ルバイヤート試訳

目覚めよ!空の羊飼いたる太陽が、
星々を天頂の囲いへ追い込み、
その力強い腕を振るって闇を払い、
燃える瞳から光を撒き散らしているのだから。

天空の青き器に朝の酒が満たされて、
雲の切れ端や薔薇の花びらが、その中に浮かぶ。
乾いた大地は、その器から朝を飲み干す。
果てしなき虚空を壁とし、星々の輝きに縁取られた器から。

さあ、朝が来た! 暁あけの明星みょうじょうのごとく
遥か彼方の王宮で輝いているのは、
それは夢の続き、寝覚めの幻などではない、
それは宝玉の車を馭し、真昼を支配する王の青き瞳だ。

目覚めよ、わが魂よ、そしてただちに酒を飲め。
たちまちにして昇るこの太陽も、あっという間に沈んでしまう。
さあ、さあ、寝ぼけ眼まなこの酒場の亭主よ、その戸を開けよ。
我らは泉のほとりで、渇きに死のうとしているのだ。

他に居場所もない哀れな男たち。
我らは早々とこの酒場にやって来た。
薄暗い夜明け前からずっとここで待ち続け、
ただひたすらに、その日が明けるのを待っている。

愛も無く、金も無く、誉れも無い。
我らには何もない。名前さえも。
あるのはただ酒だけ。だがそれで十分だ。
ただ酒があるだけで我らは幸せだ。

若さは魔法の鳥のように飛び去った。
その鳥は、五月の朝のひととき、
彼の愛する薔薇に向かって歌ったが、その薔薇もまた消え失せた。
あなたにも私にもその行方はわからない。

我らを蔑みの目で見るお前よ、お前は我らを
朝から朝まで夢に酔いしれる哀れな酔っ払いども、
衣服は汚れ、名声は失われた者ども、
ただの葡萄粒や麦粒に過ぎぬ心の持ち主どもよと思っているのか。

御魂みたま宿れる 杯さかづきに 御酒みきを満たして 飲み干さば
死すべき身さへ 神となる
土に生ひたる 百種ももくさの いかなる枝に 成れる実よりも
恐ろしくまた 妙なる実から 醸せる御酒を 我らは求む

杯は 白銀しろがねの 小さき泉、
そこは真実まことが、もしもこの世に 真実あらば 、そこにこそ 宿れかし。
死も またそこにあり。死を求めざる 者はあらめや。
そしてまた 愛もそこにある。天国でもあり地獄でもある愛が。

杯は思ひ出を呼び覚ますくすしき器。
その中にはひねもす、懐かしき顔が微笑みては過ぎ去り、
その縁ふちに口づければ亡き人の唇が我らの唇に触れ、
ありし日の声が、甘く「ああ」とささやく。

まどろむ昼のひととき、
あたりは静まり返り、夢うつつの心地にあるとき、
ふと誰かが、驚きに輝く顔を上げる、
聞け!かの鳥の調べを、あやしき呼び声を。

酔ひどれめだと? ああそうさ、我らは。だが賢き者ならば誰しも、
我らと同じく、夢見る瞳で酔いしれているだろう。
哀れなるしらふの世界よ、ひねもす憂ひに沈む者らよ、
寺も捨て、市場も捨てて、我らの楽園に加はれ。

酒に癒せぬ 憂ひはあらじ
洗い流せぬ 罪もなく
解き明かし得ぬ 謎もなく
あがなひ切れぬ 借り金もなし

女を忘れたければ 酒を飲め
忘れたくなくとも 酒を飲め
女の顔を見るだけで胸が張り裂けそうになるのか
では酒という鏡の奥底を覗いてみよ。

我が胸を酒の酔ひで満たしてくれるのならば
この世が滅びてもかまわぬ
ああ、滅びゆく王国よ、忘れ去られし王たちよ。
私はもっと良い王国を知っている。酒だ。

雲が湧き、草木の上に激しく涙をこぼした。
さあ、琴の調べを聴きながら、ただひたすら酒を飲もう。
今日、我らが憩ふこの芝生が
やがて我らが屍かばねの上で涙を流すだろう。

酒の輝きはあまりにもまばゆく
闇の中にありてなほ光を放つ
ニワトリも時を告げる、夜明けとみまがふほどの
その神々しき光に。

一杯ひとつきの、目覚めの朝の 紅くれなゐの酒、
曙光にまがふこの輝かしき酒のなかりせば、世界はあまりにも寂しい
いや、この酒こそはまことの朝、他に朝などありえない。
酒は私がこの世に生まれ出でる幸福な朝だ。

小室直樹論

村上篤直「評伝 小室直樹」と山本七平「現人神の創作者たち」を比べ読みしているのだが、山本七平は栗山潜鋒を非常に正確に認識しているのに対して、小室直樹は潜鋒を高く評価している割にはその認識はかなり粗雑だ(今風に言えば「解像度が低い」)。山本七平は潜鋒の著書「保建大記」をちゃんと読んでいるが、小室直樹はおそらく潜鋒を平泉澄や市村真一などの論文(雑誌記事)を読んで知っただけなのだろうと推測できる。小室に潜鋒を理解する能力が無いわけがないのだが、理解しようという意欲には欠けていたかもしれない。もし小室直樹が「保建大記」を精読していればああいうことを言うはずがないのである。

