現人神の創作者たち2

山本七平は鄭成功と朱舜水が日本に水戸学を産み、それが天皇絶対主義、現人神を作ったのだというストーリーを組み立てたいらしい。明の滅亡と王朝交代と亡命者の来日は確かに徳川時代初期の日本に大きなインパクトを与えただろう。

しかしながら中国の王朝交代というものは、大昔から継続して起きていたことであって、何も徳川時代初期に限らない。もちろん日本には多大の影響を与えただろうが、それは何度も繰り返し起きてきたことだ。中国王朝が交代すると日本に天皇絶対主義が発生するならばそれは歴史上何度も起きていなくてはならないのではないか。もちろん東アジアの超大国中国の政変が日本に影響を及ぼさないはずがない。後三条天皇は親政を目指した兆候があったがそれは北宋の成立に影響されたかもしれない。白河院の強力なリーダーシップによる院政はもしかするとその完成形かもしれない。院政というものも、儒教によって説明の付かないものだから儒者(特に水戸学者)には非常に評判が悪いが、白河院は極めて有能でかつ能動的な君主だった。白河院は藤原氏がお膳立てした朝廷というシステムも摂関政治も無視して独自の統治機構と財政システムを天皇家のために構築したのだが、そのヒントはおそらく中国のどこかにあったのだろう。

そして易姓革命と天皇絶対主義はまったく相容れないし、また、徳川時代における天皇と、明治になってからの天皇とも全然違う。つまり、水戸学では中国の儒学も、日本の天皇と幕府の関係も、まったく説明できないのである(むしろ日本の特殊性、儒学では日本の天皇を説明できないという、北畠親房が指摘した認識が再確認された、ということはあろう)。日本における天皇とは何かとか、幕府と天皇の関係とは何かということを合理的に説明しようと思うならば(合理的な説明が果たして存在するかはともかくとして)、中国の儒学や易姓革命などを完全に、いや少なくともある程度は切り離さないといけないはずだ。

さらにいえば、山鹿素行や浅見絅斎などの思想がそのまま戦前の国粋主義とか天皇絶対主義になったわけではないのは明らかだ。徳川時代の思想はもっと複雑で、それを薩長政権は吉田松陰などの思想を元に恐ろしく単純化してしまった。

現人神の創作者たち ですでに書いたとおりなんだけど、山本七平は小室直樹よりははるかに栗山潜鋒を正確に理解していたが、しかしまだ全然不十分だし、本居宣長もわかってないし、頼山陽がなぜ松平定信にオーソライズされたかもわかっていない。松平定信は水戸光圀や水戸斉昭などよりはるかに重要な思想家であり政治家であったがその意味もおそらくわかっていないだろう。山本七平や小室直樹がわかっていないのだからいまどきのネトウヨもまったくわかっていなくて当然だ。昨今、左翼の劣化が著しいがしかし右翼も同じくらい劣化している。

この問題は簡単ではない。頼山陽の「日本外史」を読めば山陽の思想を理解できるかといえば、誰も理解できなかったか曲解した結果、「日本外史」は倒幕運動明治維新のバイブルとなったのである。「新葉和歌集」もまたそういう扱いを受けた。

「日本外史」は明らかに佐幕の書であるし、大政委任論の副読本でもある。もちろん大政委任論という土台があったから大政奉還という考えがでてくるのだが、「日本外史」はあくまでも徳川政権の正当性を証した書である(武家政権による支配が正当、合法、合理的であるかはともかく、歴史的必然であって、実際に日本社会を統治するために機能しているのだから、特に落ち度がない限り承認せざるを得ない、という立場とでも言おうか。藤原氏による摂関政治が正当ならば武家による支配だって正当に決まっている。天皇による統治が理想であるが、武家による支配もまた方便として必要であるとは、松平定信の本音でもあったろうし、当時の武士階級のコンセンサスであったと言って良いはずだ。そもそも明治政府が振りかざす天皇親政という理想も、天皇が剥き出しの権力を行使しているのではなく、結局議会や内閣に大権を委任し運用しているのに過ぎない。藤原氏や北条氏、足利氏、徳川氏などの支配となんの違いがあろうか。頼山陽は徳川を礼賛するふりをして実は徳川を糾弾し、武家政権より天皇のほうが正統だと言いたかったのだという、まことしやかな言説がまかりとおっているが、それは浅見絅斎などの話であって、頼山陽の意図はそうしたものとはまったく違う)。栗山潜鋒の「保建大記」も同じだ(潜鋒は倒幕の預言書を書いたのだというトンデモ理論しか世の中にはみつからないのはいったいどうしたことだろう。100人中100人全員狂っているのだろうか)。これらの書を薩長は勝手に倒幕の檄文扱いしてしまった。明治維新から150年以上経っているのにいまだに大半の人がそれを信じている。不思議過ぎる(狂気の沙汰だ)。

寛政異学の禁で松平定信は官吏登用を朱子学に限ったので、定信はガチガチの朱子学者だと多くの人はイメージしているがそんなことはない。定信自身はどちらかといえば国学者だったし、彼の大政委任論は朱子学からガラガラポンと出てきたものではない。皇帝から委任されて幕府が世の中を治め、皇帝は万世一系で、世の中の趨勢に合わせてときどき幕府が交代して、皇帝がそのつど新たに政治を委任すればいいよねえ、なんて朱子が言うわけがない。中国の思想家の誰一人としてそんなことは言ってない。

「保建大記」はもともと天皇批判の発禁本だったとか、戦前は不敬すぎて黒塗りだらけで読めなかったなどというが、そんな本を私はみたことがない。国会図書館デジタルコレクションで「保建大記」で検索して出てくる戦前の本のどれもそんなことはないのに、なんでこんな話が流布しているのだろう。

この平泉澄による解説にしても、これでは何もわからぬであろう。わかるとしても山崎闇斎と谷深山のことばかりで、栗山潜鋒のことも「保建大記」のことも何もわからぬであろう(この谷深山という人は、「保建大記打聞」を書いて「保建大記」を有名にしてくれたありがたい人だけども、丁寧に解説していて、誤読はしていないものの、崎門思想に凝り固まっているために、潜鋒もまた闇斎の思想にかぶれていたという間違った印象を与えてしまっている)。小室直樹は平泉澄学派だったからこの解説を読んだに違いなく、だから潜鋒のことをまったく理解できていないのだと思う。

崎門というものは今でいうネトウヨみたいなものだったのだろう。崎門は現代にもまだ生きているのだ。

徳川時代の朱子学というものは今のポリコレや SDGs なんかとよく似ている。朱子学では結局、社会情勢や政治の趨勢というものはうまく説明できない。解析学も熱力学も生物学もなかった時代に社会現象の数学的モデルなんか作れるわけがない。

本場の中国でも、ましてや日本の天皇というものは、朱子学とはまったく別の原理で動いている。そんなことはみんな気付いていた。ただみんなもうガチンコの戦争やるのに疲れて、関ヶ原の戦いや大阪の陣を蒸し返すのは嫌だから、徳川の権威を認め、徳川も自分らの正当性を武力以外の何かで担保するために朱子学というものを掲げていたに過ぎない。

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