丸谷才一、鹿島茂、三浦雅士「文学全集を立ちあげる」に、香川景樹を閑院宮家が庇護している、という三浦雅士の発言がある。これはおそらく、景樹が妙法院宮真仁法親王(閑院宮家の皇子)の歌会で、妙法院宮が出した「いつはりの夕」と言う題に、
来むと言ふを 待たじと言ひし この暮れの 我がいつはりも 苦しかりけり
と即興で返して一座を驚嘆させたという逸話(山本嘉将『香川景樹論』)によるのだろう。妙法院宮真仁法親王は光格天皇の異母兄である。この二人の父は閑院宮典仁親王であって、典仁親王が香川景樹を贔屓にしていたのはほぼ間違いない。そして光格、仁孝、孝明、明治天皇が、従来の堂上和歌、御所伝授から外れて、香川景樹の影響下にあったと言う仮説も十分成り立ち得る。
真仁法親王はもともとは小沢蘆庵の門人(?)であったらしい。蘆庵が冷泉為村に破門され太秦に移り住んでいたころ、真仁法親王は蘆庵の家を訪ねているという。景樹と蘆庵は懇意であったから、それで景樹は真仁法親王の歌会にも呼ばれたのであろう。
明治天皇の和歌指南役であった三条西季知などは堂上であったと思うが、堂上の間でもすでに桂園派が広まっていたということはあり得なくもない。
列聖全集第11巻、第12巻辺りに御製が収められているから、今度よく見てみよう。
なお尊号一件だが、典仁親王に太上天皇号を与えないと松平定信が決定した理由は、定信が朱子学に凝り固まっていたからではなく、おそらくは後桜町上皇と閑院宮家との確執のためであろう。典仁親王が上皇になれば後桜町上皇と対等ということになり、それが後桜町上皇には耐え難かったのだろう。傍系の天皇が即位してその父に院号を与える例はあるが、与えなかった例は(太上天皇号の制度が出来て以来)無いと言ってよい。定信がそれを知らぬはずがない。それ以外に定信がこだわらねばならぬ理由が見つからない。定信がすべての責任を負う形で、老中の職を辞したとみるべきだ。
ウィキペディアには後桜町上皇が
「御代長久が第一の孝行」と言って光格天皇を諭したことは有名である。このように朝廷の権威向上に努め、後の尊皇思想、明治維新への端緒を作った光格天皇の良き補佐を務めたことから、しばしば「国母」といわれる。
などと書かれているが、こんなことはまったく信用できない。典仁親王の足を引っ張ったのは後桜町上皇その人であろう。後桜町上皇に恨みがあったのは確かだが、彼女がなぜそこまでごねられたか。おそらく彼女は皇室財産を相続する正統な権利を持っていたからだろう。その財産を処分するなどと言われたら大変なことになる。或いは典仁親王と後桜町上皇の間で財産分割が行われることになり、それが嫌だったのかも。