清水門

まず大江戸線で飯田橋というところに行った。実に複雑な形をした町だ。もともとこのあたりには神楽坂下、早稲田通りに牛込橋というものしかなかったはずだが、飯田橋が架かり、総武線が通り、地下鉄が通り、最後に大江戸線が通って、とてつもなく複雑な町になっていったようだ。車道と歩道橋で町が寸断されているのでよけいそう感じるのだと思う。

江戸城の地図を書いていて思うが昔の江戸はもっと直感的で歩きやすい町だったはずだ。今の東京は街歩きするにはほんとうにひどいところだ。逆にそれが町をダンジョン化していて面白い、ということはあるのかもしれない。この飯田橋から神楽坂にかけても、よくよく調べてみれば面白い町なのかもしれない。

久しぶりに東京大神宮に来てみたが連休のせいで雨なのに行列ができていて、しかもほとんどが若い女だった。いったいこの神社巡りというものに最近は何が起きているのだろうか。道の通り方が直感に反しているので google マップを頼りに北の丸に向かう。途中靖国神社をよぎるがここにも大勢参拝客がいる。銀杏がたくさん落ちている。子爵品川なんとか像をすぎて田安門をくぐる。武道館で誰かがコンサートをやるらしくたくさん人がいる。田安門は非常に立派な枡形城門になっていて、武道館に行く人はみんなここをくぐるのだ。

田安門の裏に弥生慰霊堂というものがあり、ここは警視庁や皇宮警察で殉職した警察官が祀られているところだという。入口に柵のようなものが置いてあるが完全に塞がれているわけではなく、google マップを見ても立入禁止というわけではなさそうで、おそらく変な客が悪戯をしないよう目立たなくしているのだろうと思い、入ってみる。ここは昭和天皇の野立所というものもあり、奥に靖国の鳥居が見え、手前には田安門の櫓と高麗門がみえて、実に荘厳なところだ。警視庁の警備の人が私のあとから入ってきたので、私が不審者じゃないかどうか確認に来たのだろうと思う。迷惑だったかもしれないが注意はされなかった。ひやかしにくるのでなければ、ここは良い場所だと思った。入口に狛犬がいるが神社でも寺でもない。堂も社でも祠でも寺でもない。もしかすると殉職した警官たちも靖国に祀られたかったのかもしれない。しかしそこにはけじめというものがあるべきであるから、ここにひっそりと祀られているのかもしれないなと思った。

今日は清水門を見に来たのだった。来たことがあるようなないような不思議な気分になった。九段下の堀の蓮池が良く見え、人通りも少なく、静かな良いところだ。

御三卿の一ツ橋、清水、田安のうち、清水と田安は御殿が北の丸にあった。一ツ橋はその名の通り一ツ橋門の中、御舂屋の隣にあったのだろう。清水門の坂というか石段は非常に上り下りしにくい。足が丈夫だった若い頃は飛び跳ねて降りたろうが、今は筋をいためたり足首の関節を挫いたりせぬように、転んで脳挫傷にならぬようにと慎重に降りるが、こんなところを上り下りさせられる清水の御殿様はたいへんだったのではないか。枡形城門としては少し変則的な形をしているのも面白い。

都立図書館の資料を見ると清水門はほとんど昔のままに保存されていることがわかる。

これだけ立派な門と堀と石垣があるのに桜田門外の変などが起きたのはずいぶん無様だった。幕府の権威が地の底まで落ちるのは当然だ。

次に雉子橋を見ようと思ったのだが、雉子橋というものはもう無いらしい。清水橋、竹橋、平川橋、帯郭などは今もほぼ完全な形であるので、その外側にあった日本橋川が一ツ橋の先まで、完全に埋められてしまったという状態であるらしい。その先には日本橋川の痕跡が残っている。

