あいかわらず「はかもなきこと」を整理しているのだが、定家の禅、定家の禅2、定家の禅3。「虚構の歌人 藤原定家」はもともと「定家の禅」というタイトルにする予定だったなどと書いていて、全然忘れてて我ながらびっくりしている。当時執筆しながら悩んでいたことと今書いていて感じていることが、ほとんど同じなのにも呆れる。
「絞り切れてない」「膨らませるのが苦手」というのは一つのテーマ、一人の評伝に集中して書きたいのだが、いろんなことをついでに書いてしまって、それで300枚とか文字数が増えて、話が拡散してしまって良くないなどと言っている。
丸谷才一など、しばしば本題とは関係ないことを書き散らかしているのをみると、ずいぶん殊勝なことを言っているようにも思えるが、あっちは売れっ子作家でなんでも良いから書いてくれと言われて書いてるのだろうから自分とは比べようもない。300枚というのはざっと10万字くらいのことを言っているのかと思うが、今から思えば分量としては全然少ない。
「定家の禅」というタイトルでもう一冊定家について書けるかと言われると、ちょっと難しい。結局私は一人の人間の評伝を書くというタイプではないのだ。
「評伝 小室直樹」上下巻。圧倒的である。公私両面微に入り細を穿つとはああいうものをいうのだろう。評伝としてはあれ以上のものは書けまい。
私が書くならもっと違う構成になると思う。
「ソビエト帝国の崩壊」「アメリカの逆襲」この2つは紛れもない名著である。がしかしおかしなこともたくさん書いている。これら以外は、まあ、普通か。小室直樹は、山本七平やマックス・ヴェーバーの影響が強すぎる。ヴェーバーの説にしても一つの仮説、学説に過ぎないのにそれを真理であるかのように書く。山本七平のいう空気とか急性アノミーについても、うまく社会現象を説明できているようにみえて実際にはそうともいえない。
小室直樹の栗山潜鋒認識はかなりおかしく、浅見絅斎や山鹿素行、安積澹泊などと混同している。これらすべては平泉澄の受け売りに過ぎず、自分で一から崎門学を身に着けたわけではないからだろうと思う。この平泉澄の影響というものが小室直樹を大きく歪めてしまっているのは否定しようもない事実だ。
「保建大記」は、谷秦山が異様なほど絶賛している書籍。谷秦山を、平泉澄博士は、最高の尊王学者と評価している。
「評伝 小室直樹」下 p.358
ここがおかしい。学者や学説というものは絶賛したり最高に評価したりするものではない。どんな学説も問題究明の途中経過に過ぎない(数学や自然科学ならば最終結論 or 一旦解決というものはあるかもしれないが)。まして学者を崇拝してはいけない。この態度が根本的に間違っている。谷秦山はどちらかといえば普通の凡人、単なる努力家である。崎門学などを信じている時点でたかが知れている。彼はあれほど丁寧克明に「保建大記」を解説してみせたけれども栗山潜鋒の主張や執筆動機についてはほぼ何も理解していなかった。それを崎門学的に解釈しただけだった。
小室直樹は、日本史だけでなく世界史についてもその認識はかなりあやしい。宮崎市定などとは雲泥の差だ。
しかしながらここまでおかしなことを言っているのにも関わらず、彼はときどき誰も気付かず、指摘もしないような論点をえぐり出して投げつけてくる。誰の影響かも不明だ。まず社会主義国家の崩壊。アメリカ資本主義の矛盾。日本の司法(田中角栄問題など)、日本の教育(戸塚宏擁護など)、日本の税制(消費税など)、フィリピンの独裁(マルコス)。そうすると高校生くらいの読者(当時の私など)がみると、それらの真偽の区別はまったくわからず、なにもかもが混然としていて、ただものすごい勢いでそれっぽいことを言っている人、世間では敢えて言わないことを言う人、に見えるのである。そこが彼の魅力であり、本が売れた理由だろう。単にすごく偉い学者が、難しい理論を、一般人にもわかるように噛み砕き力説してみせた、だけではない。
