神田堀、竜閑川だが、途中でポキリと折れ曲がっている。google streetview で見るに西側(神田八丁堀)は完全にビル街の裏路地となっており、東側は浜町川緑道として整備されている部分もあれば、完全に裏路地になっているところもある。どうやら東京都の水道局が管理しているらしい。今も地下に暗渠があるから痕跡が残っているというわけである。
どうやら浜町というのは日本橋の東のはずれ、隅田川のかわっぺり、というだけではない。江戸でも繁華な区域であるが、賀茂真淵のあがたゐあたりはその中心から若干離れていて、やや田舎びた風情があったのだろう。つまり賀茂真淵は、江戸城のそばとか、繁華街のど真ん中というよりは、繁華街のへりに住みたかったということになる。茅場町に住んだ徂徠と感覚は似ていたというべきだろう。
神田というと神田明神や神保町、駿河台などをイメージするが、江戸っ子のいう神田とはここら下町、神田堀沿いの、東神田あたりまでを広く言っていたに違いないのだ。このへん一体を全部日本橋などと呼ぶからわけがわからなくなる。
いや、違うな。そうではない。かつて神田堀沿いに元吉原があって、吉原が浅草の北へ移転した後はここらに芝居小屋がたくさん建ったとウィキペディアにはある。賀茂真淵が隠居所に選んだ浜町は、神田堀を挟んで元吉原の反対側だ。吉原が移転した後もここは江戸の遊興の中心地であった。浜町の西はそんな感じで東は隅田川だから風流でもある。新大橋も架かって、対岸の深川に遊びに行くこともできる。賀茂真淵はわざわざそういうところに好き好んで住んだということになる。
元吉原は今の人形町である。ここらにはビルに埋もれるように稲荷の祠がいたるところにあるが、それは昔ここが吉原だったことにも由来しているのだろう。人形町と浅草の雰囲気が似ているのには理由があったのだ。
神田八丁堀はもともと火事の延焼防止のために作られた、最初は土手だけだったが、のちに町人が費用を出し合って掘割にしたとある。そりゃそうだよな。こんなところにわざわざ幕府が堀を作るわけがない。