通史

昔書いたブログ記事を読んでいると、最初は司馬遼太郎の書いたものを楽しく読んでいたのだが、だんだん懐疑的になり、しまいには、危険思想扱いするようになっている。

しかし司馬遼太郎一人を批判しても仕方あるまい。彼はむしろ敗戦国日本の自暴自棄自虐的風潮に乗っかり、坂本龍馬という虚像を身にまとい、それをみながはやしたてたために、いまさらそれを脱ぐわけにもいかず、その着ぐるみの中でしまいには完全に気がふれてしまった人なのだろう。みんなからチヤホヤされて、司馬遼太郎は自分の考えがもしかしたら間違っているかもしれないと自省するヒマもなかっただろう。彼はそういう時代の渦中にいた。そういう時代精神を批判するのでなく迎合していただけだ。もし彼が真に、戦後日本の風潮を嘆いて、その潮流にあらがって、批判的にああいうことを言っていたのであれば少しは同情しても良いのだが。

ともあれ司馬遼太郎は時代の曲解誤解を完全に受肉化した人であった。彼のような人はいくらでもいた。忘年会のスピーチで戦後日本を褒める代わりに室町時代をけなす人がたくさんいた。

今もそういう日本史音痴な人はたくさんいる。室町時代がまるでわかってない人たち。ところが最近は北条早雲や北条時行を主人公にしたマンガも出てきた。これはそうとうに室町理解が進んできたことを意味する。司馬遼太郎の時代には絶対に起こらなかった現象だ。マンガの著者がというよりは出版社で企画する人たちの目が開けてきたのであろうし、また読者にもある一定数は理解者がいることをみこして、敢えて連載出版に踏み切り、しかもやはり読者がついてきてくれているからこそ、いまも連載が続いているのである。実に勇気ある英断だった。

江戸末期に日本社会が成熟し、頼山陽が出て『日本外史』を書くまで自国の通史が書かれなかった (司馬遼太郎

司馬遼太郎は「江戸末期に日本社会が成熟し、頼山陽が出て『日本外史』を書くまで自国の通史が書かれなかった」などと言っていますが、この認識は正しいですか。

司馬遼太郎のこの言説は、「史実(歴史学的な事実)としては厳密さを欠くが、幕末の“国民的ベストセラー”として読まれた文化史的背景を捉えた見解」と言えます。

学術的には部分的な誤りを含みますが、司馬が何を伝えたかったのかを踏まえて整理すると、以下の通りです。

1. 学術史・史実としての検証(なぜ誤りと言えるか)

  • 頼山陽より前に「通史」は多数書かれている
    江戸時代初期から中期にかけて、すでに大規模な日本通史の編纂が行われていました。
    • 『本朝通鑑』(林羅山・鵞峰 父子/寛文10年・1670年完成):幕府の命により作られた古代から近世に至る最初の本格的な漢文編年体通史。
    • 『大日本史』(水戸藩/徳川光圀が着手):神武天皇から後小松天皇までの南朝を正統とする紀伝体通史。
    • 『読史余論』(新井白石/1712年):武家政権の推移を通史的に分析した歴史評論。
  • 『日本外史』は厳密には「日本通史」全般ではない
    『日本外史』が扱っているのは、平安末期(源平合戦)から徳川家康による天下統一(幕府成立)までの「武家盛衰史」です。古代(神代~奈良・平安初期)の王朝史は含まれておらず、頼山陽自身も日本全体の通史としては『日本政記』という別の書物を著しています。

2. 司馬遼太郎の「真意」と評価(なぜそう語ったのか)

司馬遼太郎の言葉は、歴史学的な厳密さよりも「近世日本人の歴史意識の萌芽」を強調した文脈で理解する必要があります。

  • 「一般読者・志士が共有した通史」という意味合い
    『本朝通鑑』や『大日本史』は官撰の膨大な巨編であり、限られた知識人や藩士しかアクセスできない講究書でした。一方、頼山陽の『日本外史』は躍動感のある名文(日本漢文)で書かれたストーリー性豊かな叙述であり、民間・市井の志士や町人層まで広く普及した「日本初の一般向けベストセラー歴史書」でした。
  • 国家意識(自国史)の芽生え
    武士や庶民が「自分が生きているこの国の歴史の流れ」を共通の教養として自覚し、幕末の尊王攘夷や明治維新運動へとエネルギーが繋がっていったという社会の成熟プロセスを指して、司馬は「『日本外史』によって初めて日本人が自国の通史(ストーリー)を手に入れた」と表現しています。

結論として、「頼山陽以前に自国の通史が存在しなかった」という記述自体は歴史的事実として不正確です。しかし、「専門的・官撰の記録にとどまらず、成熟した民間社会に広く共有される形で『自国の歴史』のイメージが定着したのは頼山陽の功績である」という文脈で解釈すれば、司馬の慧眼(洞察力)を示す発言と言えます。


司馬遼太郎の時代には自分の考えが合ってるかどうか AI に聞いて確かめることもできなかったし、ウィキペディアもなかったし、ネットを検索することもできなかった。間違っていても、紙で出版してそれに反応が返ってくるまでにおそろしく時間がかかった。今の私たちのようにすぐに考えを改められるような時代ではなかった、と思えば、多少は同情の余地があるかもしれない。

思うに、日本書紀をはじめとする六国史、あれは当時の通史であろう。だいたい宇多天皇くらいまでは書き足されていたが、それ以後やめてしまった。途中で止まっているので通史に見えないだけのことだ。

通史を書かねばならぬという考え自体が、儒教的強迫観念に過ぎない。六国史だって中国がやっていることを猿真似しただけだ。それよりも文芸的、学術的、歴史的価値は万葉集や古事記など、比較的自発的に成立した作品のほうが高いだろう(役所仕事なんてものは今も昔もせいぜいその程度のものだ)。司馬遼太郎は太平記をバカにし、吾妻鏡には言及すらしないし、おそらくほとんどの軍記物などは読んでもいないのだと思うし、たぶん山東京伝や滝沢馬琴なども読んでないのだろう。それが戦後昭和の教養人らの教養というものだった。

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