だから私が小室直樹を書くとしたら、学者や学説を崇拝するな、疑え、丁寧に分析せよ、他者から受けた影響と本人独自の直感洞察を見分けろ、というような主旨のものを書くことになろう。それは小室直樹がカッパ・ブックスから出した本とは完全に真逆な本であるから売れるはずがないのである。
なぜ小室直樹があれほど田中角栄を愛したかといえばやはりそれは小室が会津の出身であり、山一つ隔てた越後から出た角栄が宰相にのぼりつめて日本の戦後高度経済成長を成し遂げた人であったからだろう。好き嫌いというものは大事だ。好きであればこそ、世間の風評を突き抜けた先の真理にたどり着けるのだから。
ところで、どちらかといえば崎門学とはさほど関係なさそうな書の解説「保建大記打聞」を谷秦山はなぜを書こうと思ったのか。内容を理解して書いているならともかく理解してないのに書いているのがあやしいのである。
保建大記打聞一(谷秦山の弟子による序)
師(谷秦山)曰く、吾も人も日本の人にて、道に志あるからは、日本の神道を主にすべし。其の上に器量・気根もあらば、西土の聖賢の書を読みて、羽翼にするぞならば、上もないよき学なるべし。是れ、舎人親王(『日本書紀』を編纂した舎人親王のこと)の御本意、恐れながら吾等、内々の志なり。然るに今の神道者は、西土の書に疎くて文盲なり。儒者は人の国を贔屓し、吾が国の道を異端のやうに心得て誹り、各異を立てて湊合(集合)根著(根付く)せず。学風が薄く猥りにして、見るに足らぬぞ。吾これを憂ひ、内々同志と講習して、天下の学風の助けにもなるやうにしたいと思へども、山崎(闇斎)先生は過ぎ去り給ひて久しく(天和二(一六八二)年死去)、浅見安正(絅斎。闇斎門下)は晩年神道に志は出来たれども(垂加神道に従わず闇斎と疎遠になったが、闇斎死後神道に興味を示し、闇斎説を継承したことを言う。正徳元(一七一一)年死去)、やうやう一両年のうち卒去めされて、うしろだてだにすべい先輩なく、其の外、名ある学者たち、多くは斉の国、魯の国の詮索を第一にして、吾が国に懇切なる志無く、または神道を尊敬はせらるれども、未伝授なり。其の外は詩文の淫華に愛で、どれこそ取るに足らぬぞ。平生、是を気の毒に思ひをりたに、このごろ不慮に此の書(保建大記)が出たぞ。是ほど珍重なことはない。古今珍しい書ぞ。是こそ神道を大根にして、孔孟の書を羽翼にしたと云ふものぞ。さるによって吾、ことのほか信仰する。過ぎ去った人なれども、甚だ味方に思ふて、此の講席を開くぞ。別して本望千万ぞ。栗山氏の師授淵源は知らねども、両巻とも論に間然することはないと見へた。先賢にも愧ぢぬ見識、後学の良き矜式(手本)なり。日本の学者は、ただこのやうに学問をしなすべいものぞ。千万祈祝の至りなり。
この序文を見るに、おそらく、山崎闇斎、浅見絅斎が没したあと、崎門を率いる先達としては谷秦山くらいしか残っていなかった。そこで崎門の門人らは、強いて谷秦山に保建大記を講義してもらってこれを出版し、崎門学を広め強固にしようとしたのだろう。これだけのものを口述筆記するというのは並大抵ではない。つまり、当時の名も無き崎門学者の中に非常に優れた編集者(おそらくは熱心な神道家)がいたということなのだと思う(ガウタマ・シッダルタの弟子にサーリプッタやアーナンダがいたように。イエスの弟子にパウロがいたように。孔子の弟子に無名の筆記者がいたように)。
其の外は詩文の淫華に愛で、どれこそ取るに足らぬぞ。平生、是を気の毒に思ひをりたに
