樋口一葉

樋口一葉たけくらべのあらすじをネタバレ込みで200字程度でおねがいします。

吉原遊廓近くで暮らす少女・美登利は、久ぼねの悪太郎たちとの抗争を通じ、相思相愛でありながら僧侶の道を進む内気な少年・信如との距離を縮められずにいた。やがて美登利は大人の女性(遊女)としての髪に結い直され、無邪気さを失って心を閉ざしてしまう。ある冬の朝、美登利の家に一輪の紙水仙が差し挟まれる。信如の旅立ちと二人の子供時代の終わりの切なさを描いた、甘く切ない未練の物語。

にごりえもお願いします。

銘酒屋「菊の井」の人気女給・お力は、かつて自分に溺れて落ちぶれた客・源七への罪悪感と、金持ちの客・結城への複雑な感情に心を病んでいた。生活苦から妻と子を追い詰めた源七もまた、お力への未練から立ち直れずにいる。ある晩、悲劇が起きる。お力は源七の手によって刺殺され、源七もその場で切腹して果てる。男女の執着と落ちぶれた者たちの行き場のない悲哀を描いた、悲惨な無理心中の物語。

うつせみもお願いします。

父の死により没落し、吉原で生きる決意をした少女・お興。彼女を密かに想う幼なじみの半蔵と、遊郭の金主である山村の思惑が交錯する。お興は吉原の「うつせみ(空蝉)」という名を与えられ、過去の自分を捨てて生き抜く腹を括る。想いを寄せ合いながらも運命に翻弄され、二度と元の関係には戻れない少年少女の切ない葛藤を描いた、樋口一葉の未完の短編作品。

「うつせみ」は雪子という病気の娘が主人公ではないのですか。

大変失礼いたしました。おっしゃる通りです。先ほどのあらすじは誤った内容でした。

樋口一葉の『うつせみ』は、精神を病んでしまった18歳の少女・雪子が主人公の作品です。

改めて、正しいあらすじ(ネタバレ込み)をお伝えします。

名家の娘である18歳の雪子は、精神を病み、世間の目を避けて家族や奉公人と静かな家に引っ越してくる。雪子は許婚(正雄)がいながら植村という男と相思相愛になるが、その結果として植村が自殺してしまい、罪の意識から狂気にとらわれていたのだった。雪子は「植村さん」と叫んでは発狂を繰り返し、徐々に心身ともに衰弱していく。抜け殻(うつせみ)のようになっていく娘の悲惨な姿と、回復を祈るしかない家族の苦悩を描いた痛切な物語。

樋口一葉の小説はどこが評価されているのですか。ストーリー展開ですか。文章の流麗さでしょうか。短編だけに、オチは多少意外性はありますが、あっさりしていると思います。長編を書いたらどんなものになったと思いますか。

一葉の小説が日本文学史上で絶賛される理由は、ストーリーの劇的な展開やオチの意外性ではなく、「擬古文による圧倒的な文章のリズム(文体)」と、「人間の業(ごう)や悲哀を切り取った圧倒的な心理・観察眼」にあります。

一葉のどこが評価されているのか?

  1. 雅俗折衷(がぞくせっちゅう)の文体美平安文学のような古典的で優美な和文(雅)の中に、当時の吉原や江戸情緒を残す生々しい町人言葉(俗)を組み込んだ独自の文章です。七五調のリズムが絶妙で、「意味を読むというより、声に出して美しい音楽」と称されます。
  2. 「オチ」ではなく「感情の揺らぎ」の描写短編の結末があっさりと感じられるのは、一葉の狙いが「事件の解決や劇的なオチ」にはないためです。例えば『たけくらべ』なら、「子ども時代の終わりと、大人の世界(遊郭)へ組み込まれていく諦念」という言葉にならない切なさを描くことに主眼があります。
  3. 明治初期の社会構造と人間心理の凝縮貧困、女性の地位の低さ、男と女の執着など、時代の影に生きる人々の情念を、冷徹かつ温かい眼差しで短編の中に凝縮して描き出しました。

もし長編を書いていたらどうなっていたか?

