小説の動画化

youtube には朗読ものが一定にあって、また audible というものもある。いずれも字幕はついていない。ただ音声だけをラジオのように聴くものである。それでも悪くないのかもしれないが、自分の小説を音声化するにあたり、私は絵はまったくなくても字幕だけは入れたいと思った。日本語の、特に漢語を音声だけで聞き分けるのは不可能だと思うし、さもなくば、朗読用、演説用に、耳で聞いただけでわかるような原稿を最初から用意する必要があると思っている。

私の場合、漢語は割と使うほうである。セゾクノコウジン、トベドモイタラズ。このくらいは簡単かもしれない。「世俗の」コウジン「飛べどもいたらず」ならばコウジンは紅塵くらいしか当てはまるまい。今改めて確認してみると、私はそんなに、音で聞いてわからんような漢語を多用してはいないようだ。「ジョウガイノテキ」は「城外の敵」であろうなくらいはコンテクストでなんとなくわかるかもしれない。「場外」ではちょっと当てはまらない。耳で聞いて確実にわかるようにするには「城の外の敵」とでもすべきか。この「の」が繰り返すのが鬱陶しいからあまりやりたくない。

いずれにしても、私としては、目で見て確実に確認したい人もいるだろうし、また、目でみて可読性を高めたい人もいるだろうし、私自身がそうした人間でもあるから、字幕は付けたかった。ネット配信の映画を見るときも、私はふだんは日本語音声にしてさらに日本語字幕を付けているが、それが一番わかりやすい(頭に入りやすい)からだ。

davinci resolve のデュアル画面という技を覚えた。inspector をもっと広げたいのだが workspace を自由にカスタマイズできそうでできない。AI に聞いてもはぐらかすようなことばかり言うので、もう諦めた。

30分くらいの動画は字幕入り挿絵入りでもなんとか1日で1本くらいはいくのだが、ほぼ見る人はいない。私には、私自身と、私の知り合いが5人くらいと、直接の知り合いではないがなんか書いたり作ったりすると見に来てくれる人が全部で10人くらいいるらしい。adsense や analytics の反応はほぼこの範囲に収まっていて、あとはクローラーが調べにくるくらいらしい。

website よりも youtube はもっとわかりやすくて世の中は即物的なものにしか興味がないのだ。

ちいかわは確かに面白いかもしれないが、みんながわかって(或いはわからないことを考察しようとして)流行るものはこういうものでなくてはならないとすると、私がやっていること、作っているものは、ちいかわとは完全に真逆で正反対のものであるから、世間に注目されるはずがないと思うと、実に絶望的な気分になる。

絵画、作曲、動画など、自分の可能性を一個一個試していき、そろそろ全部試しつくしそうなところまできた。運命を受け入れてもうなるようになるしかない気がしている。

なかなかに 思へばやすき 身なりけり 世に拾はれぬ みねの落ち栗

それはそうと最近 kdp で出している小説の値段を一斉に値上げした。1冊1650円にした。これは印税70%の上限で、これより高く、例えば 2000円にすると、印税は35%となって逆に儲からない。安くても高くてもどうせ売れないので、高くしたほうがはったりが効くかもしれないしまとめて儲かるかもという判断。

昔は安くしてできるだけたくさんの人に読んでもらおうというような考えもあったのだが、それは人間の物欲的にもマーケティング的にも間違っていると思う。人はただ google 検索の上位にあるから信用して買っているだけだ。深く考えて選んで買っている人など世の中にはほとんどいない。ただまとめ買い、積ん読する人しか買わない。金を投げ捨てるような人しか本は買わない。それが現実だと思う。ならばそういう売り方をするしかない。

