空気やあたりまえ

現人神の創作者たち、現人神の創作者たち2などで既に、山本七平「がこれを書かねばならなかったのはおそらく、戦後日本の右翼界隈の中における孤独感からであっただろう」と書いたのだが、改めて「空気の研究」「あたりまえの研究」「日本人とユダヤ人」を読んで同じ結論に至らざるを得ない。日本社会の中のキリスト教徒は常に「空気」や「あたりまえ」を意識して生きている。当然、日本人がキリスト教社会やイスラム教社会の中で生きたとしても同じように「空気」や「あたりまえ」を意識せざるを得ないだろう。

山本七平はつまり、内村鑑三と同じような孤独の中で生きていたから、「空気」や「あたりまえ」ということを常に意識し、それを書いたに過ぎないようにみえるのだ。それこそ「あたりまえ」ではないか。「空気」や「あたりまえ」は日本社会に固有のものではない。ことさら戦後日本社会に顕著なものでもない。それぞれの社会にはそれぞれのあたりまえや空気があって、それをいつも意識しながら生きているわけではあるまい。

だから山本七平の書いたものを読んでいるとそれは「あたりまえ」じゃないかとしか思えない。「あたりまえ」だということを気付かせるために書いているのだから、読者にそう思わせるのは彼の意図したことなのかもしれないが(ソクラテスの無知の知のように)、当時の日本人にとっては珍しく耳目を驚かせることであったかもしれないが今読み返すと何もかもが「あたりまえ」に思えてくる。今や、世界中をせっせと経巡っている旅行系ユーチューバーでもこの程度のことは言う。

結局山本七平は「「常識」の非常識」ということを書く係のようにされてしまい、あまり関係のないエッセイ集にもそういうタイトルを掲げさせられてしまい、「ある異常体験者の偏見」などというような、今の私たちから見ればさほど「異常」でも「偏見」でもないようなことを書くはめになったのだろう。ある意味すべての個人的体験は「異常」であり「偏見」である、というしごく「あたりまえ」の感想しかでてこない。

「「あたりまえ」の研究」の中の「指導者の条件」で彼は「泰時には、何の正統性もなかった。」と平然と言っている。

頼朝は後白河上皇から全国総追捕使、征夷大将軍に任命されており、その権限はまだ完全には消失していなかった。世情はいまだ騒然としており、強力な軍事的指導者を必要としていた。その任務は実質的に北条氏に委ねられていた。頼朝、頼家、実朝ときて、実朝が暗殺された後は、九条道家の子、九条頼経が北条政子の元に預けられており、彼はまだ幼かったが、将来彼が将軍に就く予定であった。彼が次期将軍に選ばれたのは彼に源義朝の血が流れているからであった。朝廷は決して清和源氏に与えた兵馬の権を否定していたわけではない。道家は承久の乱当時、摂政左大臣。つまり天皇を輔弼し政務を裁く最高責任者であった。北条氏は明らかに朝廷の信任を得ていたのである。

ここにおいて、後鳥羽院は一院として権威は保っていたものの、決して絶対権力者ではなかった。むしろ順徳院によって隠居させられていた状態だったと言って良い。土御門院は決して反幕府派ではなかった。一部の公家や西国武士が若い順徳院をそそのかし、順徳院が舞い上がって院宣を乱発し、天皇家の家長である後鳥羽院がそれを抑えられずにいた、というのが実情であった。道家や、或いは藤原定家や西園寺公経のように、北条氏に同情的で、事態を憂慮している公家も多かったのである。

正規の手続きを経て朝廷に働きかけようとしたのは北条氏の方であった。天皇や上皇が摂関や左大臣を無視して勅令や院宣を出すことは理屈の上では可能だが、それは朝廷が全く機能していないことを意味する。飛鳥時代以前に歴史を巻き戻す行為だ。そしてそれは天皇親政などという大義などでは決してなく、単なるクーデターであり、天皇大権の侵犯と同義である。かかる時、天皇から兵馬の権を委任された形になっている北条氏はどう行動すべきであったか?全面降伏すべきなのか?かかる問いかけが日本史のケーススタディとして学ばれることは今の日本では皆無であろう。しかし賴山陽はその問題に果敢に挑んだ。「親征に遇はば、則ちいかんせん」「之に降れ。しからずんば則ち決して進め」と(承久記に基づくか)。