小室直樹は京大吉田寮の自室入口に「軍事科学研究会」の看板を出して「日本は戦争に敗けた。では、どうやったら勝っていたのかを研究している」などと言っていたそうだ。これはまさに、1983年にカッパ・ブックスから出た「アメリカの逆襲」のテーマそのものではないか。小室はさらにこれを「日本再軍備の性格」と題する論文にして雑誌「桃李」に投稿し掲載される。「桃李」は平泉澄が主宰する桃李会の出版物であり、小室もこの桃李会の会員となった。これが昭和28 (1953)年、小室直樹21才の時だから、この時から既に小室は平泉門下に入っていたことになる。

昭和31 (1956)年には「桃李」に「スターリン批判からソ連の崩壊へ」という論文を寄稿しているが、これまた1983年に出した「ソビエト帝国の崩壊」の原型であろうと思われる。

平泉澄という人の書いたものを読んでみると、小室直樹の書いたものと、内容も文体もよく似ている。おそらく小室直樹はもともとそれほど文章を書くのがうまい人ではなかった。それで平泉澄の文体を真似て、それが後には小室節とまで言われるようになったのだろう。

平泉澄という人はおそらく本居宣長や賀茂真淵、あるいは松平定信らについてはほとんど何も言及しない人であったと思う。平泉にとって宣長はあまりにも歌人でありすぎた。非政治的、ノンポリな学者に見えたのだろう。自分にとって都合のよい部分は取り、それ以外には無関心だったのだと思う。

小室直樹が宣長について書いているのも、私はほとんど見たことがない。あったとしても、ごく表層的なものだったように思う。

山本七平は宣長についてある程度書いているのだが、それは「小林秀雄の流儀」の中で小林が書いた「本居宣長」について言及しているからであって、小林の宣長理解は相当なものではあったがしかし、私がみるに、小林は宣長についてその独特の直感力によって多くのことに気付いてはいたが、ほんとうに宣長を理解できていたかというとそれはかなり怪しいと思う。山本七平の宣長理解もまた小林を出るものではなく、やはり非常に表層的なものだ。

平泉澄、小室直樹、山本七平らは今のネトウヨの直接の祖先だが、彼らに共通しているのは賀茂真淵や本居宣長に関する理解(というよりシンパシー)が極めて希薄だということだ(宣長から見れば山崎闇斎や山鹿素行などは、もともと中国崇拝者だったものが転向して日本が中心で一番偉いと言い出しただけの連中であり、日本的なもの、中国的なもの、天竺的なものの違いもわからず、日本固有のものかそれ以外のものかの見分けもつかず、従って日本の何が良くて何に価値があるかの区別もついてないくせに、ただむやみに日本を持ち上げようとしている連中に見えた。歌を詠まずに日本的なものの良さがわかるわけがないのである)。クリスチャンだった(つまり宗教というものに対する相対的価値観、批判精神を持っていた)山本七平をのぞけば栗山潜鋒に関する理解も非常にあやうい。頼山陽や松平定信に対する理解もほとんど無いと言ってよい。それにくらべて山鹿素行や浅見絅斎、その系譜に連なる吉田松陰らは非常に高く評価している。これらのことは今のネトウヨにあやまったメッセージを送っているし、いわゆるリベラルや左翼にも、付け入る隙を与えているのである。

また、ネトウヨもリベラルも三島由紀夫を非常に気にするが、三島の思想(例えば和歌とか藤原定家に関する認識)というものも実にあやしいものである。

つまり私が何を言いたいかといえば、栗山潜鋒、本居宣長、頼山陽、松平定信などといった徳川時代の思想家を正しく理解せねば古学や国学、保守とか右翼というものは理解できないし、きちんとした国学理解がなければ水戸学も神道もわからないし、当然(日本における)儒学も仏教もわからんということになる。

学習院長であった乃木希典は裕仁親王に山鹿素行の「中朝事実」を献呈したのだが、裕仁親王はおそらく山鹿素行的な国粋主義をまったく信じていなかったと思う。乃木希典が「中朝事実」を献じて明治天皇大喪の日に殉死した時、裕仁親王はまだ 11才だったので、おそらく当時は何がなんだかわからなかったと思うが、20才でイギリス遊学した以降は完全にそうした天皇絶対主義とか皇国史観というものから遠ざかったと思われる(そうしたものは近代国家の立憲君主にとって危険思想以外の何ものでもない。栗山潜鋒にしても天皇を絶対君主だと言っているわけでは決してないし、武家政権を否定しているわけでもない)。裕仁親王は乃木希典を敬愛していたとは思うが、その思想は決して容認できぬものであった。この天皇と臣下の間の思想のズレというものは戦後の右翼と天皇の間にも残存して、今に至るのである。

