亭子院歌合 謎すぎる。
左の頭、女六宮、方の親王、御兄人の中務の四の親王、弾正の五の親王
wikipedia を信じるならば、女六宮は宇多上皇の第六皇女、誨子内親王であろう。
歌詠みのほかに、右または左に付いて応援する人がいたらしい。それを方の人、方の親王というのだろう。御兄人の中務の四の親王は敦慶親王、弾正の五の親王は敦固親王として問題あるまい。
亭子院とは主催者の宇多上皇の居宅であると同時にその人そのものの呼び名であったはずだ。
右の頭、女七宮、方の親王、御兄人の上野の八宮、清和貞数の八宮
女七宮は宇多上皇の第七皇女、依子内親王であろう。上野の八宮とは敦実親王、清和貞数の八宮とは、清和天皇の皇子、貞数親王の第八皇子かとも思えるが、貞数親王は清和天皇の第八皇子だったので、貞数親王本人のことだと考えるのが無難だと思う。清和天皇は摂家に極めて冷遇された人だから、貞数親王の皇子だと親王宣下はされていないだろうし、まして第八皇子で親王ということはまずあり得ない。
「御」「院」とあるのは宇多上皇のことであろう。
かくて左方に上の御心よりたりとて、右方の皇子恨みきこえさせたまふと聞こし召して
行き帰り 千鳥鳴くなる はまゆふの 心へだてて 思ふものかは
左も右もこれは合はずなりける
明らかにこれも宇多上皇の歌である。右方の皇子とは敦実親王のことだろう。
敦慶、敦固、敦実は醍醐天皇(敦仁親王)の実母弟であって、当時最も権勢があり、敦実が兄、敦慶敦固に文句を言ったということは普通にあり得るし、それを父の宇多上皇が歌を詠んでなだめたというのも、父子の情愛のうちであった。
しかるに、貞数親王はかなり血が遠い。清和天皇は妃藤原高子によって陽成天皇に譲位させられ、水尾の里に幽閉され、30年前に崩御しており、貞数親王は当時すでに38才と当時としては壮年であったから、かなり遠慮はあったに違いない。
また亭子院歌合は女房の伊勢が日記に書き残したものであり、記憶違いや書き間違い、欠落などが多かったと思う。
宇多上皇の歌はあまり残っていないが醍醐天皇と同じくらいには歌がうまく、かつ即興でいくらでも詠めたらしいことがわかる。
「はまゆふ」は葉が重なり合って育つので、幾重にも重なる意味に使われる。「はまゆふの いく重ねとも 知られざりけり」「はまゆふの 重ねてもなほ」「はまゆふの 百重なす心は 思へども」などなど。はまゆふの葉のように重ね重ね配慮しているよと言いたいわけである。