完訳 ローヌの谷で

ローヌの谷でも一気に完訳した。なんと一日で。なんと仕事がはかどることよ。すごい時代になったね。これも邦訳はまだ無いはずだ。

この話は、シュピリが 1844年から 1845年、17才から18才まで、スイスの中でもフランス語を話す地方(ロマンディ地方)のイヴェルドン・レ・バンの寄宿学校でフランス語を学んでいた時の体験談のようなものであろうと思う。

主人公のヘドヴィヒはシュピリ自身がモデルだと言ってよいが、完全な傍観者に徹している。というのは、シュピリの家は裕福で上流階級ではあるが庶民(つまり新興ブルジョワ階級)であって、しかしシュピリがかの地で観察したのは領主たち、ドイツでは von X とか von Y などという名前を持つ貴族たち(XやYはその領地の名。von Habsburg のような)であったから、シュピリがその世界に交わったり、或いは恋愛をしたり、或いは結婚したりということはありえなかったからだろう。飽くまでもその貴族社会を外から観察している形になっている。von L. 夫人という登場人物はそういう厭味ったらしく押し付けがましい貴族階級の人々のカリカチュアなのだろう。

この作品にはシュピリの作家としての狂気を感じる。6章構成なのだが、第2章と第6章は比較的短く、第5章だけ異様に長い。今時の小説はこういう極端な章立てはしない。全体としてはシュピリが見聞きしたことをそのまま素材として、あまり加工せず、並べた感じであって、それゆえ群像劇のような感じになっている。シュピリの小説の中でもかなり特殊な部類だと思う。

シュピリの物語にはたいてい調和があるが、この話には無い。無理に調和を壊しているようにもみえる。もっとはっきり言えば小説としてのテイをなしていない。むしろエッセイというかレポートに近い。というより宗教説話というほうが近いかもしれない。そこがこの話の面白みとも言え、またシュピリの違った側面が見えて面白いともいえる。

以下、ネタバレ注意。

ハイジとの共通点はほとんどない。初期作品(後に Aus den Leben にまとめられた小説群)との類似性は高い。1880年に書かれたものなので、ハイジと執筆時期はほとんど一致している。つまり、驚くべきことに、シュピリは「ローヌの谷で」と「ハイジ」をほぼ並行して書いたことになる。「ハイジ」は大ヒットしたが、「ローヌの谷で」はほとんど話題にはならなかったに違いない。この後シュピリは「ハイジ」路線、つまり、割と軽くてキラキラしてて子どもにも読みやすい話を、おそらく商業的な目的から、多産するようになり、「ローヌの谷で」のような初期作品的な雰囲気をだんだんに削り隠していったのだと思う。

しかしながら、1885年にはもう一度、初期作品に回帰しようとして、というより「ハイジ」のイメージを払拭しようとして「ジーナ」を書いたのかもしれない。

「ハイジ」との共通点は足の悪い子どもが出てくるところである。クララと同じだ。クララはアルムに来て奇跡的に歩けるようになった。しかし「ローヌの谷で」に出てくるジュリエットは病気が治ることなく死んでしまう。

シュピリはなぜ同時にこの二つの作品を書いたのだろう。これも gemini に聞いてみた。

ハイジとローヌの谷はほとんど同時期に書かれたようです。ハイジではクララは歩けるようになりましたが、ローヌの谷ではジュリエットは歩けるようにはならず天国に召されています。これについてどう思いますか。なぜシュピリはこの二つの小説を同時に書いたのでしょう。これについて当時の人たちはどんな感想を抱いたのでしょう。

『ハイジ』と『ローヌの谷で(Im Rhônetal)』。どちらも1880年前後に発表された作品であり、仰る通り、シュピリの創作活動における同じ時期の「対」をなすような作品ですね。

二つの作品における「クララ」と「ジュリエット」という二人の歩めない少女の対照的な運命、そしてシュピリの執筆意図や当時の受け止められ方について、文学史や時代背景から考察してみます。

1. なぜ「歩けたクララ」と「死を選んだジュリエット」なのか?