うっかり読み過ごしてしまうところだが、この、「詩文の淫華に愛で」とはなんぞや。「打聞」が出たのは1720年なので、漢学や詩文にばかりかかずらって神道をないがしろにした荻生徂徠を暗に批判しているようにも思える。「平生」「気の毒に思ひをりた」のは誰か。谷秦山ではあるまい。頼りなさげな彼を師と仰ぐ崎門学派の門下生らだったに違いない。
神道を大根にして、孔孟の書を羽翼にした
孔孟の書を大根にして、神道を羽翼にしたのが徂徠であった。
さらに言えば、崎門は経典を、崎門学の聖典を必要としていたのだ。山崎闇斎、浅見絅斎らは、気合は十分だったが、彼らの書は必ずしも経典にふさわしい体裁を備えたものではなかった(国学者らが「古事記伝」を経典として必要としたように)。そこで崎門学派の中でめぼしい書を見繕ったときに、「保建大記」がちょうどその目的によろしかろうと目を付けたということではなかったか。実際今や崎門学のバイブルとして第一に挙げられるのがこの「保建大記打聞」なのである。少なくとも平泉澄はそう認識している。それを小室直樹は鵜呑みにしている。
吾も人も日本の人にて、道に志あるからは、日本の神道を主にすべし。其の上に器量・気根もあらば、西土の聖賢の書を読みて、羽翼にするぞならば、上もないよき学なるべし。
日本の学者は、ただこのやうに学問をしなすべいものぞ。
崎門学徒にとって崎門学とはかかる学問でなくてはならなかった。栗山潜鋒はしかしそんなことは必ずしも主張しなかったし、そういう目的のために「保建大記」を書いたのでもなかった。「保建大記」を虚心に読めば明らかだ。
山崎闇斎、浅見絅斎、山鹿素行、彼らはみな、日本が主となり、中国が副となるような思想宗教が正しい、日本の学者ならば日本を主とし中国を副とする学問をすべきだ、という結論が先になければならぬと主張するが、それはすべて中国に対する劣等感の裏返しに過ぎない。
栗山潜鋒も同じようなことを言ってはいるのだが、彼は相対主義者であって、闇斎、絅斎、素行は絶対主義者だった。潜鋒は明確に、地球上のどの地点も世界の中心たり得る、中国人は中国が中心だと考えればよく、同じ様に日本人は日本が中心であると考えればよいと言っているだけだ。闇斎、絅斎、素行は日本こそが中華で中国は田舎である、日本が偉く中国が劣っていると主張している。そこが根本的に違う。
世に学者が現れると弟子が集まってくるものである。漱石を慕って集まってきた、芥川龍之介などの文人らもまたそうだ。なぜ学者が現れるかと言えば時代がそうした学者を必要とするからであり、学者が自分の力で世に出るのではない。宣長の場合も同じだ。
社会が、時代が、弟子たちが期待する師と、実際の師は乖離している。その乖離がはなはだしかったので、宣長は容易に理解されなかったし、いまだに理解されていない。それは宣長のせいというよりも、宣長をありのままに受け入れられない世の中が悪いのだといえる。宣長は決してこむつかしいわかりにくい超絶理論を他人に押し付けようとしたのではない。
預言者は郷里に容れられぬというが、モーセもまたイスラエル人を率いてイスラエル人に理解されなかった人だっただろう。
世の中にすんなり受け入れられるのは普通の師である。そうした場合、師が何か言う前に人は師が何をいうかすでに知っている。しかしそうしたわかりやすい師というものは結局何も言っていないのと同じだ。一方でわかりやすくない師というものは永遠に人に理解されない。ただ世の中の都合で曲解されるだけなのである。
栗山氏の師授淵源は知らねども、両巻とも論に間然することはないと見へた。
今から思えばこれも、「打聞」編集者自身潜鋒の考えは、山崎闇斎、浅見絅斎の教えとは直接関係ない、ほんとうは何が言いたいのかは自分らにもわからんと白状しているようなものではないか。