丸谷才一の「闊歩する漱石」が kindle unlimited だったので読んでみたのだが、これはひどい本である。
良い本はその人の悪いところがわかりにくいが、悪い本を読むとその人の本性が如実に見える。
まず、漱石とタイトルに謳いながら、漱石のことはほとんど書いてない。これが単に、よくある丸谷才一のエッセイ集であれば、まあそういうもんだろうと全然腹は立たなかっただろうが、漱石の本かと思って読むと、全然関係ないことばかり書いている。
次に、「坊っちゃん」と「三四郎」と「吾輩は猫である」この三つの作品のことしか書いてない。「坊っちゃん」は単なる娯楽小説、落語小説なので、おもしろいっちゃ面白いかもしれないが、別に大の大人が読むようなものではないし、ましてわざわざ論評するようなものでもない。「猫」に至っては
「大和魂! と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした」
「起し得て突兀ですね」と寒月君がほめる。
「大和魂! と新聞屋が云う。大和魂! と掏摸が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」
「なるほどこりゃ天然居士以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。
「東郷大将が大和魂を有っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有っている」
「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」
「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」
この箇所だけ原文を丸ごと引用して、この箇所以外にはほとんど何も言及すらしていない。丸谷は、あまりにも左翼思想に凝り固まっているために、それ以外の箇所はまったく見えてもいなし、論じる価値さえ感じないらしい。
おそらくこの本は、出版社から漱石のことを書いた本を書けば売れそうだから書いてくれと言われて、やる気も興味もなくて、適当に書いたというようなものに違いない。あまりにも売れないから unlimited で出したか。「闊歩する漱石」なんなんだよそのタイトル。誰がなんのためにそんなタイトルを付けたのだ。実に人をバカにしている。
amazon のレビューもみてみたが、裏竹秋という人が私と同じようなことを書いて☆1つ付けていた。敬意を表して引用させてもらう。
脱線に継ぐ脱線
Reviewed in Japan on November 14, 2023
小林秀雄と同じ穴の狢で評論失格である。
まったく冒頭の「坊つちやん論」もどこが漱石論なのかというほど、大半が日本と西洋の小説の列記の列記で占められている(!)。穴埋め、水増し。たくさんの蘊蓄を語って結局何も言っていない。
しかも肝腎の、フィールディングに影響を受けたのではないかという説も確たる証拠があるわけではなく、《無意識に作用》だの《頭のどこかで引っかかってゐた》だのフロイドみたいな感想ごときものばかり。
だいたい初めからして《読んでゐない人はゐないし》って、私の友人は『坊つちやん』読んでませんでしたけどね。『フィネガンズ・ウェイク』の箇所はへーって思ったけどさ。
改めて丸谷才一という人がどんな小説家だったかということを考えてみるに彼は敗戦直後の左翼全盛期の日本でその波に乗っかって一過性の作品を書いてその界隈で一定の評価を受けた人、そのあとなぜか国語教育とか国文学に口出ししたけれど、よくよく読んでみると全然間違っていた人、小林秀雄を批判しながら自分も小林秀雄と似たりよったりだった人としか言いようがない(無関係なことを延々と書くという意味では小林秀雄よりひどい)。小林多喜二や葉山嘉樹は歴史に残るかもしれぬが丸谷才一は残るまい(残る必要すらないと思えてきた)。「エホバの顔を避けて」は好きだが、あれも旧約聖書の焼き直し以上のものではないしな。