一見すると、クララが「奇跡の救い」でジュリエットが「悲劇」のように見えますが、プロテスタント(特にシュピリが信奉していた虔信主義的傾向)の思想においては、「どちらも等しく、神による最高の救い(完治)」として描かれています。

  • クララの「歩行」= 地上での再生クララにとっての救いは、大自然の恵みと信仰によって生きる意欲を取り戻し、地上での役割(生きて愛すること)を果たすために足を立たせることでした。
  • ジュリエットの「死」= 天国での永遠の解放ジュリエットの体は重い病と不自由さに縛られており、当時の医学では回復が見込めない状態でした。彼女にとっての「救い」は、地上で不自由なまま生き長らえることではなく、苦痛に満ちた肉体(殻)を脱ぎ捨て、魂が解き放たれて天国の太陽のもとへ行くこと(解脱・昇天)だったのです。

最後の一文で描かれた「白い蝶」は、まさにその魂の自由を象徴しています。シュピリにとって「死」は絶望的な終わりではなく、神の御もとへの帰還という最大の祝福でした。

2. なぜシュピリはこの二作をほぼ同時に書いたのか?

シュピリはこの時期、全く異なる「二つの読者層・テーマ」に向けてペンを執っていました。

① 『ハイジ』= 子供たちと、子供を愛する大人への「希望の物語」

『ハイジ』の副題は「子どもと子どもを愛する人々のための物語」です。未来ある子どもたちに向けて、純粋な信仰、友情、そして自然の美しさが人々の心を癒やすという明快な「光」を描く必要がありました。

② 『ローヌの谷で』= 苦難(Jammertal)に喘ぐ「大人の魂への救済」

一方で『ローヌの谷で』は、人生の苦味や罪悪感を知ってしまった大人たちのための物語です。

人生には、クララのように奇跡的に病気が治る幸福ばかりではありません。病が治らない者、愛に破れた者、自責の念に押し潰されそうな者が現実にたくさん存在します。

シュピリは『ハイジ』という理想的な光を描く一方で、「現実の重い病や苦難に直面している人々(そしてその家族)を、どうやって救い、慰めるか」という、より切実で容赦のない現実のテーマを『ローヌの谷で』に託したのだと考えられます。

3. 当時の読者たちはどう受け止めたのか?

19世紀後半のヨーロッパ(特にドイツ語圏)の読者にとって、これらの作品は私たちが今感じるのとは少し違った角度で捉えられていました。

  • 当時の高い乳幼児死亡率と「死」の身近さ当時は医療が未発達で、子供や若者が病で命を落とすことが日常茶飯事でした。そのため、当時の児童文学や家庭小説において「幼い子の敬虔な死」は、残された人々を信仰へ導く高潔で感動的なシーン(いわゆる「聖なる死」)として受け入れられていました。当時の読者にとって、ジュリエットの死は残酷なバッドエンドではなく、「魂の勝利」「究極の平和」として深く涙し、感動するものだったのです。
  • 宗教的な慰めとしての高い評価『ハイジ』がその圧倒的な明るさで大ベストセラーとなっていく一方で、『ローヌの谷で』のような作品は、病床にある子供を持つ親や、人生の試練に直面している大人たちの間で、「魂を静かに照らす宗教的慰問書」として深く深く読まれました。

まとめ

シュピリは、『ハイジ』で「地上で生きていくための希望」を描き、ほぼ同時に『ローヌの谷で』を通じて「治らない病や去りゆく命、そして罪と向き合うための慰め」を描いたと言えます。

「クララは歩き、ジュリエットは天へ昇った」——この対照的な二つの結末を並べて見たとき、ヨハンナ・シュピリという作家が単なるおとぎ話の作者ではなく、「人間のあらゆる苦難(Jammertal)を直視し、そのすべてに神の救いを見出そうとした文学者」であったことがくっきりと浮かび上がってきますね。