割と本気を出して小説を動画化してみた。

One Liner に続いて、私が書いた小説の中で割と動画化しやすいものとしては、「大人のいない村」かと思い、やってみた。挿絵などは英文化するときにある程度やっておいたので、それをほぼ流用した。銃を発泡したり、子どものようなみための大人が出てきたりするのだけど、google の規制にひっかからないか心配だ。収益化というよりは、これをサンプルに、私の小説に興味をもってくれる人が少しでもいればよいのだが、と思っている。思うにこの作品は(ドンパチがあるので)映像化しやすい、ドラマ仕立てにしやすい作品だと思うのだが、スティーブン・キングっぽいホラー小説が書けるかどうか試しに書いてみたものであり、自分が本来書きたいジャンルのものではない。私の作品は思うにどれもこれも、いろんな理由で映像化しにくいと思う。AIが発達してもしばらくは映像化しにくい(したからといって大してうまみがない)ものばかりだと思う。

davinci resolve で ctrl b で音声を切ることができる。選択ツールとカミソリツールをいちいち切り替えるよりもずっと効率が良い。しゃべりは早口なくらいでちょうど良いが、間が無いと会話にならない。だから切って間を調整する。1日に30分ものを1本作るのは可能だろう。1時間ものはきついと思うが慣れれば不可能ではあるまい。もうちょっと頭の良い読み上げツールがあれば調整が少なくなって楽かもしれない。

Youtube にはすでに、日本昔話夜話など、けっこうな力作を出しているところがあるのだけど、やはり、絵柄とかキャラクターがころころ変わってしまい、苦労しているようにみえる。映像を見ないほうがまだましに思える。

あと、ストーリーはまあまあ面白いのだが、長すぎてダレる。

原作の音声化

たぶんキャッシュのせいなのだろうけど、wordpress が非常に書きにくい。キャッシュは読む人のためには最適化されているけれど書いたり編集したりする人のためにはどんどん不便になっているのではないか。これはもう仕方のないことなのだろうか。

One Liner を voicevox で読み上げて youtube 動画にしてみたのだが、面白くない。思っていたのと何か違う。

voicevox 0.52.2 に新たに追加された、夜語トバリ、暁記ミタマというキャラクターはおそらく小説朗読用に作られたキャラであろう。少なくともそれに適した声質だと思う。

voicevox のイントネーションについては、無償である以上、これ以上のクオリティを求めるのは酷というものであり、十分だと思っている。かなり不満があるのは間の取り方で、今は gemini に言われた通りに、davinci resolve に読み込んでから切り離したり詰めたりして間を調節している。これをしないと物語の朗読にはまったくならない。漢字の読み間違いは voicevox の段階で直している。

まず、やってみて驚いたのは、One Liner のような短編小説は、10分くらいでさくっと読み終えると思うのだが、朗読にすると 1時間を超えてしまうってことだった。私たちは脳の中で、実際の発声と同じスピードで文章を読んでいるわけでないのだ。もっと速いテンポで読んでいる。読み慣れた人ならなおさらそうだろう。そのスピード感で朗読を聞くといかにも遅い。朗読から聞く人には感じないのかもしれないが、原文を先に読んだものには、遅さがかなり耐え難いものに感じられるのではないか。

私は半七捕物帳とか銭形平次捕物控なんかはよく youtube の朗読で聞いた(そういえば audible というのもあったな。解約したけど)。こういうものは今から思えばもともと朗読に向いた文体で書かれているのだ。銭形平次に飽きて聞かなくなったのは展開があらかじめ読めるようになったからで、ラジオ代わりに暇つぶしに聞くにはちょうど良いと思っていた。

youtubeに、チューリップの歴史とか、ネアンデルタール人の話とか、文章で読めば5分くらいで理解できるようなことを30分とか1時間に伸ばしてだらだら語るようなものがよくあるが、あれも暇つぶしに、酒を飲みながら聞いている分にはちょうどよい。知識を知るという意味では wikipedia でも読んだほうがずっと速く効率的だ。

中島敦の李陵や夏目漱石のこころ、吾輩は猫であるなんかも、決して朗読にむいた話ではない。樋口一葉のたけくらべ、にごりえなどもそうだろう。One Liner は比較的たけくらべに近い作品ではないかと思うが、こういう、会話の表面には現れてこない心理的駆け引きというものを、単なる朗読で読まされては、全然頭に入っていかない気がする。

ではドラマ仕立てにして登場人物とナレーターで別々の声を当てればよいか。いっそのこと動画にすればよかろうか。かかる手間ひまはともかくとしてそれはそれで難しそうだ。

エミリー・ブロンテの嵐が丘は何度も映画にリメイクされているが、私の見る限り、ただ美男美女が美麗なスコットランドの原野で暴れたり叫んだりするだけで、原作のイメージを再現しているものは一つもないように思う。それを言えばヨハンナ・シュピリも、児童文学として、童話に徹して書いたものはともかくとして、ハイジ、ジーナ、ローヌの谷でなどどれも、決してそのまま朗読とか映画化に適した話ではないかもしれない。