かかる場合に、順徳院の暴走を食い止めるには、泰時が三上皇を武力で排除するほかなかった。そして関東武士と泰時にはその能力があったのだ。いや、大勢が泰時を是としたから、泰時はあのように強大な力を行使できたのである。世論の支持なくしてあれほど軍勢を動員できるはずがない。鎌倉や甲斐、信濃の武士らも一枚岩ではないのだ。泰時が蹶然と立ったからこそ、彼に人望が集まったのである。

主犯は順徳院とその取り巻きであったが、後鳥羽院もその責は免れなかった。後鳥羽院を許せばまた院を担ぎ出して同じことをたくらむ者が出てくる。土御門院は後鳥羽、順徳が流されるのに自分だけ許されるのは忍びないとして自ら土佐に流された。もちろん、順徳を抑えきれなかった責任は土御門院にもあるのだ。

「近日の事、朕が意に出づるにあらず。みな臣僚の為す所。ただ汝、その罪を論じ、兵士をして輦下(京都市街)を擾さしむるなかれ」これは「日本外史」に見える、泰時に後鳥羽院が述べた言い訳だが(これも承久記に基づくか)、私はこれはまったく事実であったろうと思う。明治天皇が日清戦争を「これは朕の戦争にあらず、閣臣の戦争なり」と言ったのに良く似ているではないか。

もし義時も泰時も優柔不断で、九条頼経が将軍になることもなく、順徳院の主導で天皇親政が実現していたら、東国武士は制御不能になり、日本は内戦状態に突入していただろう。京都の朝廷すら存続できていたかしれない。応仁の乱で幕府も朝廷も権威を失い戦国時代に突入していったように。

泰時が定めた御成敗式目にしても、朝廷が武士を統御できるのであれば朝廷が作ればよろしいが、朝廷にはそんな能力はかけらもなかったのだから、泰時が定めるしかないから幕府の執権として代行したのだ。幸運なことに泰時は恐ろしく頭の良い人だった。藤原氏が作った律令が中華帝国からの借り物に過ぎなかったのに対して、泰時は日本独自の国情に合わせた法律を一から作ったのだから恐ろしい才能だ。

同じようなことは新井白石も言っている。九条兼実や北畠親房、松平定信なども似たようなことを言っているはずだ。きちんと日本の歴史を学べば、泰時が「無資格」で、「社会正義の名によって」「反乱」をおかしたなどという発言がでてくるはずがない。泰時は別に「空気」で動いたのではない。当時としては十分「正統」な権限で責務を果たしていたのだ。

山本七平が「日本外史」をまともに読んだこともなければ事例研究をしたこともないことは明らかだ。新井白石の「読史余論」も読んだことくらいはあっただろうけど、書かれた意図は理解していなかったに違いない。北畠親房の「神皇正統記」に「凡そ保元・平治よりこのかたのみだりがはしさに、頼朝と云ふ人もなく、泰時と云ふ者なからましかば、日本国の人民いかがなりなまし。このいはれをよく知らぬ人は、故もなく、皇威の衰へ、武備の勝ちにけると思へるは誤りなり」とあるのは、親房には道家の苦悩がよくわかっていたのだろう。

山本七平や丸谷才一のようなトンチンカンな歴史観が広まったのは「神皇正統記」や「読史余論」、「日本外史」の解釈を捻じ曲げた薩長政権の責任でもある。やたらと後鳥羽院や後醍醐天皇を持ち上げて、その代わりに北条氏と足利氏を貶めた。日本史観を捻じ曲げたのは明治政府そのものだが戦後80年を経ていまだその反省もない。右翼だけでなく戦後の左翼言論人もみんなだまされている。

清水門

まず大江戸線で飯田橋というところに行った。実に複雑な形をした町だ。もともとこのあたりには神楽坂下、早稲田通りに牛込橋というものしかなかったはずだが、飯田橋が架かり、総武線が通り、地下鉄が通り、最後に大江戸線が通って、とてつもなく複雑な町になっていったようだ。車道と歩道橋で町が寸断されているのでよけいそう感じるのだと思う。

江戸城の地図を書いていて思うが昔の江戸はもっと直感的で歩きやすい町だったはずだ。今の東京は街歩きするにはほんとうにひどいところだ。逆にそれが町をダンジョン化していて面白い、ということはあるのかもしれない。この飯田橋から神楽坂にかけても、よくよく調べてみれば面白い町なのかもしれない。