こうしたバックグラウンドを知った上で二作を読み比べると、彼女の人間観察の深さに、改めて圧倒されてしまいます。


私も作家のはしくれのつもりなのでシュピリの気持ちはわかる。異なる読者層に向けて異なるテイストの小説を書いてみたのだ。試行錯誤している。そこには、我々が知ることのない編集者の助言や提案がある。最初は教会の要望で、信者向けに、救済と慰めのための小説を書いた。しかし売れっ子になると、もっと俗な、商業出版社からの依頼がシュピリに来るようになったに違いない。作家は同一人物でも売れてくると周囲が変わってくる。その潮流にもみくちゃにされていく。さらに読者は自分が読みたいものを書いてくれと要求するようになってくる。模倣者や二次創作などもできてくる。

ハイジファンたちはこんなシュピリを知ってどう思うだろう。しかし作家というものは誰しもそうしたものではあるのだが。

おいおいしかし、ヨハンナ・シュピリ研究って、まだ全然進んでないんだなって、みなさん思いましたよね?はたしてこれから日本人は、シュピリという人に向き合うことはできるのかな。

「ハイジ」はハイジがホームシックにかかってフランクフルトからアルムに帰るまでと、その後の、クララが山に来て歩けるようになるところと、二部にわかれている。シュピリは「ハイジ」第一部(Heidi’s Lehr- und Wanderjahre)と「ローヌの谷で」を1880年に書いて、「ハイジ」第二部(Heidi kann brauchen, was es gelernt hat)はその1年後に書いているのである。つまり、ハイジ第一部は余りに人気が高く、しかも、クララに同情が集まって彼女が歩けるような続編を書いてほしいという要望が非常に強かったことがうかがわれるのである。ハイジのように間をあけて二部構成で書いたものはシュピリには他にはないのだから、そう勘ぐらざるを得ない。

シュピリは流行作家を選ぶことで闇落ちした、と言われてもしょうがないかもしれない。

まあともかく、「ローヌの谷で」はそんな長い作品ではないので(「ジーナ」の半分くらい)自分で読んで自分で判断してみてください。

完訳ジーナ

ヨハンナ・シュピリ『ジーナ』。完訳といっても gemini の力を借りてやっとできたものではあるが、これもずいぶん前から手を付けていて果たせなかったもので、今回一気に翻訳できて感無量だ。私がジーナの翻訳を意図したあとで、英訳は出たらしいのだけど(それは敢えて読んでない)、邦訳はまだないはずだ。まだ図版やリンク、語句の統一などこれから整える作業はあるがとりあえず訳は終わったので公開する。

私はかつて『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』というものを出版したのだけど、この時もgoogle translate を使い、ドイツ語から日本語に直接訳すのはクオリティが低いので、ドイツ語を英語に訳して、英語を自分で日本語に訳すというてまひまをかけていた。

同じやり方でジーナも訳そうとして、原文のフラクトゥールの文章をテキストデータに文字起こしするところまではやったのだがその作業は 2019年で止まっていた(現在、デジタル化されたデータは projekt-gutenberg で見ることができる。脱力。ましかし、これで原文は完全なパブリックドメインであることが明らかになったわけだ)。

2012年にはすでに、ハイジの原点を著した川村隆氏によるヨハンナ・シュピーリの『ジーナ』―女性の大学教育と職業をめぐる葛藤があり、また2025年には新たに新本史斉氏がヨハンナ・シュピーリ『ジーナ』,あるいは,「牧歌」の破綻が拓く思考空間を世に問うている。

Goethe University Frankfurt というところに図版付きの pdf があったのだが、これは外部公開文書なのかどうか判然としなかったので、ここから図版を利用することはやめにした。

【注意】以下、ネタバレを含む。

それでまあ、ちょこちょこ機械翻訳するなどして、だいたいのあらすじは知っていたものの、今回全編を通読して、改めていろいろとわかったことがある。

まず、これは、彼女の初期作品、つまりハイジ以前に書いていた短編集を全部一つにつなげて長編にしたという形のものである。そう言って間違いないと思う。ハイジとはあまり似てない。もちろん似ている部分もあるが、傾向は違う。白水社の『スピリ全集』におさめられた、どちらかといえば、ジュヴナイルというより童話に近い話とも違う。また、シュピリの伝記などを読んで、彼女のバイオグラフィーに詳しい人ならば、この作品がシュピリ自身のことや、友人らの実話を多分に含んでいることも感じられると思う。特に、主人公ジーナのキャラクターはシュピリ本人のものとかなり重なるであろうし、ジーナのおばあさんというのも、シュピリの母メタ・ホイッサーを反映したものであろう。