まともかく今回、原作の音声化とか動画化というのは恐ろしく難しいんだなということはわかった。

「はかもなきこと」はもう手がつけられない。放置するしかない。adsense とか analytics とか、収益化とか、AI生成コンテンツとか、いろいろやってみてわかったことは、何か新しいことをやり始めると、ものめずらしさに最初はアクセスがあるが、すぐにアクセスは激減するということだ。アクセス数を維持するには何か新しいことをやり続けなくてはならない。それ以外に方法はなさそうだ。だからユーチューバーなど次から次に新しい動画を出すのだろう。それが本業ならともかく、やってられない。

私は今のところ完全に無広告でやっている。youtube premium など契約しているから gemini は無課金でもかなりのところまで画像生成してくれているように思う。gemini にはある程度課金していることになっているのではないかと思う。職場のアカウントで gemini を使うといわゆる gemini のウォーターマークというのが(目視できる形で)つくが、個人アカウントではつかないので、やはり課金扱いなのではないかと思っている。

結局検索上位に出るにはある程度広告費を払わねばならぬのだろう。みんなそうやっているのだ。売り上げがあってその一部を広告費に回し、それでさらに検索順位が上がり、売り上げが頭打ちになるまで広告費を増やす。本来はそういうマーケティングをやるべきなのだが、これまた本業ならそうするべきなんだろうが、私は別にそこまでして、自分の作品を商業化したいと思っているわけではない。それでよっぽど売れるなら思い直すかもしれないが。

まあ話は戻るがなんでもかんでも youtube動画にすりゃいいってわけじゃないなという当たり前のことを思ったということだ。

決してこれで良いと思っているわけではないが、一応動画にリンクは貼っておこう。実験作だと思ってもらいたい。再生回数が増えれば後編も作るかもしれない。

完訳 ローヌの谷で

ローヌの谷でも一気に完訳した。なんと一日で。なんと仕事がはかどることよ。すごい時代になったね。これも邦訳はまだ無いはずだ。

この話は、シュピリが 1844年から 1845年、17才から18才まで、スイスの中でもフランス語を話す地方(ロマンディ地方)のイヴェルドン・レ・バンの寄宿学校でフランス語を学んでいた時の体験談のようなものであろうと思う。

主人公のヘドヴィヒはシュピリ自身がモデルだと言ってよいが、完全な傍観者に徹している。というのは、シュピリの家は裕福で上流階級ではあるが庶民(つまり新興ブルジョワ階級)であって、しかしシュピリがかの地で観察したのは領主たち、ドイツでは von X とか von Y などという名前を持つ貴族たち(XやYはその領地の名。von Habsburg のような)であったから、シュピリがその世界に交わったり、或いは恋愛をしたり、或いは結婚したりということはありえなかったからだろう。飽くまでもその貴族社会を外から観察している形になっている。von L. 夫人という登場人物はそういう厭味ったらしく押し付けがましい貴族階級の人々のカリカチュアなのだろう。

この作品にはシュピリの作家としての狂気を感じる。6章構成なのだが、第2章と第6章は比較的短く、第5章だけ異様に長い。今時の小説はこういう極端な章立てはしない。全体としてはシュピリが見聞きしたことをそのまま素材として、あまり加工せず、並べた感じであって、それゆえ群像劇のような感じになっている。シュピリの小説の中でもかなり特殊な部類だと思う。

シュピリの物語にはたいてい調和があるが、この話には無い。無理に調和を壊しているようにもみえる。もっとはっきり言えば小説としてのテイをなしていない。むしろエッセイというかレポートに近い。というより宗教説話というほうが近いかもしれない。そこがこの話の面白みとも言え、またシュピリの違った側面が見えて面白いともいえる。