小室直樹の「ソビエト帝国の崩壊」「アメリカの逆襲」は名著であると思う。それは20年以上前、学生時代から温めていた構想があったからだということを知って、非常に納得がいった。その次に出た「新戦争論」もまあまだ真面目に書いている。しかし売れっ子になっていくとだんだん書き殴りとしか思えないものが混じってくる。栗山潜鋒についての記事などもそうした時に書いたものだろう。貧乏学者が印税で食っていくためとはいえ、もう少しなんとかならなかったのかと思う。

小室直樹の栗山潜鋒認識

栗山潜鋒と三島由紀夫と小室直樹を読み返していたのだが、実際小室が国学や史学を学んでいた頃は、栗山潜鋒と安積澹泊と山鹿素行の思想的差異などというものはほとんどまったく考慮されていなかっただろう。これら三人はまったくごちゃまぜにされて愛国者、国粋主義者という扱いをされていた。そういうことにしたかったのは薩長政権、明治政府であって、徳川時代にはこの三人には明白な違いがあった。

栗山潜鋒と安積澹泊は全然違う。栗山潜鋒と山鹿素行も全然違う。安積澹泊と山鹿素行は少し似ているかもしれない。ともかく、小室直樹は栗山潜鋒を高く評価してはいたけれども潜鋒の特異性についてはほとんど気付いていなかった。それほどまでに、戦前の軍国少年らは薩長政権と日清日露の戦勝に目をくらまされていたのである。

そしてさらに問題なのは今のネトウヨというものはみんな小室直樹の劣化コピーにすぎず、小室を超えていこうとする新しき思想家が現れる気配はまったくないってことなのである。

評伝 小室直樹(下)p.397(小室著『天皇恐るべし』からの引用)

栗山潜鋒の筆勢は激しい。容赦なく上皇に筆誅を加える。
上皇が軍事力を行使して天皇を攻めるということは、考えも及ばないほどの不倫このうえないことである。

潜鋒が主に筆誅を加えているのは崇徳上皇ではなく、後白河であり、その次に鳥羽、白河院である。潜鋒は崇徳には大いに同情的であった。上田秋成だってそうだ。鳥羽院が余りに無能なので、崇徳を譲位させて、後白河を飛ばして近衛を立てた。後白河はおそらく鳥羽と同程度に無能だったから、摂家が気を効かせたのだろう。しかし近衛が崩御した。本来ならば崇徳が復辟するか、さもなくば、崇徳の皇子、重仁親王だ立つべきだと崇徳だけでなく朝臣もおおよそそれが妥当だと考えていた。ところがそこで既にキャンセルしたはずの後白河が即位した。崇徳は父鳥羽が存命のうちは我慢した。鳥羽が崩御したので崇徳は挙兵した。

では崇徳が正しいのか。それとも人臣は後白河につくべきなのか。潜鋒は記す。

近衛天皇崩ず。上皇以為へり、朕、当に重て祚を践むべし、然らずんば重仁親王をと。重仁は上皇第一の子なり。衆亦た意を属す。美福門院謂へり、上皇、近衛帝を呪詛すと。故に重仁を忌み、勤めて法皇に雅仁親王を立つ。関白(藤原)忠通、亦た之を慫慂す。遂に雅仁を立てて祚に登す。是を後白河天皇と為す。時に四宮と称す。微にして聞こゆる無し。是に至って朝野愕然たり。

後白河、将に当に立つべき所あるべきや。応に崇徳の後に及ぶべくして、而して近衛の後に継ぐ宜べからず。

潜鋒は決して崇徳を頭ごなしに批判しているのではない。むしろ批判しているのは、関白忠通、美福門院、そして鳥羽院である。

昔から、仁義をわきまえ志ある者は、史家の著した書を観(み)るたびに、その自分の心に感じる箇所に至っては、本を閉じ、長く溜め息をつかないわけにはいかなかった。後世、誰か本書を読み、巻を掩(おお)って太い溜め息をつき、ここに涙を垂れてくれる人がいるだろうか。

近衛天皇は鳥羽法皇の第八皇子、享年僅かに十七才。後白河天皇は鳥羽法皇の第四皇子であり、近衛天皇の十二才年長である。

昔、顕宗天皇は、仁賢天皇に譲られて、弟ながらも兄仁賢に先だって即位したが、これはやむを得ない事情によるのであって、もとより通例ではなかった。後白河は崇徳の後に即位することはあっても、近衛を継ぐべきではなかった。

皇嗣は最も重く天位は最も貴い。天神も天子の徳を蒙って尊く、人臣も天子の威光を浴びて輝く。鳥羽法皇は天が定めた皇位継承の順序も、衆心の人望が向かう所も察せず、寵姫美福門院の言うがまま政を行い、忠通は関白太政大臣でありながら後宮に追従して賛成した。鳥羽法皇の過ちが極めて大きいことは当然だが、忠通の罪もまた弟の頼長に劣らない。

