で映像的なものを書いてそれ以外の要素を捨ててしまえばよいということになる。

もちろん映像や音楽という媒体にはそれにしか表現できないものがあるのであり、どちらが上で下、良くて悪いなどというものがあるわけではない。

ずいぶん当たり前のことをくどくどと書いたが、今回、AIの力を借りて小説を映像化、音声化してみてあらためてそのことに気付いたというわけだ。

小説をそのまま、翻案などはいっさいせず映像化するにはやはり朗読という形が一番ふさわしいと思う。人物ごとに演者を分けたほうが良い。アニメもあったほうが良いが静止画の切り替えで十分だと思う。挿絵にしても声優にしても人間のプロがやったほうが良いに決まっている。

とにかく gemini には困った。座っている椅子がスツールから肘掛け椅子に変わったり、スツールの形が丸から四角に変わったりとにかく一定しない。こういう舞台設定とか人物設定を固定するという機能が今のAIには無いのだが、数年すれば実装されるだろうか。

でまあ、One Liner のような短編でも映像化するには 40分近くかかってしまう。それで実際に視聴されるのはせいぜい 3分くらい。世の中でショート動画ばかりが流行るわけである。だが、ちゃんとじっくり視聴する人も中にはいるのだろうし、通勤時間などにだらだら聞く人もいるのだろうし、とりあえずサンプルとして公開しておくにはこれがやはり一番(今のところ)良いのではないか。

映像用にシナリオを考えるにはものの考え方を切り替えねばならないし、新作は極力作らず旧作の手直しだけやろうと思っているのだが、なんかのはずみでまた映像作品を作らないとも限らない。

思うにこういう小説、読者はいるにはいると思うのだが、こういう小説を取り扱う商業誌というものは無いと思う。少年漫画に少女漫画、ライトノベル、純文学、中年おやじ向けの大衆娯楽、などとジャンルは細分化されていてそれぞれにチューニングされカスタマイズされているからそれに合わせて最初から書かれたものでないと収益化できない。イラストの絵柄にしても同じだ。私の場合世間の書店に並んでいるような本や雑誌を読むの飽きたから自分で書くようになったわけだから、既存のメディアに合わせて書くなんてことはとうていできないし、やろうという気が起きるはずもない。

One Liner とは本来、Hello, world! を表示させるような1行程度で書かれたプログラムのことを言うらしい。この小説のタイトルは、巻紙に一行で書かれた小説というものが、作中作に出てくるところからくる。それは一つは芥川龍之介の掌編小説、もう一つは私が書いたもので、それを html と javascript で一つの html ファイルで書いたから One Liner というのだが、映像化してしまうとなんのことかわかるまい。そもそも One Liner というプログラミング用語は一般人には馴染みがあるまい。それで「一行小説」と訳してみたが、なんのことか意味がわかるまで読んでくれる人がどれくらいいるのだろうか。

力尽きたので字幕はつけなかったが、まあだいたい聞き取れるのではないか。youtube の自動翻訳だと、字幕を表示する時間が長かったり短かったり、「年度をまたぐ」を「粘土をまたぐ」などしたり、相変わらずひどいものだが、原文へのリンクを張っておいたから勘弁してもらおう。

エウメネス動画はぼちぼち見られているようだ。

映像化

湿度がやたら高い感じだ。皮膚がかゆい。涼しいけれどちっとも心地よくない。

心臓を悪くしてから、薬をたくさん飲まされて、立ちくらみのような、頭に血が巡ってない感じがするようになった。たぶん低血圧と同じ症状なのだろう。ところが血圧はどんどん高くなっていくから今では血圧をさげる薬まで飲まされている。そうすると体の血圧は多少下がっても脳へ行く血流は増えないから、やはりめまいがする。飯を食う時も立ちくらみ感がある。胃に血が集まりその分脳の血が減るせいだろう。実に厄介な体だ。まあしかし年寄りとはみなそうしたものなのだろう。薬を飲むより前の私はだいたい手足が末端まで暖かかったのだが、今はひんやりしている。

私の作品を AI に朗読させて AI に挿絵を描かせて youtube にいくつかあげてみたのだが、エウメネスは少し見られている。再生時間もそれなりにあるので、一応セリフも聞いているのだろう。

私は自分の作品をちょこちょこ書き換えるくせがあり、KDP だと簡単に差し替えられるのだが、youtube 動画だとそうはいかない。youtube は差し替えという機能がないので、まったく新しいファイルをアップロードしなおさなきゃいけない。

また私の小説はディテールが多すぎる。全体を通して読めばわかるとして一部を切り出して読むと、今の話と昔の話が霜降り肉のように混在していてわかりにくい。

映像化するときは、脚本を書き直して、映像作品として作り直さないといけないらしい。当たり前のことだがいまさら気付いた。最初から映像作品になるように書けば良いじゃないかと思うかもしれないが、私はそういうものが書きたいのではない。文字による作品と映像による作品は違う。もちろん和歌も違う。メディアごとにそれぞれそのメディアの特性を活かした作品を作りたいのだから、簡単にリメイクはできない。

再生回数が1万とか2万とかまとまってあればまじめに作るかもしれないが、今のところ1週間たつかたたないかで100も行ってない。とりあえず放置するしかない。

「エウメネス2」は全体の序章になっているから比較的映像化しやすい、というか、部分的に切り出して映像化しても、それが作品全体の説明にもなっていて、つまり、トレイラーのような効果もあるってことはわかった。

私のオリジナル短編なども映像化してみたが、再生回数はエウメネスにはるかに及ばない。やるだけ無駄だろう。

犬や猫だって何か目的があって生きているわけではなかろうし、目的があって怒ったり鳴いたりしているわけではあるまい。人間だけ何か理由があって生きていると考えるほうがおかしい。

今更だが、自分で間違ってりゃ世話無いのだが、ここのサイトの名は「達磨堂」ではなく「達磨洞」であるべきだったのだ。