以下、ネタバレ注意。

ハイジとの共通点はほとんどない。初期作品(後に Aus den Leben にまとめられた小説群)との類似性は高い。1880年に書かれたものなので、ハイジと執筆時期はほとんど一致している。つまり、驚くべきことに、シュピリは「ローヌの谷で」と「ハイジ」をほぼ並行して書いたことになる。「ハイジ」は大ヒットしたが、「ローヌの谷で」はほとんど話題にはならなかったに違いない。この後シュピリは「ハイジ」路線、つまり、割と軽くてキラキラしてて子どもにも読みやすい話を、おそらく商業的な目的から、多産するようになり、「ローヌの谷で」のような初期作品的な雰囲気をだんだんに削り隠していったのだと思う。

しかしながら、1885年にはもう一度、初期作品に回帰しようとして、というより「ハイジ」のイメージを払拭しようとして「ジーナ」を書いたのかもしれない。

「ハイジ」との共通点は足の悪い子どもが出てくるところである。クララと同じだ。クララはアルムに来て奇跡的に歩けるようになった。しかし「ローヌの谷で」に出てくるジュリエットは病気が治ることなく死んでしまう。

シュピリはなぜ同時にこの二つの作品を書いたのだろう。これも gemini に聞いてみた。

ハイジとローヌの谷はほとんど同時期に書かれたようです。ハイジではクララは歩けるようになりましたが、ローヌの谷ではジュリエットは歩けるようにはならず天国に召されています。これについてどう思いますか。なぜシュピリはこの二つの小説を同時に書いたのでしょう。これについて当時の人たちはどんな感想を抱いたのでしょう。

『ハイジ』と『ローヌの谷で(Im Rhônetal)』。どちらも1880年前後に発表された作品であり、仰る通り、シュピリの創作活動における同じ時期の「対」をなすような作品ですね。

二つの作品における「クララ」と「ジュリエット」という二人の歩めない少女の対照的な運命、そしてシュピリの執筆意図や当時の受け止められ方について、文学史や時代背景から考察してみます。

1. なぜ「歩けたクララ」と「死を選んだジュリエット」なのか?

一見すると、クララが「奇跡の救い」でジュリエットが「悲劇」のように見えますが、プロテスタント(特にシュピリが信奉していた虔信主義的傾向)の思想においては、「どちらも等しく、神による最高の救い(完治)」として描かれています。

  • クララの「歩行」= 地上での再生クララにとっての救いは、大自然の恵みと信仰によって生きる意欲を取り戻し、地上での役割(生きて愛すること)を果たすために足を立たせることでした。
  • ジュリエットの「死」= 天国での永遠の解放ジュリエットの体は重い病と不自由さに縛られており、当時の医学では回復が見込めない状態でした。彼女にとっての「救い」は、地上で不自由なまま生き長らえることではなく、苦痛に満ちた肉体(殻)を脱ぎ捨て、魂が解き放たれて天国の太陽のもとへ行くこと(解脱・昇天)だったのです。

最後の一文で描かれた「白い蝶」は、まさにその魂の自由を象徴しています。シュピリにとって「死」は絶望的な終わりではなく、神の御もとへの帰還という最大の祝福でした。

2. なぜシュピリはこの二作をほぼ同時に書いたのか?

シュピリはこの時期、全く異なる「二つの読者層・テーマ」に向けてペンを執っていました。

① 『ハイジ』= 子供たちと、子供を愛する大人への「希望の物語」

『ハイジ』の副題は「子どもと子どもを愛する人々のための物語」です。未来ある子どもたちに向けて、純粋な信仰、友情、そして自然の美しさが人々の心を癒やすという明快な「光」を描く必要がありました。

② 『ローヌの谷で』= 苦難(Jammertal)に喘ぐ「大人の魂への救済」

一方で『ローヌの谷で』は、人生の苦味や罪悪感を知ってしまった大人たちのための物語です。

人生には、クララのように奇跡的に病気が治る幸福ばかりではありません。病が治らない者、愛に破れた者、自責の念に押し潰されそうな者が現実にたくさん存在します。

シュピリは『ハイジ』という理想的な光を描く一方で、「現実の重い病や苦難に直面している人々(そしてその家族)を、どうやって救い、慰めるか」という、より切実で容赦のない現実のテーマを『ローヌの谷で』に託したのだと考えられます。

3. 当時の読者たちはどう受け止めたのか?