久しぶりに東京大神宮に来てみたが連休のせいで雨なのに行列ができていて、しかもほとんどが若い女だった。いったいこの神社巡りというものに最近は何が起きているのだろうか。道の通り方が直感に反しているので google マップを頼りに北の丸に向かう。途中靖国神社をよぎるがここにも大勢参拝客がいる。銀杏がたくさん落ちている。子爵品川なんとか像をすぎて田安門をくぐる。武道館で誰かがコンサートをやるらしくたくさん人がいる。田安門は非常に立派な枡形城門になっていて、武道館に行く人はみんなここをくぐるのだ。

田安門の裏に弥生慰霊堂というものがあり、ここは警視庁や皇宮警察で殉職した警察官が祀られているところだという。入口に柵のようなものが置いてあるが完全に塞がれているわけではなく、google マップを見ても立入禁止というわけではなさそうで、おそらく変な客が悪戯をしないよう目立たなくしているのだろうと思い、入ってみる。ここは昭和天皇の野立所というものもあり、奥に靖国の鳥居が見え、手前には田安門の櫓と高麗門がみえて、実に荘厳なところだ。警視庁の警備の人が私のあとから入ってきたので、私が不審者じゃないかどうか確認に来たのだろうと思う。迷惑だったかもしれないが注意はされなかった。ひやかしにくるのでなければ、ここは良い場所だと思った。入口に狛犬がいるが神社でも寺でもない。堂も社でも祠でも寺でもない。もしかすると殉職した警官たちも靖国に祀られたかったのかもしれない。しかしそこにはけじめというものがあるべきであるから、ここにひっそりと祀られているのかもしれないなと思った。

今日は清水門を見に来たのだった。来たことがあるようなないような不思議な気分になった。九段下の堀の蓮池が良く見え、人通りも少なく、静かな良いところだ。

御三卿の一ツ橋、清水、田安のうち、清水と田安は御殿が北の丸にあった。一ツ橋はその名の通り一ツ橋門の中、御舂屋の隣にあったのだろう。清水門の坂というか石段は非常に上り下りしにくい。足が丈夫だった若い頃は飛び跳ねて降りたろうが、今は筋をいためたり足首の関節を挫いたりせぬように、転んで脳挫傷にならぬようにと慎重に降りるが、こんなところを上り下りさせられる清水の御殿様はたいへんだったのではないか。枡形城門としては少し変則的な形をしているのも面白い。

都立図書館の資料を見ると清水門はほとんど昔のままに保存されていることがわかる。

これだけ立派な門と堀と石垣があるのに桜田門外の変などが起きたのはずいぶん無様だった。幕府の権威が地の底まで落ちるのは当然だ。

次に雉子橋を見ようと思ったのだが、雉子橋というものはもう無いらしい。清水橋、竹橋、平川橋、帯郭などは今もほぼ完全な形であるので、その外側にあった日本橋川が一ツ橋の先まで、完全に埋められてしまったという状態であるらしい。その先には日本橋川の痕跡が残っている。

北桔梗門まで戻り本丸にのぼって梅林坂を降りて平川門を通って竹橋駅までぐるりと歩いてみた。うん。だいぶ理解してきた。

平川門では外人がおおぜい門の下に腰掛けてスマホをいじっているのが印象的だった。雨が降っていたせいもあるがあそこに座ってみたかったのだろうなと思った。

その後浅草あたりで飲み食いした。

つい最近まで、ずいぶん暴飲暴食をしたものだ。しかし最近、血圧がどんどん上がりだしたので、食事の量を減らした。また実はだいぶ昔からなのかもしれないが、最近はやたらと腹が(胃のあたりが)張るような気がして、すべては結局、食事の量を減らすしかないというか、今の年齢だと、ごく少量を少しずつ時間をかけて食べないと、胃腸にも負担がかかるし、太るし、血圧も上がってしまうんだということがわかってきた。

飯を腹いっぱい食うというのはやはり罪悪なのである。世の中には誘惑が多いがそれらはすべて資本家の罠だ。でなければ収益化の罠だ。日本の食文化は世界遺産らしい。名誉なことではあるし、尊いことでもある。食べれば楽しい。おいしい。しかし快楽をむさぼっているだけだ。ストレス解消にはなるかもしれないが、しかしそれはストレス解消するためにはタバコを吸ったり薬を飲んだりして良いのかという話と同じで何も解決にはなっていない。昭和天皇は胃腸の調子を良くするためにいつもオートミールを食べていたというが当然そうあるべきだ。