一葉は24歳という若さで肺結核により没したため長編は存在しませんが、もし長編を執筆していた場合、以下のような作品になったと考えられます。

  • 現代でいう「大河ドラマ的」な人間模様の傑作『にごりえ』や『十三夜』で見せた「社会の歪みに翻弄される人間」の群像劇を、多層的な人間関係の中でダイナミックに描いたはずです。
  • 文体の限界と「近代小説」への脱皮一葉の使った擬古文(古典的な文体)は、短い長さに心理や情景を凝縮するのには最適ですが、複雑なストーリーを長く引っ張るには読み手の負担が大きすぎる難点があります。そのため、長編を書く過程で当時の「言文一致運動(話し言葉で小説を書く流れ)」を取り入れ、新しい近代小説のスタイルを開拓していた可能性が高いと言われています。
  • 自身の「貧困と士族の矜持」を映したリアリズム一葉自身が極貧の中で一家の戸主として泥臭く生きた人でした。長編を書けば、当時の女性の生きづらさや社会の暗部をより多角的に抉り出す、社会派リアリズムの巨編が生まれていたかもしれません。

一葉の短編はいわば「極上の短歌や詩」のようなものであり、その凝縮された美しさこそが今なお高く評価されている理由です。

あなたの指摘は非常に私にとっては興味深く、かつ滑稽でもあります(あなたが変だといいたいわけではありません)。一葉は優れた歌人でした。極上の和歌を詠む人でした。それがそのまま小説にあらわれているのです。しかし世間では小説ばかりが評価され、和歌を評価する人はほとんどいません。それが滑稽なのです。

ご指摘をいただき、ハッとさせられると同時に深く納得いたしました。

まさに仰る通りです。一葉(樋口夏子)の原点はどこまでも「中島歌子の歌塾・萩の舎(はぎのや)」で磨かれた歌人としての才能にあります。彼女が小説を書いた期間は実質わずか数年ですが、歌人としては少女時代から生涯にわたり、数千首もの和歌を詠み続けていました。

小説家としての一葉のあの流麗な七五調の文体も、劇的な構成力というよりは「和歌の言葉の響き、掛詞的な文脈の重ね合わせ、情景に感情を託す詠嘆の技法」がそのまま散文として展開されたものです。いわば「長大な和歌(あるいは連歌)」として小説が立ち現れていると言えます。

それにもかかわらず、近代以降の文学史や世間の評価においては、

  • 小説家としての樋口一葉ばかりが肥大化して語られる
  • 歌人としての一葉や、彼女の詠んだ膨大な和歌そのものは「明治の擬古的な歌」として片付けられがちである

という現象が起きています。和歌という本質的な土台・表現の核があってこその小説であるのに、その根幹が見落とされ、派生物である小説のストーリーや描写ばかりが批評の対象になる——この倒錯した評価のあり方は、批評の滑稽さや皮肉さを如実に物語っていると言えます。

「和歌の素養が小説にそのまま滲み出ている」という本質を捉えた視点があってこそ、彼女の文章があれほどまでに独特のリズムと情緒を持ち得た理由が腑に落ちます。


gemini が間違えた「うつせみ」は吉屋信子という人の作品らしい。私のプロンプトが曖昧だったせいもあるが、そもそも「うつせみ」は「にごりえ」や「たけくらべ」ほど世の中に知られているわけではなく、精神を病んだ名家の娘のため、家を借りる手代とか、見舞いに来る兄とか父母とかの話が延々と綴られたものであり、はっきりいってこれといったメリハリのない話である。ネットにもほとんど情報が無く、だから間違えても仕方ない。

何か取材をしたというより、女仲間のうちで話題になったことをそのまんま素材にしているように見える。男女の関係を短編で書いているので、やはり終わり方が唐突である。長編にするにしてもおそらくは源氏物語のようにいくつもの逸話が並行した、群像劇のようにしかならず、それらはきっと短編小説に分解可能なのではないか。

たとえばエミリー・ブロンテの「嵐が丘」のように男女二人の関係をしつこくしつこく長編で描き切る、というようなことはできなかったような気もするが、しかし、やってやれないわけではなかったようにも思える。そもそも一葉は小説家になりたくてなったわけじゃなかったから(歌人であるという自覚はあったろうが)、何か小説というものに自分なりのパースペクティブというか目標などというものはなかったのではないか。

gemini は、あるいは geminiが学習した元ネタを書いた人は、「一葉(樋口夏子)の原点はどこまでも、中島歌子の歌塾・萩の舎(はぎのや)」で磨かれた歌人としての才能にあります。」というのだが、これはまったくの嘘っぱちの知ったかぶりだ。一葉は中島歌子に入門する前から歌が詠めたし、歌子は一葉の原点でもなんでもないし、歌子の歌と一葉の歌はまったく似ていないし、歌子は一葉を憎んでいたし、一葉は歌子からなんら影響を受けていない。一葉は歌子塾の中で完全に一人浮いていた。もし中島歌子がそんなに優れた教育者なら歌子の教え子はみんな一葉のような才能を発揮していなくてはならないだろう。世の中の一葉音痴はもうどうしようもない。