19世紀後半のヨーロッパ(特にドイツ語圏)の読者にとって、これらの作品は私たちが今感じるのとは少し違った角度で捉えられていました。

  • 当時の高い乳幼児死亡率と「死」の身近さ当時は医療が未発達で、子供や若者が病で命を落とすことが日常茶飯事でした。そのため、当時の児童文学や家庭小説において「幼い子の敬虔な死」は、残された人々を信仰へ導く高潔で感動的なシーン(いわゆる「聖なる死」)として受け入れられていました。当時の読者にとって、ジュリエットの死は残酷なバッドエンドではなく、「魂の勝利」「究極の平和」として深く涙し、感動するものだったのです。
  • 宗教的な慰めとしての高い評価『ハイジ』がその圧倒的な明るさで大ベストセラーとなっていく一方で、『ローヌの谷で』のような作品は、病床にある子供を持つ親や、人生の試練に直面している大人たちの間で、「魂を静かに照らす宗教的慰問書」として深く深く読まれました。

まとめ

シュピリは、『ハイジ』で「地上で生きていくための希望」を描き、ほぼ同時に『ローヌの谷で』を通じて「治らない病や去りゆく命、そして罪と向き合うための慰め」を描いたと言えます。

「クララは歩き、ジュリエットは天へ昇った」——この対照的な二つの結末を並べて見たとき、ヨハンナ・シュピリという作家が単なるおとぎ話の作者ではなく、「人間のあらゆる苦難(Jammertal)を直視し、そのすべてに神の救いを見出そうとした文学者」であったことがくっきりと浮かび上がってきますね。

こうしたバックグラウンドを知った上で二作を読み比べると、彼女の人間観察の深さに、改めて圧倒されてしまいます。


私も作家のはしくれのつもりなのでシュピリの気持ちはわかる。異なる読者層に向けて異なるテイストの小説を書いてみたのだ。試行錯誤している。そこには、我々が知ることのない編集者の助言や提案がある。最初は教会の要望で、信者向けに、救済と慰めのための小説を書いた。しかし売れっ子になると、もっと俗な、商業出版社からの依頼がシュピリに来るようになったに違いない。作家は同一人物でも売れてくると周囲が変わってくる。その潮流にもみくちゃにされていく。さらに読者は自分が読みたいものを書いてくれと要求するようになってくる。模倣者や二次創作などもできてくる。

ハイジファンたちはこんなシュピリを知ってどう思うだろう。しかし作家というものは誰しもそうしたものではあるのだが。

おいおいしかし、ヨハンナ・シュピリ研究って、まだ全然進んでないんだなって、みなさん思いましたよね?はたしてこれから日本人は、シュピリという人に向き合うことはできるのかな。

「ハイジ」はハイジがホームシックにかかってフランクフルトからアルムに帰るまでと、その後の、クララが山に来て歩けるようになるところと、二部にわかれている。シュピリは「ハイジ」第一部(Heidi’s Lehr- und Wanderjahre)と「ローヌの谷で」を1880年に書いて、「ハイジ」第二部(Heidi kann brauchen, was es gelernt hat)はその1年後に書いているのである。つまり、ハイジ第一部は余りに人気が高く、しかも、クララに同情が集まって彼女が歩けるような続編を書いてほしいという要望が非常に強かったことがうかがわれるのである。ハイジのように間をあけて二部構成で書いたものはシュピリには他にはないのだから、そう勘ぐらざるを得ない。

シュピリは流行作家を選ぶことで闇落ちした、と言われてもしょうがないかもしれない。

まあともかく、「ローヌの谷で」はそんな長い作品ではないので(「ジーナ」の半分くらい)自分で読んで自分で判断してみてください。

完訳ジーナ

ヨハンナ・シュピリ『ジーナ』。完訳といっても gemini の力を借りてやっとできたものではあるが、これもずいぶん前から手を付けていて果たせなかったもので、今回一気に翻訳できて感無量だ。私がジーナの翻訳を意図したあとで、英訳は出たらしいのだけど(それは敢えて読んでない)、邦訳はまだないはずだ。まだ図版やリンク、語句の統一などこれから整える作業はあるがとりあえず訳は終わったので公開する。

私はかつて『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』というものを出版したのだけど、この時もgoogle translate を使い、ドイツ語から日本語に直接訳すのはクオリティが低いので、ドイツ語を英語に訳して、英語を自分で日本語に訳すというてまひまをかけていた。