北桔梗門まで戻り本丸にのぼって梅林坂を降りて平川門を通って竹橋駅までぐるりと歩いてみた。うん。だいぶ理解してきた。

平川門では外人がおおぜい門の下に腰掛けてスマホをいじっているのが印象的だった。雨が降っていたせいもあるがあそこに座ってみたかったのだろうなと思った。

その後浅草あたりで飲み食いした。

つい最近まで、ずいぶん暴飲暴食をしたものだ。しかし最近、血圧がどんどん上がりだしたので、食事の量を減らした。また実はだいぶ昔からなのかもしれないが、最近はやたらと腹が(胃のあたりが)張るような気がして、すべては結局、食事の量を減らすしかないというか、今の年齢だと、ごく少量を少しずつ時間をかけて食べないと、胃腸にも負担がかかるし、太るし、血圧も上がってしまうんだということがわかってきた。

飯を腹いっぱい食うというのはやはり罪悪なのである。世の中には誘惑が多いがそれらはすべて資本家の罠だ。でなければ収益化の罠だ。日本の食文化は世界遺産らしい。名誉なことではあるし、尊いことでもある。食べれば楽しい。おいしい。しかし快楽をむさぼっているだけだ。ストレス解消にはなるかもしれないが、しかしそれはストレス解消するためにはタバコを吸ったり薬を飲んだりして良いのかという話と同じで何も解決にはなっていない。昭和天皇は胃腸の調子を良くするためにいつもオートミールを食べていたというが当然そうあるべきだ。

年寄りはとにかく煩悩の炎を消さなくてはならぬ。肉体の衰えのためにやむなくそうするのであってほんとうは30代のような気楽で無茶苦茶な生活に戻りたい。

ブログを書いていて adsense というものを始めると、ブログを収益化しなくちゃならんような気がしてくる。物書きというほどでなくとも、出版というものをしたことがある人間ならどうしてもそう考えてしまう。しかし仕事は仕事として給料をもらい、ブログはブログで収益化して、絵を書いたり動画を作ったりしてもいちいちそれぞれを、一つ一つ個別に収益化しなくちゃならんかということになると、それは普通は無理だ。自分の行動のすべてをそれぞれ採算がとれるようにならんといかんと考えるのは強迫観念に過ぎない。adsense はそれを明確に気付かせてくれた。ブログというものは書きたいように書けば良いのであって SEO的に最適化して、トピックを分けて、有用なコンテンツにして、などという書き方をしてはそれはもはやブログではない。少なくとも私のブログではない。

國友公司も言っているが、今はフリーランスが専業一本で稼ぐのは難しい。いろんなことをやってトータルで収益化するしかない。個々の活動それぞれで収益化し帳尻を合わせようとすると破綻する。10個くらい手広く商売をしてそのうちのどれかで食っていければ良く、また、煩悩を一つ一つ潰していけば出費も自然と減っていく。そうして生きていくしかない。ブログにしても、書いておかねば忘れてしまうから書いておくというのが本来の目的だったはずで、今も昔書いた記事を読み返すと忘れてしまったことが非常に多くて今の自分にとって役に立つ。もちろん読者がいないよりはいたほうが良いが、逆に読者がいると思うと書き散らせなくて困ることもある。

金を儲けるということは要するに用水路を掘って水源から水を田んぼに引いてくるようなものだ。ただそれだけのことだ。キャベツ農家もキャベツを育てただけで販路を持たなければ農協に搾取されるだけだ。金の流れを作らなくては金を儲けることはできない。当たり前のことだ。adsense はその金の流れを google に依存するということに他ならぬ。

最近は原始仏教を良く調べているのだが、原始経典として信用できるのはやはりスッタニパータとダンマパダくらいだと思えてきた。

スッタ・ニパータは、束ねた糸、というくらいの意味だ。糸とは詩句であろう。文字によらず、記憶に頼って言葉を暗記して伝えるには、詩歌を使うしかない。歌の本質はそれだ。文字無き時代の文芸はすべて歌という形を取った。それはだんだん長くなっていき、ギルガメッシュやホメロスの叙事詩のようになるかもしれないが、最初からそうだったとは限らない。