シュピリの異様な話の引っ張り方には呆れた。そして最終章でいきなりクレメンティの告白であっけなく結ばれるのにも呆れた。いまどきの恋愛小説なら、こういう比率にはしない。お互い、相手の気持ちに気付いてからも、いろんな恋敵が現れてどろどろの愛憎劇が続いていき、最後には結ばれる、あるいは、結ばれるがまたそこから延長線が始まるところである。

このシュピリの物語展開は昔話に似ている。いろんな苦難を経て、最後は王子とお姫様が結婚してめでたしめでたしで終わる。それにそっくりだ。つまり極めて古典的なのだ。

また、一度は医師を志し、医学部の学生になったのにそれを途中で放棄して語学教師になり、それもまたやめて、医者の妻になり家庭に安住するという話の持って行き方。このいかにも美談として仕立てられた、ハイジを書いた大作家シュピリによる小説が、女性解放運動家たちに忌み嫌われた理由もわかる。この小説はドイツ語では美麗な図版入りの本として出版されながら、近年まで英訳すらされなかった、その理由も同じところにあるのだろうと思う。

オスカーとジーナは相手に連絡を取ろうともせず自ら会いに行こうともしない。むしろどちらも相手を極力避けようとする。しかし偶然のいたずらがいくつも重なって二人は出会ってしまう。これも普通の恋愛小説からはかけ離れている。二人は、利己的で衝動的な恋愛感情によってではなく、神の思し召しによって結ばれた、としか解釈のしようがない。シュピリはそういう恋の駆け引きというものを絶対に書きたくはなかった。しかし、宗教説話にもしたくはなかった。だから運命とか偶然によって無理やりストーリーを展開させ終結させている。これは、現代的なストーリーテラーとしては、たぶん全然失格なのである。人間の能動的な意志の力で逆境を乗り越え、運命を切り開いていくのを描くのが、今時の映画であり、はやりのナラティブであって、それを書けるのが作家の筆力というものではなかろうか。ハリウッドはまさにそうだ。エイリアンにせよプレデターにせよマトリクスにせよみんなそういう仕掛けになっている。

しかし20世紀後半には超能力が流行り、今はご都合主義の異世界転生やら、架空世界での魔法と奇跡の話が蔓延しているのだから、大した違いはないとも言える。

今回こうして邦訳を、ハイジに慣れ親しんできた人たちにも読んでもらって、シュピリという作家の本来の、より正確な姿が(フェミニズムとかコンプラなどの現代思想に邪魔されずに)、多くの人々に認識されることを願っている。

サチコに登録

この3年ほどずっと本の原稿を書いていたので、執筆欲とでもいうものがそちらですべて満たされてしまって、ブログを更新しようという気持ちがほとんどおきなかった。その上ツイッターなどというダラダラとつぶやきを垂れ流すツールもあったから、なおさらブログという形で書く気持ちがおきなかった。さらにいえば私の場合、ブログは日記のように毎日コンスタントに書くのでなく、書きたい衝動にまかせてある時期に、欲求のはけ口のようにまとめて書いていたから、よけいにブログは書かなくなっていた。

それでまあ今後はここでいろいろ書いていこうと思っているのだがまだ google search console で xml sitemap も URL検査もしてなかったから登録しておいた。

こちらでブログをいじっているだけでも adsense に影響が出ることはわかった。同じことは楽天アフィリエイトなどでも言えるのであって、そうやって自作自演で収益化することは規約違反でもあるし、そもそもなんの意味もない。赤の他人から金をもらってこそのアフィリエイトではないか。

adsense の予測収益額は 1円が2円となり0円に戻ったり、6円が10円になって8円に戻ったり、まるで水前寺清子のマーチのようだ。一喜一憂しても仕方ない。

tanaka0903.net がなかなか adsense の審査が通らないのは微妙にストレスである。adsense ならば無茶な広告をぶっこんでくることもないし、ブランドイメージを守れることはわかったので、日本語サイトつまり tanaka0903.net にも広告を入れてどれくらい収益化できるものなのか早く試したいのだが、ずっとじらされている。