年寄りはとにかく煩悩の炎を消さなくてはならぬ。肉体の衰えのためにやむなくそうするのであってほんとうは30代のような気楽で無茶苦茶な生活に戻りたい。

ブログを書いていて adsense というものを始めると、ブログを収益化しなくちゃならんような気がしてくる。物書きというほどでなくとも、出版というものをしたことがある人間ならどうしてもそう考えてしまう。しかし仕事は仕事として給料をもらい、ブログはブログで収益化して、絵を書いたり動画を作ったりしてもいちいちそれぞれを、一つ一つ個別に収益化しなくちゃならんかということになると、それは普通は無理だ。自分の行動のすべてをそれぞれ採算がとれるようにならんといかんと考えるのは強迫観念に過ぎない。adsense はそれを明確に気付かせてくれた。ブログというものは書きたいように書けば良いのであって SEO的に最適化して、トピックを分けて、有用なコンテンツにして、などという書き方をしてはそれはもはやブログではない。少なくとも私のブログではない。

國友公司も言っているが、今はフリーランスが専業一本で稼ぐのは難しい。いろんなことをやってトータルで収益化するしかない。個々の活動それぞれで収益化し帳尻を合わせようとすると破綻する。10個くらい手広く商売をしてそのうちのどれかで食っていければ良く、また、煩悩を一つ一つ潰していけば出費も自然と減っていく。そうして生きていくしかない。ブログにしても、書いておかねば忘れてしまうから書いておくというのが本来の目的だったはずで、今も昔書いた記事を読み返すと忘れてしまったことが非常に多くて今の自分にとって役に立つ。もちろん読者がいないよりはいたほうが良いが、逆に読者がいると思うと書き散らせなくて困ることもある。

金を儲けるということは要するに用水路を掘って水源から水を田んぼに引いてくるようなものだ。ただそれだけのことだ。キャベツ農家もキャベツを育てただけで販路を持たなければ農協に搾取されるだけだ。金の流れを作らなくては金を儲けることはできない。当たり前のことだ。adsense はその金の流れを google に依存するということに他ならぬ。

最近は原始仏教を良く調べているのだが、原始経典として信用できるのはやはりスッタニパータとダンマパダくらいだと思えてきた。

スッタ・ニパータは、束ねた糸、というくらいの意味だ。糸とは詩句であろう。文字によらず、記憶に頼って言葉を暗記して伝えるには、詩歌を使うしかない。歌の本質はそれだ。文字無き時代の文芸はすべて歌という形を取った。それはだんだん長くなっていき、ギルガメッシュやホメロスの叙事詩のようになるかもしれないが、最初からそうだったとは限らない。

ダンマ・パダは、直訳すれば、まことの足跡、とでも言えようか。

シャカは実在しただろう。しかしブッダと呼ばれた人は複数いた。シャカを中心に教団が生まれた。イエスの言葉をパウロが広めたように、シャカの言葉を広めた人がサーリプッタであった。ジャイナ教徒はサーリプッタをブッダと認識していたらしい。

イエスの言葉を集めてマルコ、ルカ、マタイの福音書ができたように、仏教でもまず第一次結集が起きた。このときの主要メンバーがサーリプッタとモッガッラーナ、そしてアーナンダであったはずだ。

サーリプッタとモッガッラーナはシャカムニより年上でシャカより先に出家して沙門となっていたはずだ。沙門とは婆羅門僧ではなく、バラモンの教えから離れて、というよりバラモンの古い教えを否定した新興宗教的なものであったはずだ。

サーリプッタとモッガッラーナはシャカが自分たちよりもさらに急進的な過激思想家であることを発見し、彼を教祖にすることにした。サーリプッタとモッガッラーナはシャカよりも年上だったのでシャカより先に死んだ。シャカが死んだときには身の回りの世話をしていたアーナンダが後を継いだ。

シャカはおそらく、サイの角のように独りで生きよとか、ヘビが脱皮するように人間社会から脱出せよとか、そういう、群れたがるバラモンを小馬鹿にするようなことばかりいう、世間嫌い人間嫌いの若者にすぎなかったはずで、一種のダダイズムを悟りと言っていたに過ぎないと思う。