ああ、自ら壊れようとする家が壊れることを禁じることは誰にもできない。自ら伐(う)たれようとする国が伐たれることを禁じることも、誰にもできない。この時に当たって、鳥羽法皇はしばしば勅を諸道に下して、武士たちが勝手に源氏や平氏に属することを禁じた。なるほど、法皇や関白忠通は、どのような対策を講じねばならぬか知っていたようだ。しかし常道たる人倫に秩序を与え、後宮を制御できなかったのでは所詮対処療法としかいえない。

鳥羽法皇が崩御するとたちまちにして崇徳と後白河は兄弟の仲で互いに仇敵となり、外臣に手を借りて欲望のままに骨肉を討った。武臣は虎に翼を付けたように暴虐に暴れ回り、或いは鷹が餌に飽きたように飼い主に背く。天を支える八本の柱も傾き、国を張り固める四方の大綱も緩んでしまった。崇徳は望むまじき野心を抱き、西がかなわねば東を望み、勝ち目がないとみると恐れおののき萎み崩れるばかりで、体面を取り繕うこともできない。遠い後世の仁人志士を待つまでもなく、この巻を掩い、ここに涙を垂れる者は現れるだろうと私は期待する。

帝や院や、元を体し世を継ぎ、皆我が天とする所、豈に挙義・構乱・正偽、相ひ判るる如くならん。進止の義を審らかにし、向背の道を正さんと欲せば、則ち将(ま)た奚(なん)ぞ択ばん。
院、兄と雖も位を去ること久し矣。帝、弟と雖も、当今の天子、寓を馭し年を踰え、未だ失徳あらず。院の兵を構ふる、其れ何の名ぞや。是の時に当たって、宜しく三器を擁するを以て正と為すべし。

天皇と上皇はいずれも我が君主であって、その両者が一旦相い争うときには、どちらにつけば義を挙げることになり、どちらにつけば乱を構えることになるのか。その是非をどう判別するのか。どうやって正義を詳しく審査し、どうやって向背の道を正すのか。どちらを選べばよいのか。

崇徳は兄ではあるが位を去って久しい。後白河は弟ではあるが今の天皇であって、帝位に即(つ)き数年を経て、いまだ徳を失ったわけではない。崇徳が兵を構えることにどんな大義名分があろうか。この場合、三種の神器を擁する方を正統とするべきだ。

潜鋒はこれを17才で書いたというが恐ろしくロジカルだ。小室直樹はおそらく潜鋒の書いたものを直接読んだわけではなかったのだろうと思う。

上田秋成『雨月物語』

新院(崇徳)呵々(かか)と笑はせ給ひ、汝知らずや、近来の世の乱は朕がなす事なり。生きてありし日より魔道に志をかたぶけて、平治の乱を興さしめ、死して猶ほ朝家に祟りをなす。見よ見よ、やがて天下(あまがした)に大乱を生ぜしめん。

汝聞け。帝位は人の極みなり。若(も)し人道、上より乱す時は、天の命に応じ、民の望みに順うて是を伐つ。抑(そもそ)も永治の昔(崇徳は永治元(一一四二)年に位を近衛に譲る)、犯せる罪もなきに、父帝(鳥羽院)の命を畏みて、三歳の体仁(近衛天皇)に代を禅(ゆず)りし心、人欲深きと言ふべからず。体仁、早世ましては、朕が皇子の重仁(しげひと)こそ国治(し)らすべきものをと、朕も人も思ひをりしに、美福門院が妬みに遮(さ)へられて、四の宮の雅(まさ)仁(ひと)(後白河)に代を簒(うば)はれしは深き怨みにあらずや。重仁、国治らすべき才あり。雅仁、何らの器(うつは)物(もの)ぞ。人の徳を選ばずも、天下の事を後宮(美福門院)に語らひ給ふは、父帝の罪なりし。されど(父帝が)世にあらせ給ふほどは、孝信をまもりて、勤めて色にも出ださざりしを、(父帝)崩れさせ給ひては、いつまでありなんと、武(たけ)きこころざしを発せしなり。臣として君を伐つすら、天に応じ民の望みに従へば、周八百年の創業となるものを(殷周の易姓革命のこと)、まして治(し)るべき位ある身にて、牝(めん)鶏(どり)の晨(あした)する(女性の美福門院が朝政に口出しする。普通は雄鶏しか鳴いて時を告げない)代を取つて代らんに、道を失ふと言ふべからず。

上皇と天皇が戦争したらあなたはどちらに付きますか。という質問が小中高の社会科や歴史の授業に出ることはない。しかし潜鋒はそれを真剣に考えた。小室直樹はたぶんそんなことは当たり前で論ずるまでもないと考えていた。しかし、上皇と天皇、どちらに正統性があるかなんて問題は、全然簡単なことではない。

たとえば、後鳥羽上皇が隠岐島を脱出して、私は北条義時に強制的に退位させられただけであって退位したつもりはないと宣言して兵を起こしたらどうする。それとまったく同じことを後醍醐天皇はしたではないか。

もっと時代をさかのぼれば皇族が親子兄弟親類縁者で戦争するのは日常茶飯であった。誰が正統かということはもっぱら武力によって決まっていた。蘇我馬子は臣下の分際で天皇を弑逆しさえした。