同じやり方でジーナも訳そうとして、原文のフラクトゥールの文章をテキストデータに文字起こしするところまではやったのだがその作業は 2019年で止まっていた(現在、デジタル化されたデータは projekt-gutenberg で見ることができる。脱力。ましかし、これで原文は完全なパブリックドメインであることが明らかになったわけだ)。

2012年にはすでに、ハイジの原点を著した川村隆氏によるヨハンナ・シュピーリの『ジーナ』―女性の大学教育と職業をめぐる葛藤があり、また2025年には新たに新本史斉氏がヨハンナ・シュピーリ『ジーナ』,あるいは,「牧歌」の破綻が拓く思考空間を世に問うている。

Goethe University Frankfurt というところに図版付きの pdf があったのだが、これは外部公開文書なのかどうか判然としなかったので、ここから図版を利用することはやめにした。

【注意】以下、ネタバレを含む。

それでまあ、ちょこちょこ機械翻訳するなどして、だいたいのあらすじは知っていたものの、今回全編を通読して、改めていろいろとわかったことがある。

まず、これは、彼女の初期作品、つまりハイジ以前に書いていた短編集を全部一つにつなげて長編にしたという形のものである。そう言って間違いないと思う。ハイジとはあまり似てない。もちろん似ている部分もあるが、傾向は違う。白水社の『スピリ全集』におさめられた、どちらかといえば、ジュヴナイルというより童話に近い話とも違う。また、シュピリの伝記などを読んで、彼女のバイオグラフィーに詳しい人ならば、この作品がシュピリ自身のことや、友人らの実話を多分に含んでいることも感じられると思う。特に、主人公ジーナのキャラクターはシュピリ本人のものとかなり重なるであろうし、ジーナのおばあさんというのも、シュピリの母メタ・ホイッサーを反映したものであろう。

シュピリの異様な話の引っ張り方には呆れた。そして最終章でいきなりクレメンティの告白であっけなく結ばれるのにも呆れた。いまどきの恋愛小説なら、こういう比率にはしない。お互い、相手の気持ちに気付いてからも、いろんな恋敵が現れてどろどろの愛憎劇が続いていき、最後には結ばれる、あるいは、結ばれるがまたそこから延長線が始まるところである。

このシュピリの物語展開は昔話に似ている。いろんな苦難を経て、最後は王子とお姫様が結婚してめでたしめでたしで終わる。それにそっくりだ。つまり極めて古典的なのだ。

また、一度は医師を志し、医学部の学生になったのにそれを途中で放棄して語学教師になり、それもまたやめて、医者の妻になり家庭に安住するという話の持って行き方。このいかにも美談として仕立てられた、ハイジを書いた大作家シュピリによる小説が、女性解放運動家たちに忌み嫌われた理由もわかる。この小説はドイツ語では美麗な図版入りの本として出版されながら、近年まで英訳すらされなかった、その理由も同じところにあるのだろうと思う。

オスカーとジーナは相手に連絡を取ろうともせず自ら会いに行こうともしない。むしろどちらも相手を極力避けようとする。しかし偶然のいたずらがいくつも重なって二人は出会ってしまう。これも普通の恋愛小説からはかけ離れている。二人は、利己的で衝動的な恋愛感情によってではなく、神の思し召しによって結ばれた、としか解釈のしようがない。シュピリはそういう恋の駆け引きというものを絶対に書きたくはなかった。しかし、宗教説話にもしたくはなかった。だから運命とか偶然によって無理やりストーリーを展開させ終結させている。これは、現代的なストーリーテラーとしては、たぶん全然失格なのである。人間の能動的な意志の力で逆境を乗り越え、運命を切り開いていくのを描くのが、今時の映画であり、はやりのナラティブであって、それを書けるのが作家の筆力というものではなかろうか。ハリウッドはまさにそうだ。エイリアンにせよプレデターにせよマトリクスにせよみんなそういう仕掛けになっている。

しかし20世紀後半には超能力が流行り、今はご都合主義の異世界転生やら、架空世界での魔法と奇跡の話が蔓延しているのだから、大した違いはないとも言える。

今回こうして邦訳を、ハイジに慣れ親しんできた人たちにも読んでもらって、シュピリという作家の本来の、より正確な姿が(フェミニズムとかコンプラなどの現代思想に邪魔されずに)、多くの人々に認識されることを願っている。