アーナンダはシャカよりはずっと現実的な人だったので、シャカの厳格な戒律を緩めて、男だけでなく女も出家できるようにした。これは非常に画期的なことだったと思う。逆の言い方をすれば孤高派孤立派であったシッダルタの意に反して教団を社会組織化し、世の中に普及させた人であった。

シャカが死んで500年近くは、文字に頼らず、言葉だけでシャカの教えが口伝で次の世代に伝えられてきた。パーリ語の文献はみなそうだ。シャカはもともとマガダ語を話したはずだが、それがパーリ語になったのはサーリプッタのせいだったかもしれない。当時は口伝をそのまま伝えるための技術というものがあったのには違いない。500年間、ほぼもとの形で伝えられたということはあったのかもしれない。それは、初期仏典の内容が、ジャイナ教徒に伝えられたものとほとんど同じものが存在することからもある程度証明できる。しかしながらだんだんに経典が追加されるということはあったに違いない。オデュッセイアなどもそうやってふくらんでいったのだ。

原始仏教に比べれば、大乗仏教に限らず、南伝仏教(上座部、小乗仏教)もまたホンモノとは決して言い難いであろう。仏像を作るということもガンダーラあたりでギリシャ文化の影響で始まったことであってそれがどんどん膨らんでいって、サンスクリットや漢訳仏典がでてきて、さらに聖武天皇が金ピカの大仏を作ったり、鎌倉仏教ができたりした。

ではどこまで遡ればホンモノの仏教かといえばそれはむずかしい。シャカ(シャカ王族のゴータマ・シッダッタ)という人は実際にいただろうがブッダは複数いたとしか言いようがあるまい。

本居宣長にしてもそうだ。彼はあの時代にいたからたまたま宣長になれたのにすぎない。そういう社会の機運のせいで宣長は宣長になれた。宣長がいなくても宣長のような人は遅かれ早かれ現れただろう。宣長がいたせいでまったく歴史に残らず消えた人が同時代に10人くらいはいたに違いない。

遺伝子プールという言葉があるように、同じような人間の集団があってその中に候補者が10人くらいいないと1人の新しい思想家は生まれてこない。本当に新しい考えの持ち主が1人突然変異のようにして生まれて孤立していてもその思想が広まるわけがない。アインシュタインだって漱石だってみんなそうだ。

枡形城門

枡形城門には、2つの門が直角に曲がっている場合と、並行にずれている場合があります。この違いはなぜあるのですか。

枡形城門(枡形虎口)における門の配置が「直角に曲がるタイプ(折れ枡形)」と「並行にずれているタイプ(直進型・喰違い型)」に分かれる理由は、主に「敷地の地形・スペースの制約」と「時代背景・防御思想の変化」にあります。

1. 敷地・地形の制約(スペースの問題)

  • 直角に曲がる配置(折れ枡形):門を入ってすぐに90度折れ曲がる構造は、奥行き(縦方向の深さ)をとれない狭い場所に適しています。城の土塁や石垣のラインに沿って省スペースで配置できるため、急峻な山城や敷地に限りのある曲輪(くるわ)の入口によく用いられました。
  • 並行にズレる配置(直進型・喰違い型):一の門(外側)と二の門(内側)を並行に配置する場合、2つの門の間に一定の「奥行き(長さ)」が必要になります。平城のように広大な敷地を確保できる場所で設置しやすかった構造です。

2. 防御上のねらい(戦術の違い)

  • 直角型:侵入者の「足止め」と「無防備な側面攻撃」90度曲がることで、突入してきた敵兵は勢いを完全に殺されます。さらに、曲がり角で方向転換する際、城内を守る側からは敵兵の無防備な側腹(または背中)を矢や鉄砲で集中的に狙い撃ちできるという強力な防御上のメリットがあります。
  • 並行(ズレ)型:見通しの遮断と「クランク状の減速」正面から城内が丸見えになるのを防ぐ「目隠し」の効果が重視されます。直進しようとする敵をS字状(クランク状)に迂回させることで減速させ、左右の石垣・土塁の上から挟み撃ちにする狙いがありました。

3. 歴史的進化(時代による変化)

  • 戦国時代(中世):土塁を互い違いに張り出させた「喰違い虎口(並行にズレた配置)」など、地形に応じた比較的シンプルな構造が主流でした。
  • 織豊期〜江戸時代(近世):石垣技術の発展と渡櫓門(わたりやぐらもん)の導入により、四方を石垣と多聞櫓で完全に囲み、一の門から入って直角に折れて二の門をくぐる「箱型の折れ枡形」が完成形(標準様式)として定着しました。江戸城の「桜田門」や「大手門」などに代表される、より強固な要塞空間です。