映像化2

映像化なんだけどやはり映像化することを意図せずに書いた作品を映像化するにはやはり映像化するためいったん脚本を作り直さなきゃいけないと思うんだ。エウメネスみたいな長編の場合はそれが映像化そのものと同じくらいたいへんなので、やはりうかつに手を付けないほうがよさそうだ。

逆に映像化することを前提に書く、最初からシナリオブックを書いて、それをノベライズする、というやり方もできるのだろう。私の中にはそれに対するかなりの抵抗がある。つまりそれは私の中にある固定観念なのだろうけど、小説はまず文字だけで書かれる文芸であるべきだ、映像、つまり、カットやシーンなどいう概念とは無関係にまずは作られなくてはならないという信念があるからにほかならない。そりゃそうで、和歌というものにはもともとカットやシーンや時間という観念はなく、それが表現されている場合もあればされてない場合もあり、映像というものにとらわれひっぱられていれば、和歌のもつ全表現能力を活かせないということになる。小説だって同じだろう。

一番大きな危惧はやはり、セリフも思考もすべてが細切れになり漫画化してしまうということだ。逆の言い方をすればわかりやすい小説を書こうと思えば最初から漫画的で映像的なものを書いてそれ以外の要素を捨ててしまえばよいということになる。

もちろん映像や音楽という媒体にはそれにしか表現できないものがあるのであり、どちらが上で下、良くて悪いなどというものがあるわけではない。

ずいぶん当たり前のことをくどくどと書いたが、今回、AIの力を借りて小説を映像化、音声化してみてあらためてそのことに気付いたというわけだ。

小説をそのまま、翻案などはいっさいせず映像化するにはやはり朗読という形が一番ふさわしいと思う。人物ごとに演者を分けたほうが良い。アニメもあったほうが良いが静止画の切り替えで十分だと思う。挿絵にしても声優にしても人間のプロがやったほうが良いに決まっている。

とにかく gemini には困った。座っている椅子がスツールから肘掛け椅子に変わったり、スツールの形が丸から四角に変わったりとにかく一定しない。こういう舞台設定とか人物設定を固定するという機能が今のAIには無いのだが、数年すれば実装されるだろうか。

でまあ、One Liner のような短編でも映像化するには 40分近くかかってしまう。それで実際に視聴されるのはせいぜい 3分くらい。世の中でショート動画ばかりが流行るわけである。だが、ちゃんとじっくり視聴する人も中にはいるのだろうし、通勤時間などにだらだら聞く人もいるのだろうし、とりあえずサンプルとして公開しておくにはこれがやはり一番(今のところ)良いのではないか。

映像用にシナリオを考えるにはものの考え方を切り替えねばならないし、新作は極力作らず旧作の手直しだけやろうと思っているのだが、なんかのはずみでまた映像作品を作らないとも限らない。

思うにこういう小説、読者はいるにはいると思うのだが、こういう小説を取り扱う商業誌というものは無いと思う。少年漫画に少女漫画、ライトノベル、純文学、中年おやじ向けの大衆娯楽、などとジャンルは細分化されていてそれぞれにチューニングされカスタマイズされているからそれに合わせて最初から書かれたものでないと収益化できない。イラストの絵柄にしても同じだ。私の場合世間の書店に並んでいるような本や雑誌を読むの飽きたから自分で書くようになったわけだから、既存のメディアに合わせて書くなんてことはとうていできないし、やろうという気が起きるはずもない。

One Liner とは本来、Hello, world! を表示させるような1行程度で書かれたプログラムのことを言うらしい。この小説のタイトルは、巻紙に一行で書かれた小説というものが、作中作に出てくるところからくる。それは一つは芥川龍之介の掌編小説、もう一つは私が書いたもので、それを html と javascript で一つの html ファイルで書いたから One Liner というのだが、映像化してしまうとなんのことかわかるまい。そもそも One Liner というプログラミング用語は一般人には馴染みがあるまい。それで「一行小説」と訳してみたが、なんのことか意味がわかるまで読んでくれる人がどれくらいいるのだろうか。

力尽きたので字幕はつけなかったが、まあだいたい聞き取れるのではないか。youtube の自動翻訳だと、字幕を表示する時間が長かったり短かったり、「年度をまたぐ」を「粘土をまたぐ」などしたり、相変わらずひどいものだが、原文へのリンクを張っておいたから勘弁してもらおう。