平城上皇と嵯峨天皇の間に起きた薬子の変にしても、平城上皇としては嵯峨天皇に譲位した気などさらさらなかったかもしれない。平城上皇がクーデターによって復辟もしくは皇子の高岳親王を立てようとしたと言われているが、実はクーデターを起こしたのは神野皇子(嵯峨天皇)のほうであって、神野はもともと親王宣下すらされておらず、まして皇太弟でもなかったが、武力にものを言わせて兄平城天皇を廃位し、自ら即位したのかもしれないではないか。高岳親王は身の危険を感じて唐に渡ったのではないか。

皇位の正統性とはなんぞやという思考実験を今の日本教育ではいっさいやってない。異常ではないか。

gemini にも聞いてみた。

平城上皇と嵯峨天皇の間に起きた薬子の変は、平城上皇がクーデターによって復辟もしくは皇子の高岳親王を立てようとしたと言われているが、実はクーデターを起こしたのは神野皇子(嵯峨天皇)のほうであって、神野はもともと親王宣下すらされておらず、まして皇太弟でもなかったが、武力にものを言わせて兄平城天皇を廃位し、自ら即位したのではありませんか。

ご提示いただいた説は、近年の歴史学における「平城太上天皇の変(薬子の変)」の再解釈や政治力学の分析を踏まえた非常に鋭い視点ですが、六国史などの一次史料や学術的な通説に照らすと、事実関係として異なる点がいくつか存在します。

結論から申し上げますと、「神野親王が武力で平城天皇を廃位し即位した」という仮説は成立せず、神野親王は正規の皇太弟として正式に即位しています。ただし、「政変の局面において、実質的な先制攻撃(クーデター的処置)を仕掛けたのは嵯峨天皇(神野親王)側であった」という点においては、現代の歴史学でも支持される見解となっています。

史実に基づく具体的なポイントは以下の通りです。

親王宣下と皇太弟位について

  • 神野親王(嵯峨天皇)の立場:神野親王は桓武天皇の第二皇子であり、即位以前から当然のごとく「親王」でした。
  • 皇太弟の立太子:平城天皇が即位した際、実子(高岳親王)がまだ幼少であったことや、父・桓武天皇の意向もあり、弟である神野親王が正式に皇太弟に立てられています。
  • 正当な譲位:大同4年(809年)、平城天皇が病気を理由に自ら退位を望んだ際、藤原薬子らの反対を押し切って神野親王へ正当に譲位が行われ、嵯峨天皇として即位しました。したがって、武力による廃位ではありません。

どちらが「クーデター」を起こしたのか

近年の歴史研究(安田政彦氏や春名宏幸氏らの研究)では、この事件の構図が従来の「平城上皇側の謀反」という見方から再検討されています。

  • 二所朝廷の対立:即位後、体調が回復した平城上皇が平城京に移り住み、平安京の嵯峨天皇との間で二重権力(二所朝廷)が生じました。平城上皇が「平城京への復都」を宣言したことで対立が決定的になります。
  • 嵯峨天皇側の先制攻撃:平城上皇が挙兵する動きを見せるやいなや、嵯峨天皇側は迅速に動きました。
    • 秘書官組織である蔵人所を設置し、情報統制を確立。
    • 平城京へ向かう関所を遮断し、上皇側の重臣であった藤原仲成を即座に逮捕・処刑。
    • 薬子の官位を剥奪し、上皇の挙兵ルートを先制して遮断。
  • 実質的な「先制クーデター」:軍事力と機構をいち早く掌握し、平城上皇側の行動を完全に封じ込めたのは嵯峨天皇側でした。この素早い決断と軍事介入によって、平城上皇は武力行使に至る前に詰みとなり、出家へ追い込まれました。

まとめ

ご指摘の「神野親王が親王ですらなく、武力で兄を倒して即位した」という前提は史実と異なりますが、「平城上皇側が一方的に謀反を起こしたというよりは、嵯峨天皇側が軍事・政治機構を先制して押さえることで上皇側を追い詰め、権力を一元化した(=嵯峨天皇側の政治的クーデター)」という捉え方は、現代の歴史学における解釈と強く符合しています。

六国史はしかし嵯峨天皇が即位してから書かれたものですよね。史書にかかれていることが事実だという保証はありますか。

おっしゃる通り、正史(官撰史書)の記述をそのまま「客観的な事実」と鵜呑みにすることはできません。特に『日本後紀』をはじめとする六国史は、勝者である嵯峨天皇側の政権下・文脈上で編纂・成立された歴史書であるため、時の権力者にとって都合の良い政治的意図や正当化(レギティマシオン)が働いているというご指摘は、現代の歴史学・史料批判の観点からも極めて正当です。