まとめ

直角型:省スペースで構築でき、敵の勢いを殺して側面攻撃に晒す強固な構造。近世城郭の主流。

並行(ズレ)型:奥行きのある敷地に向いており、正面からの視線や射撃を遮りつつS字に減速させる構造。

なるほど。江戸城には折れ枡形と食い違い形の二種類の見付が混在しています。たとえば数寄屋門は折れ枡形で、その隣の鍛冶屋門は食い違い形です。この違いはなぜ生まれたのですか。

数寄屋橋門と鍛冶橋門の構造の違いは、主に「江戸城の改修史(建造・改築のタイムライン)」と「敷地・交通の重要度や地形上の要件」の重なりによって生まれました。

1. 江戸城の天下普請と改修の「タイムライン」

江戸城の城門や見付は、一気にすべてが完成したわけではなく、何十年もかけて順次整備されました。

  • 喰違い型の背景(古い様式・暫定構造)1600年代初期(慶長〜寛永期)の江戸城建設初期は、石垣を使わずに土塁を互い違いに交差させる「喰違い構造」や、簡易的な門が主流でした(紀尾井町付近にある「喰違見附」などが代表例です)。
  • 折れ枡形への本格改修寛永13年(1636年)の「外濠の天下普請」の際、諸大名の分担工事によって外郭の要所が重厚な石垣造りの「折れ枡形門」へ改修されました。

数寄屋橋門をはじめとする主要な見付は、この時に堅牢な折れ枡形へと進化しましたが、鍛冶橋門のように「当初の喰違い構造のまま維持された」あるいは「折れ曲がりを抑えた変形型の枡形(喰違い寄りの配置)として配置された」ことで違いが生じたと考えられています。

2. 通路の角度と交通(ロジスティクス)の要請

門の構造は、そこを通る道路(街道や橋)の接続角度に強く影響されます。

  • 数寄屋橋門(直角折れ型)外濠を渡る橋に対して城内へ向かうルートが直角に交わる配置だったため、石垣を「コの字」型に囲んで90度折らせる標準的な折れ枡形を設置するのに最適なレイアウトでした。
  • 鍛冶橋門(喰違い型・クランク型)外の町筋(現在の八重洲・鍛冶町方面)から城内(馬場先門方面)へ抜ける大通りが、外濠に対してやや斜めに交差し、直線的に抜けやすい交通の要衝でした。完全な「コの字」に囲むよりも、土塁や石垣を互い違いに張り出させてS字(クランク状)に道をずらす構造(喰違い)にした方が、地形や既存の道筋に適合しやすかったという地理的要因があります。

3. 防御上の重要度と格式(御成道などの違い)

江戸城の門は、将軍の通行経路(御成道)や要人の屋敷街へ通じるかどうかによって重要度や予算の掛け方が異なりました。

  • 数寄屋橋門:城内の西の丸(将軍の隠居所や次期将軍の居所)に近く、格式・警備ともに極めて高く設定されたため、最新鋭の完全な折れ枡形(高麗門+渡櫓門)が整備されました。
  • 鍛冶橋門:町人地と直結する実用的な玄関口であり、通行量を一定程度確保する必要もあったことから、過剰に流動性を阻害しない喰違いの構造が採用・保持されたと見られています。

まとめ

数寄屋橋門と鍛冶橋門の違いは、**「最新の折れ枡形に完全に更新されたか(数寄屋橋門)」「古くからの喰違いの構造や斜めの道筋を活かした配置になったか(鍛冶橋門)」**という、築城時期のズレと道路設計の都合によって生まれたものです。


見附には、折れ曲がり形と食い違い形があって、食い違い形のほうがどちらかといえば古い形であり、古くは、単に土塁をずらして作られることがあった。折れ曲がり形のほうが省スペースでかつ完成度が高いので、のちの時代になるほど折れ曲がり形が増えていった。江戸城の場合、すべての見附が一度にできたのではなく、また普請を担当した大名も違っていたから、微妙な差が生じた、ということか。