ダンマ・パダは、直訳すれば、まことの足跡、とでも言えようか。

シャカは実在しただろう。しかしブッダと呼ばれた人は複数いた。シャカを中心に教団が生まれた。イエスの言葉をパウロが広めたように、シャカの言葉を広めた人がサーリプッタであった。ジャイナ教徒はサーリプッタをブッダと認識していたらしい。

イエスの言葉を集めてマルコ、ルカ、マタイの福音書ができたように、仏教でもまず第一次結集が起きた。このときの主要メンバーがサーリプッタとモッガッラーナ、そしてアーナンダであったはずだ。

サーリプッタとモッガッラーナはシャカムニより年上でシャカより先に出家して沙門となっていたはずだ。沙門とは婆羅門僧ではなく、バラモンの教えから離れて、というよりバラモンの古い教えを否定した新興宗教的なものであったはずだ。

サーリプッタとモッガッラーナはシャカが自分たちよりもさらに急進的な過激思想家であることを発見し、彼を教祖にすることにした。サーリプッタとモッガッラーナはシャカよりも年上だったのでシャカより先に死んだ。シャカが死んだときには身の回りの世話をしていたアーナンダが後を継いだ。

シャカはおそらく、サイの角のように独りで生きよとか、ヘビが脱皮するように人間社会から脱出せよとか、そういう、群れたがるバラモンを小馬鹿にするようなことばかりいう、世間嫌い人間嫌いの若者にすぎなかったはずで、一種のダダイズムを悟りと言っていたに過ぎないと思う。

アーナンダはシャカよりはずっと現実的な人だったので、シャカの厳格な戒律を緩めて、男だけでなく女も出家できるようにした。これは非常に画期的なことだったと思う。逆の言い方をすれば孤高派孤立派であったシッダルタの意に反して教団を社会組織化し、世の中に普及させた人であった。

シャカが死んで500年近くは、文字に頼らず、言葉だけでシャカの教えが口伝で次の世代に伝えられてきた。パーリ語の文献はみなそうだ。シャカはもともとマガダ語を話したはずだが、それがパーリ語になったのはサーリプッタのせいだったかもしれない。当時は口伝をそのまま伝えるための技術というものがあったのには違いない。500年間、ほぼもとの形で伝えられたということはあったのかもしれない。それは、初期仏典の内容が、ジャイナ教徒に伝えられたものとほとんど同じものが存在することからもある程度証明できる。しかしながらだんだんに経典が追加されるということはあったに違いない。オデュッセイアなどもそうやってふくらんでいったのだ。

原始仏教に比べれば、大乗仏教に限らず、南伝仏教(上座部、小乗仏教)もまたホンモノとは決して言い難いであろう。仏像を作るということもガンダーラあたりでギリシャ文化の影響で始まったことであってそれがどんどん膨らんでいって、サンスクリットや漢訳仏典がでてきて、さらに聖武天皇が金ピカの大仏を作ったり、鎌倉仏教ができたりした。

ではどこまで遡ればホンモノの仏教かといえばそれはむずかしい。シャカ(シャカ王族のゴータマ・シッダッタ)という人は実際にいただろうがブッダは複数いたとしか言いようがあるまい。

本居宣長にしてもそうだ。彼はあの時代にいたからたまたま宣長になれたのにすぎない。そういう社会の機運のせいで宣長は宣長になれた。宣長がいなくても宣長のような人は遅かれ早かれ現れただろう。宣長がいたせいでまったく歴史に残らず消えた人が同時代に10人くらいはいたに違いない。

遺伝子プールという言葉があるように、同じような人間の集団があってその中に候補者が10人くらいいないと1人の新しい思想家は生まれてこない。本当に新しい考えの持ち主が1人突然変異のようにして生まれて孤立していてもその思想が広まるわけがない。アインシュタインだって漱石だってみんなそうだ。

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