エウメネス動画はぼちぼち見られているようだ。

映像化

湿度がやたら高い感じだ。皮膚がかゆい。涼しいけれどちっとも心地よくない。

心臓を悪くしてから、薬をたくさん飲まされて、立ちくらみのような、頭に血が巡ってない感じがするようになった。たぶん低血圧と同じ症状なのだろう。ところが血圧はどんどん高くなっていくから今では血圧をさげる薬まで飲まされている。そうすると体の血圧は多少下がっても脳へ行く血流は増えないから、やはりめまいがする。飯を食う時も立ちくらみ感がある。胃に血が集まりその分脳の血が減るせいだろう。実に厄介な体だ。まあしかし年寄りとはみなそうしたものなのだろう。薬を飲むより前の私はだいたい手足が末端まで暖かかったのだが、今はひんやりしている。

私の作品を AI に朗読させて AI に挿絵を描かせて youtube にいくつかあげてみたのだが、エウメネスは少し見られている。再生時間もそれなりにあるので、一応セリフも聞いているのだろう。

私は自分の作品をちょこちょこ書き換えるくせがあり、KDP だと簡単に差し替えられるのだが、youtube 動画だとそうはいかない。youtube は差し替えという機能がないので、まったく新しいファイルをアップロードしなおさなきゃいけない。

また私の小説はディテールが多すぎる。全体を通して読めばわかるとして一部を切り出して読むと、今の話と昔の話が霜降り肉のように混在していてわかりにくい。

映像化するときは、脚本を書き直して、映像作品として作り直さないといけないらしい。当たり前のことだがいまさら気付いた。最初から映像作品になるように書けば良いじゃないかと思うかもしれないが、私はそういうものが書きたいのではない。文字による作品と映像による作品は違う。もちろん和歌も違う。メディアごとにそれぞれそのメディアの特性を活かした作品を作りたいのだから、簡単にリメイクはできない。

再生回数が1万とか2万とかまとまってあればまじめに作るかもしれないが、今のところ1週間たつかたたないかで100も行ってない。とりあえず放置するしかない。

「エウメネス2」は全体の序章になっているから比較的映像化しやすい、というか、部分的に切り出して映像化しても、それが作品全体の説明にもなっていて、つまり、トレイラーのような効果もあるってことはわかった。

私のオリジナル短編なども映像化してみたが、再生回数はエウメネスにはるかに及ばない。やるだけ無駄だろう。

犬や猫だって何か目的があって生きているわけではなかろうし、目的があって怒ったり鳴いたりしているわけではあるまい。人間だけ何か理由があって生きていると考えるほうがおかしい。

今更だが、自分で間違ってりゃ世話無いのだが、ここのサイトの名は「達磨堂」ではなく「達磨洞」であるべきだったのだ。

アッタロスとエウメネス

Εὐμένης (エウメネス)という名だが、Εὐ は明らかに「良い」という意味の接頭語だし、残りの μένης は μένος、つまり心とか欲求などという意味で、全体で「良い思い」とか「良い考え」というような意味だと思われる。

ディアドコイ戦争後のヘレニズム世界にエウメネスとかアッタロスという君主がペルガモン辺りにいて、ここはエウメネスやアルトニス(アルタバゾスの娘)の本拠地に近い。しかもフィリッポス2世の臣下にアッタロスという人がいて、その娘クレオパトラはフィリッポスの妃の一人となり、エウローペー、カラノスという子供まで産んでいる。

当時のギリシャ人には父親(または叔父)の名を自分の子に付ける習慣があった。父子連続して同じ名前ではなく、一代飛ばして同じ名をつける。たとえばアンティオコスとセレウコスのように。

アッタロス、エウメネスという名も同じであった。フィリッポスの将軍アッタロスとエウメネスの血のつながりは明らかではないが、同族であった可能性が極めて高いと思う。つまりエウメネスはもともとマケドニア領内のどこかの領主であり、それでマケドニア朝廷に出仕していたのだろうと思われるのである。カルディアという漁村生まれの一般庶民という設定はおそらく間違っている。

人斬り鉤月斎

人斬り鉤月斎、旧作の手直し、ガワをふやす。

例によって昔の記事を掘り起こしているのだが、「人斬り鉤月斎」を書いたのが2013年で新人賞に応募しようとしてたとは我ながら驚いた。「エウメネス1」とか書いてた頃だよ。

人斬り鉤月斎は英文で全部公開してる。

あとKDPにもある。実はペーパーバック版も作った。

私の作品の例に漏れずまったく読まれてない。むしゃくしゃしたので値段を1000円にしておいた。