また当然ながら、食い違い形のほうが通り抜けやすいから、さほど防衛上重要でなく、通行量を確保したければ食い違い形にしたほうがよい、ということになる。


江戸城御外郭御門絵図を見ると、外側の門はすべて冠木御門と書かれています。冠木門について調べると屋根が付いてない門のことであり、屋根がついていると高麗門と言うとでてきます。実際には江戸城の見附の外側の門にはすべて屋根がついています。これはどういうことでしょうか。

絵図の記載と実際の建物の形に違いがあるように感じられますが、これは「現代の建築史・城郭史における用語の定義」と「江戸時代当時の呼ばれ方」の違いに起因しています。

結論から言うと、江戸時代当時の文書や絵図では、屋根がついた現在の「高麗門(こうらいもん)」のことも「冠木御門(かぶきごもん)」と呼んでいました。

1. 江戸時代当時の「冠木門」の範囲

現代の城郭用語では、以下のように厳密に区別されています。

  • 冠木門:2本の柱の上に横木(冠木)を渡しただけで、屋根がない門。
  • 高麗門:本瓦葺きなどの屋根が付いており、背面の控え柱にも小さな小屋根が付いた門。

しかし、江戸時代の公式文書や幕府の絵図(『江戸城御外郭御門絵図』など)においては、「左右の柱に冠木(かぶき)を通した平屋建ての門」という構造的特徴を持っていれば、屋根の有無にかかわらず「冠木門」と総称していました。

高麗門自体が「冠木門の進化系(冠木の上に屋根を載せ、雨から木材を守るように補強したもの)」であるため、当時の認識としては「屋根が付いた冠木門」という扱いだったのです。

2. 「高麗門」という言葉の成り立ち

「高麗門」という名称は、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際に文禄年間前後に考案・普及したことから名付けられたとされています。

江戸時代初期にはすでに枡形の一の門として広く普及していましたが、行政や幕府の記録文書(絵図や普請帳など)では、古くからの伝統的な建築用語である「冠木御門」や単に「一の門」と記載し続けることが一般的でした。

3. 絵図における命名法則

江戸城の見附(枡形門)を描いた絵図では、対となる2つの門を区別するために以下の表記が徹底されています。

  • 内側の2階建ての大型門 →「渡櫓御門(わたりやぐらごもん)」
  • 外側の平屋建ての門 →「冠木御門(かぶきごもん)」(=現代で言う高麗門)

まとめ

江戸城御外郭御門絵図に書かれている「冠木御門」は、書き間違いや屋根の有無の不一致ではなく、当時の公式な分類として「高麗門」を指して「冠木御門」と表記していたのが理由です。

ある時期から、冠木門に屋根が付けられるようになり、名前だけそのままになった可能性はありますか。それとも最初から屋根があったのでしょうか。

まさにその通りで、「元々は屋根のない『冠木門』だったものに屋根が付けられるようになり、名称だけがそのまま引き継がれた」というのが歴史的な経緯です。最初から屋根があったわけではありません。

1. 本来の冠木門(屋根なし)から屋根付きへの進化

もともと中世の冠木門は、2本の冠木柱の上に横木(冠木)を渡しただけの「屋根を持たない野外の門」でした。

しかし、木造建築であるため、屋外に晒された柱や冠木(横木)の上部は雨風によって非常に腐りやすいという決定的な弱点がありました。そこで、雨水による木材の腐食を防ぎ耐久性を高めるため、冠木の上に直接小さな屋根(切妻屋根)を載せる改良が行われるようになりました。

2. 「高麗門」への発展と名称の定着

冠木の上に屋根を載せると、扉を開けた際に扉自体が屋根からはみ出て濡れてしまいます。これを防ぐために、背面に控え柱を立て、その上にも小さな小屋根(控え屋根)を設けた形態が完成しました。これが現代で言う「高麗門」です。

文禄・慶長の役(1590年代)の時期にこの形式が急速に普及したため、新様式の俗称として「高麗門」と呼ばれるようになりましたが、建築構造の本質としては「雨よけの屋根を設けた冠木門」そのものでした。

3. 名前の形骸化(名前だけが残った理由)

行政文書や幕府の普請記録、公的な絵図などでは、以下のような理由から「冠木御門」という旧来の伝統的な名称が引き継がれました。

  • 用語の慣習化:実用上の改修(屋根の付加)が行われて構造が進化しても、職名や公的書類上の門の区分としては古くからの「冠木門」という分類名がそのまま使われ続けた。
  • 対比のわかりやすさ:枡形内部の巨大な2階建て門を「櫓門(渡櫓御門)」、それに対する外側の平屋建ての門を「冠木御門」と呼ぶ対比関係が固定化していた。