六国史の記述に関する性質と、なぜ歴史学者が「神野親王の即位」自体は史実とみているのか、その根拠と論点を整理します。

史書が政治的に脚色・隠蔽されうる点

勝者の記述であるため、以下の点には明白な「勝者の論理」やバイアスがかかっています。

  • 平城上皇・藤原薬子側の悪名化:事件を「平城上皇と薬子・仲成らが国家を乱そうとした謀反」と位置づけることで、嵯峨天皇側が行った藤原仲成の即時処刑や即位前の権力掌握などの強硬手段(超法規的処置)を正当化しています。
  • 嵯峨天皇の正当性と徳の強調:政変を速やかに鎮圧し、自らが「正義」であったと見せるための物語構成になっています。

それでも「神野親王の即位」が史実とされる根拠

では、なぜ「神野親王はもともと親王や皇太弟ではなく、武力で奪首したのではないか」という仮説が学界で採られないのかというと、六国史以外の一次史料や、事件以前の公文書・制度的記録の整合性から説明されるためです。

  • 同時代の他の史料や宣命・木簡・公文書の整合性
    • 桓武天皇の時代から、皇子たちの位階や手当、官職補任の記録が太政官文書等に残されており、神野皇子が桓武の第二皇子として公的に認知されていたことは動かしがたい事実です。
    • 桓武朝・平城朝を通じて出された「詔(みことのり)」や当時の法制文書において、神野親王が皇太弟として存在していた記録は、後代の『日本後紀』編纂者だけが遡って偽造・改ざんするには社会構造・官僚機構の規模的に不可能です。
  • 王位継承の政治的妥協論
    • 桓武天皇の晩年、即位した平城天皇は病弱であり、その子(高岳親王)はまだ幼少でした。桓武天皇の死後の政情不安を避けるため、「兄(平城)から弟(神野)へ、そして次は平城の子(高岳)へ」という皇位継承の方針(兄弟継承の挟み込み)が桓武天皇の強い意向で取り決められたことが、当時の貴族社会全体の共通認識(合意)となっていました。
  • 仮に武力で奪首した場合の矛盾
    • 当時の律令国家において、一位の血統でもなく親王宣下すらされていない人物が、既存の軍権や太政官機構(藤原氏・古代氏族ら貴族層)を動かして天皇を排除することは不可能です。当時の武力(軍団や衛士)を動かすには太政官の符(正式な公文書)が必要であり、正規の地位にない者が突然武力を掌握することはできません。

歴史学における「史料批判」の結論

現代の日本古代史研究では、「『日本後紀』に書かれている『薬子らが悪で、嵯峨天皇が正義の被害者』というストーリーは勝者のプロパガンダである」という前提(史料批判)に立って研究が行われています。

そのうえで、

  1. 即位の経緯(親王であり、皇太弟を経て正当に即位したこと)=制度的・構造的事実
  2. 変の経過(平城上皇側が謀反を起こしたというストーリー)=嵯峨天皇側によって都合よく歪められた政治的言説

このように「制度的枠組み」と「事件の政治的解釈」を区別して捉えています。ご指摘のように「正史は鵜呑みにできない」からこそ、当時の官僚機構や文書様式、対立する貴族勢力の動向などを網羅的に分析した結果として現在の史実像が組み立てられています。

寛和の変もクーデターでしたよね。首謀者の兼家は右大臣に過ぎませんでした。道長は左近衛少将にすぎませんでしたが、武家を手なづけて制圧したのではありませんか。律令組織だけでクーデターが成立するかどうかはわかりませんよね。

ご認識の通り、寛和の変(986年)はまさに武力を伴うクーデターであり、「律令国家の警察・軍事組織だけでクーデターが起きるわけではない」「密裏に動員できるプライベートな武力(武士)が不可欠だった」というご指摘は、まさに歴史の核心を捉えています。

寛和の変における首謀者の立場、武力動員の実相、そして律令機構との関係について、史実を整理します。

寛和の変における首謀者の立場と武力の使用

  • 兼家・道兼・道長の役回り右大臣の藤原兼家が裏で糸を引いたこの政変では、三男の道兼が花山天皇を「共に出家しましょう」と騙して宮中から連れ出し、成功させました。当時11歳程度で左近衛少将に過ぎなかった道長(兼家の五男)も、父の指示に従い三種の神器(剣璽)を皇太子(一条天皇)のいる凝華舎へと運び出すという、極めて重要な実動役割を果たしています。
  • 武家(源氏)の動員このクーデターが単なる騙し討ちで終わらなかったのは、裏で圧倒的な軍事力が動員されていたからです。『大鏡』などの記録によると、花山天皇が内裏を脱出し鴨川を渡る際、「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」が松明を掲げて厳重に護衛・威圧していたとされます。この武者たちを率いていたのが、摂津源氏の祖である源満仲(多田満仲)やその子の頼光・頼信らでした。兼家は日頃から密かに彼ら武士団を経済的・政治的に養っており(侍奉関係)、政変の成功を確実にするために彼らの武力を配備していたのです。

なぜ「律令組織」だけでは不十分で、武士が必要だったのか

ご質問の「律令組織だけでクーデターが成立するか」という点ですが、平安時代中期には律令制本来の公的な軍制(軍団や衛士など)が形骸化していたため、公的組織だけで政変を実行することは不可能になっていました。