今度出す本は秋には出るだろう。遅くとも年内に出るだろう。そこには論語のことなども多少書いたのだが、この、ユヴァル・ノア・ハラリの時代に論語を再説してみるのは少しは意味があるだろう。呉智英にしろ山本七平にしろ孔子や儒教を根っこで尊敬しているので、どこか肯定的であり、冷静に客観的に述べてはいない。苫米地英人などは単に認知科学とか脳科学などというそれっぽい理屈を振り回して伝統的な解釈を頭ごなしに否定しその真逆の主張をして受けを狙っているが、彼の根っこにあるのは単に戦後民主主義的左翼思想に過ぎまい。

宮崎市定はさすがに学者らしいまともな研究をしているが、なにしろもう古い。

別に論語とか仏教の話がしたかったわけではないのだが、本居宣長について書いていると宣長は仏教と儒教という二連星に挟まれその強い重力場の中で国学というものを作った人だから、その二連星の影響力というものに言及しないわけにはいかなかった。私は今では宣長は単なる仏教徒であり、儒教から逃れるために国学にすがっただけだと思っている。これが次に出す本の核心である。宣長によって国学の自立は完成しなかった。篤胤のようなものが出て、国学をさらに儒教や仏教から遠ざけようとしたがそれは国学を単なるオカルトにしただけだった。国学はいまだこの混迷から抜け出ていない。宣長を凌駕したものなどまだ出ていないのだ。宣長には限界があったが、その宣長を、300年後の我々はまだ超えられていない。

私は孔子は単にことわざ格言や詩のコレクターでその解釈をする人だったと思っている。人はみな格言が好きだ。格言を知ってなにかを知ったつもりになる。それが論語の本質であろう。

それはそうと生成AIの作る絵はすごい。日進月歩でどうなるかわからん。去年の今頃と比べてもすごく進化している。しかし自分が望む絵を出すために必死でAIにプロンプトで指示しているところを想像すると実に馬鹿らしくもある。昔のマンガやセルアニメをAIで実写化するなど、すぐに陳腐化するのだろう。

A Sketch of Asakusa だが、だいぶ方向性が定まってきた。Just another Asakusa guide、単なる浅草観光ガイドではない。かなり辛辣なことを書いているが、英文なので、日本人で気付いて文句を言う人はいるまいと今はたかをくくっている。英文をまた日本語に戻すとこんな感じだ。

Googleマップのレビューが示す通り、この店は恐ろしいほど評判が悪い。観光客、特に外国人に対して明確な敵意を抱いているのは明白だ。商売をする気もほとんどないようで、おもてなしの精神など皆無である。料理に関しては可もなく不可もなく、といったところだ。

私は大酒飲みなので、ここに来ても大抵餃子一皿と瓶ビール(小)しか頼まない。単にそれ以外の酒がないからだ。滞在時間はわずか15分足らず。私にとっては、ほんの気まぐれに立ち寄って少し時間を潰すだけの場所に過ぎない。餃子が美味いかと聞かれれば、まあ美味い方かもしれない。店内は撮影厳禁なので、私も決して写真は撮らない。

自分以外の客を見たことがないのだが、それは私が平日の夕方遅くにしか訪れないからだろう。週末になればそれなりに混むはずだ。それにしても、この店の最大の特徴は、資本主義の匂いが全くしないことだ。

もちろん浅草には他に選べる店などごまんとあるが、あえてこの店に足を運ぶ唯一の理由は、その素っ気ない雰囲気がいかにも浅草らしいからに他ならない。

分かりやすく言えば、この店はマカロニ・ウェスタンやスター・ウォーズに出てくるような、愛想が悪く荒んだ居心地の悪い酒場に浸りたい」という、私の物好きな欲求を満たしてくれるのだ。

冷笑的と言われるかもしれないが、私は「食堂みずぐち」や「ヨシカミ」のような人気店に行列を作り、狭い席に押し込められて「B級グルメ」をありがたがるフリをするのが大嫌いだ。それよりも、ガラガラに空いていて、思い立った時にふらっと入れて、料理がすぐに出てきて、サッと次の店へハシゴできるような店の方がいい。