まとめ

歴史的には**「屋根なしの冠木門」→「腐食防止のために屋根を追加」→「高麗門と呼ばれる構造へ進化」**というステップを踏んでいます。そのため、江戸城の見附などに設置された頃にはすでに屋根が付いていましたが、記録上の名前としては最初の「冠木御門」という表記がそのまま残されたと考えられます。


ほんとか嘘か調べようがないので、このくらいにしておくか。

蘐園塾

荻生徂徠の私塾は蘐園と呼ばれていた。蘐は茅(かや)を意味し、茅場町に由来する。茅場町は江戸切絵図を見ると楓川に架かる海賊橋と亀島川に架かる霊岸橋の間に位置し、それは表茅場町、裏茅場町に分かれている。表茅場町は日本橋川に沿った細長い町であり、川の反対側にやはり細長く裏茅場町がある。

徂徠宅の隣に宝井其角という俳人が住んでいて、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」という俳句を詠んだ。その宝井其角住居跡には碑が建っているので、ほぼその位置は特定できる。つまり徂徠宅は裏茅場町にあったらしいのである。

ところで赤穂浪士は永代橋を渡ったあと茅場町を通ったかどうか調べてみたのだが、ネットにある情報はどれもこれもあやしい。蛇行する必要がないのである。

永代橋を渡ったら豊海橋、高橋を渡って八丁堀を越え、築地本願寺、一ノ橋、汐留橋、その後は東海道を通って泉岳寺に行けば良く、それが最短ルートだ。

築地本願寺が西本願寺と地図に書かれているのは、築地本願寺が京都の西本願寺を本山とするからだろう。東にあるのに西本願寺とは紛らわしい。

八丁堀とは京橋川を東に延長した先のことである。どうも楓川を八丁堀と勘違いしている人が多いようだ。この八丁堀とは別に神田八丁堀というものがあるがこれは竜閑川のことである。

なお赤穂浪士事件は 1701年、徂徠が茅場町に住み始めたのは 1709年なので、赤穂事件のときにはまだ徂徠は茅場町にはいなかった。その前は芝増上寺辺りに私塾を開いていたらしい。

神田の範囲

神田堀、竜閑川だが、途中でポキリと折れ曲がっている。google streetview で見るに西側(神田八丁堀)は完全にビル街の裏路地となっており、東側は浜町川緑道として整備されている部分もあれば、完全に裏路地になっているところもある。どうやら東京都の水道局が管理しているらしい。今も地下に暗渠があるから痕跡が残っているというわけである。

どうやら浜町というのは日本橋の東のはずれ、隅田川のかわっぺり、というだけではない。江戸でも繁華な区域であるが、賀茂真淵のあがたゐあたりはその中心から若干離れていて、やや田舎びた風情があったのだろう。つまり賀茂真淵は、江戸城のそばとか、繁華街のど真ん中というよりは、繁華街のへりに住みたかったということになる。茅場町に住んだ徂徠と感覚は似ていたというべきだろう。

神田というと神田明神や神保町、駿河台などをイメージするが、江戸っ子のいう神田とはここら下町、神田堀沿いの、東神田あたりまでを広く言っていたに違いないのだ。このへん一体を全部日本橋などと呼ぶからわけがわからなくなる。

いや、違うな。そうではない。かつて神田堀沿いに元吉原があって、吉原が浅草の北へ移転した後はここらに芝居小屋がたくさん建ったとウィキペディアにはある。賀茂真淵が隠居所に選んだ浜町は、神田堀を挟んで元吉原の反対側だ。吉原が移転した後もここは江戸の遊興の中心地であった。浜町の西はそんな感じで東は隅田川だから風流でもある。新大橋も架かって、対岸の深川に遊びに行くこともできる。賀茂真淵はわざわざそういうところに好き好んで住んだということになる。

元吉原は今の人形町である。ここらにはビルに埋もれるように稲荷の祠がいたるところにあるが、それは昔ここが吉原だったことにも由来しているのだろう。人形町と浅草の雰囲気が似ているのには理由があったのだ。

神田八丁堀はもともと火事の延焼防止のために作られた、最初は土手だけだったが、のちに町人が費用を出し合って掘割にしたとある。そりゃそうだよな。こんなところにわざわざ幕府が堀を作るわけがない。