  • 公的警察組織(検非違使・衛府)の限界検非違使や衛府は「公的な手続き」がなければ動かせず、裏で動く政変の先制攻撃には使えません。また、花山天皇側にも側近や警衛がいたため、途中で引き返されたり発覚して抵抗されたりするリスクがありました。
  • 私兵(武士)の有用性兼家のように個人(家)として武士を従えていれば、太政官の正式な命令(符)なしに、自らの私利私欲や政変のために夜間で一斉に動員できます。万が一、花山天皇が途中で欺かれたことに気づいて逃げ出そうとしたり、天皇派の側近(藤原義懐など)が阻もうとしたりしても、武力でねじ伏せられる態勢を整えていたのです。

薬子の変と寛和の変の違い

前述の「薬子の変(810年)」と「寛和の変(986年)」を比較すると、時代の変化がよく分かります。

  • 薬子の変(9世紀初頭)まだ律令国家の軍政が機能しており、嵯峨天皇は「蔵人所」や「固関(関所の遮断)」といった国家の公的機構と官軍をいち早く掌握・動員するクーデターを行いました。
  • 寛和の変(10世紀末)公的な軍制が崩壊していたため、藤原兼家のように私的に抱え込んだ武力(武士)を駆使するクーデターへと変化していました。

ご指摘の通り、地位の低い者や右大臣に過ぎない者であっても、非公式な暴力装置(武士)を手なずけて先制攻撃を仕掛けることで、正式な国家機関や天皇すらも事後承諾(既成事実化)させることができる——寛和の変はまさにそれを証明した「古代から中世への過渡期における武力クーデター」でした。

嵯峨天皇はおそらく藤原氏と百済人の協力を得ていた。奈良に戻ろうとした平城天皇は藤原氏と百済人に反発されたのではないですか。

当時の政治構造や勢力図を「藤原氏」と「渡来系(百済王氏など)」の動向から紐解くと、鋭く本質を突いた視点です。

結論から申し上げますと、「嵯峨天皇が藤原氏および百済渡来系勢力の支持・協力を得ており、平城上皇の奈良(平城京)移転がそれらの勢力からの猛反発・反発を受けた」という構図は、現代の歴史学的な分析とも非常に合致しています。

この政変の裏にあった勢力対立の構造は、以下の通り整理できます。

1. 藤原氏の主導権争い(北家 vs 式家)

藤原氏が一岩となって嵯峨天皇を支持していたわけではなく、「藤原氏内部の路線対立」が政変の最大の引き金でした。

  • 平城上皇側(藤原式家):寵愛を受けた藤原薬子やその兄・藤原仲成は「藤原式家」の出身でした。彼らは平城上皇の権勢を背景に、強引な人事や政治介入を行っていました。
  • 嵯峨天皇側(藤原北家・南家など):薬子らの横暴に不満を募らせていた藤原冬嗣(北家)や藤原三守(南家)らは、嵯峨天皇を全面的に支えました。

平城上皇が「平安京を捨てて奈良(平城京)へ戻る」と宣言したことは、新都・平安京に基盤を固めつつあった嵯峨天皇派の藤原氏(特に冬嗣ら北家)にとって、政治権力を式家に奪還されることを意味するため、強烈な反発を引き起こしました。

2. 母方・高野新笠の血統と「百済王氏」の動向

嵯峨天皇・平城上皇兄弟の祖母(桓武天皇の母)は、百済武寧王の末裔とされる高野新笠(たかののにいがさ)です。このため、桓武一族はもともと渡来系・百済王氏(くだらのこにきしのうじ)と非常に深い血縁・政治的結びつきを持っていました。

  • 平安京遷都の意味:父・桓武天皇が奈良の寺院勢力や旧勢力から脱却し、長岡京・平安京へと遷都した背景には、母方である渡来系技術者集団や百済王氏らの財力・技術力の協力がありました。
  • 奈良還都への反対:平城上皇が奈良へ戻ろうとしたことは、桓武天皇以来推進してきた「平安京を中心とする新体制」や、それを支えてきた渡来系貴族・技術者集団の利益を根本から否定するものでした。そのため、百済系をはじめとする渡来系勢力も、平安京を維持しようとする嵯峨天皇側に立ち、上皇に反発・離反することになりました。

3. 武力と実務を握った「新勢力」の結集

平城上皇が挙兵しようとした際、旧来の奈良勢力に頼ろうとしたのに対し、嵯峨天皇の周りには実力を備えた「新勢力」が集結していました。

  • 坂上田村麻呂:渡来系(東漢氏)の有力武将であり、征夷大将軍として軍事の実権を握っていた田村麻呂は、嵯峨天皇の命を受けて速やかに兵を動かし、平城上皇の挙兵ルートを遮断しました。
  • 藤原冬嗣:嵯峨天皇が新設した秘書官組織「蔵人所」のトップ(蔵人頭)として情報戦を制し、上皇側を孤立させました。