この程度のことは google maps のレビューにはいくらでもあるのだが、彼らは匿名なので書き放題だ。

或いはこういう記事も書いた。

そこは、まるでNHKのドラマからそのまま飛び出してきたかのように完璧な、定食屋兼居酒屋だ。スタジオのセットと見紛うほどで、老若男女を問わず客もスタッフも、まるで台本通りに配置された舞台俳優であるかのように思えてくる。あまりにも自然でありながら、それでいて巧妙に演出されているため、街からふらりと迷い込んできたエキストラにでもなったかのような錯覚に陥る。要するに、まるで50年前の日本にタイムスリップしたかのような感覚を味わわせてくれるのだ。

40年前に私が初めて東京に引っ越してきた頃、こうしたNHKのドラマを思わせるような店はどこにでもあった。しかし、今はどうだろうか。おそらく浅草のような場所にしか残っていないのかもしれない。

つい先日、横須賀でこれと驚くほどよく似た街を見かけた。そこは「三崎通り商店街」という半ば寂れたアーケード街で、大正時代から続く古い食堂や蕎麦屋が今も数軒営業していた。しかし「千束通り商店街」は、人口密度が高く、浅草という一大観光拠点の周辺部に位置しているおかげで、戦後の昭和の面影を残したまま今日まで生き残ることができたのだ。

墨田区には江戸東京博物館があり、大阪には国立民族学博物館がある。近い将来、千束通りや吉原の裏路地のような街並みも、そうした博物館の中で永久に保存されることになるのではないかと思わずにはいられない。

こういう観光ガイドのフリをしたヘンテコなエッセイを書く人はあまりいないと思うので、それなりの意義はあるのではないかと思う。

The Advent of Celestial Maidens

今回、天女降臨を The Advent of Celestial Maidens と英訳したのだが、a Celestial Maiden ではなく Celestial Maidens と複数形になっているのは、地球に降臨した天女はかぐや姫だけでなく、メソポタミアのイシュタル、ギリシャのアルテミス、エジプトのイシスなどもみな、銀河連邦評議会が派遣した調査隊員であって、しかもその女性たちはしばしば、地球の男となんらかのトラブルを起こし、宇宙人とはいえ、同じホモ・サピエンスの、生身の人間であるから、理性で自己を律し得なかった。

そうした先輩たちを知っていたために、かぐや姫こと氷室加奈子は、地球の男を支配しようともし、己を律しようともし、先人らと同じ轍を踏まぬよう警戒していた、というプロットになっているのである。加奈子に対する卓也の執着と妄想は異常なようで実は彼はそれなりに彼女の本性が見えていた、と、そういうふうに読むことも可能であり、単なるよくいるストーカーだと見ることも可能だ、という設定になっている。どう解釈するかは読者に委ねられている。

この小説はしかし、天女降臨というタイトルがいかにも陳腐だし、主人公がかぐや姫という設定もいかにもありがちだし、その上、話が長すぎて、誰もまともに読んではいないと思う。またこういうジュヴナイルものというか、ラノベ的なものは世の中に溢れかえっているので、わざわざこんなめんどくさい話を読む人などいないのだろうと思う。

イシスは地球人オシリスと許されぬ恋に落ち、ホルスを産む。

イシスは地球を去ることになりホルスを連れて行こうとするがオシリスはホルスを隠してしまう。オシリスはホルスを川に流したと嘘を付き、逆上したイシスはオシリスを殺してしまう。オシリスを殺すのは神話ではオシリスとイシスの弟セトということになっている。オシリスを殺したセトを殺したホルスがエジプトの初代の王となる。

地球調査員にすぎなかったイシスはそうした重く深い業を抱えたまま、死んだ後もその自我はクラウドの中に溶けてなくなってしまいそうになりながら、なお存在し続けていた。イシスは加奈子の未来なのだ、という話。

いつものようにラノベのようなジュヴナイルのような話を書こうとして全然違う話になってしまった。