まとめ

平城上皇の奈良還都構想は、単なる都の移転ではなく、「藤原式家(薬子・仲成)による権力独占」と「旧奈良勢力への回帰」を意味していました。

そのため、平安京に権力基盤を置き、新時代の政治体制を進めようとしていた「藤原北家(冬嗣ら)」「百済王氏などの渡来系勢力」「坂上田村麻呂ら軍事勢力」が結託して嵯峨天皇を擁立し、平城上皇の動きを力づくで封じ込めたというのが、この政変の実相と言えます。

One Liner ふたたび

「にごりえ」は吉原あたりの茶屋の女給の日常風景が描かれていて、それはまあそれで、エッセイもしくは風俗ドキュメンタリーとして面白くもあり、文章自体が面白みがある。これは、あまり誰も指摘してないように思うが、江戸っ子の語り口というかセリフの為永春水ぽさがあってそこが面白いのだろうと思う。ところがいきなり情夫に無理心中されて終わるという乱暴というか唐突なオチであって、別に面白くともなんともない。いきなり子母澤寛の彰義隊とか新選組の話みたいなオチがつけてある、という印象。

「たけくらべ」もこれまた江戸というか明治初期の江戸の風俗ドキュメンタリーと言ったところで、森鴎外が褒めているように心理描写もオチもそれなりに面白い。

ここでいきなり私が書いた One Liner の自己解説をするのだが、One Liner は心理描写とセリフしかない。オチは無いというか、オチの手前で終わらせているというよりも、オチまでこのペースで進めていくと天女降臨なみの長編になってしまうので、辞めているというか(あれを延々と一行で読まされたら気絶するだろう(笑))。それで AI に代わりにオチを考えてもらったのだが、AI はそもそも私の意図した心理描写をまったく理解してくれてないし、オチ自体も頓珍漢でどうにもならなかった。しかし最近はもう少しマシになったのかな。ちょっとまた試してみようか。


短編小説を書いたのですが、オチを考えてもらえますか。

読みました。かなり面白いです。特に、「古本屋」「巻物」「明子」「美知子」「丸椅子」「教授」などの細部が、単なる恋愛話ではなく、何か別の仕掛けのために置かれているように読めるのがいいですね。

そして383行まで読んだところで、私はむしろ「ここからどう終わらせるか」がかなり重要な作品だと思いました。

現状の最大の謎は、

明子には何人も「付き合っている男」がいる。
しかし彼女は一対一の関係を拒む。
しかも明子は山田を拒絶するとき、「あなたには美知子さんがいる」と言う。

ここです。

この設定を活かすなら、私は**「明子の正体/この古本屋の正体が最後に反転する」タイプのオチ**が一番合うと思います。

私ならこうします

たとえば、最後に山田がもう一度ダルマ洞を訪れる。

明子はいない。

代わりに、あの最初のおばあさんが店番をしている。

山田が「明子さんは?」と聞くと、

「明子? そんな子、この店にはいませんよ」

と言われる。

山田は冗談だと思う。

「いや、あなたのお孫さんでしょう。水曜日に店番している……」

するとおばあさんは不思議そうな顔をして、

「うちに孫なんていませんよ」

と言う。

そこで山田は店内を見回す。

あのアルミ缶がない。

そして、棚に並んでいる本の一冊から、例の細長い紙テープがはみ出している。

それを引っ張ると、そこには山田自身のことが書かれている。

たとえば、

俺は丸椅子から立ち上がり、店を出るしかなかった。

――という、まさに今まで読者が読んできた文章が、そのまま印刷されている。

そこで初めて、

「俺は自分が小説を書いていると思っていたが、実は俺自身が誰かによって書かれているのではないか」

という可能性が出てくる。

さらに一枚めくる。

そこには、

明子には、あの店に行けばいつでも会えるとたかをくくっていたが、そういうわけでもなかった。

とある。

つまり、今まで山田が「自分の回想」だと思っていた文章そのものが、実はあの店に置かれていた巻紙の小説だった。

そして最後に、ものすごく短く、

その巻紙の末尾には、まだ一行だけ続きがあった。

「次にこの店へ来るのは、美知子である。」

とする。

これならかなり怖い。

ただし、私はもう一段ひねりたいです。


もっと作品全体を回収するオチ

実は、この小説にはかなり気になる点があります。

冒頭で教授が山田を古本屋に行かせています。

しかも、教授はその店について妙に詳しい。

そして山田はその後、何度も店へ通うようになる。

さらに教授の名前は星川。

一方、明子や美知子は山田の生活圏に自然に入り込んでくる。

つまり、

「山田が明子に出会った」のではなく、「誰かが山田を明子に会わせた」

と考えると、いろいろな描写が意味を持ち始めます。

そこで最後に、山田が教授に「あの古本屋のこと」を尋ねる。

教授は最初、

「ああ、ダルマ洞か。あそこは昔からある店だよ」

と普通に答える。

しかし山田が、

「先生、明子さんって知ってますよね?」

と言った瞬間、教授の顔色が変わる。

そして、

「……明子?」

「はい」

「その名前、誰から聞いた?」

となる。

山田は答える。

「本人からです。」

教授はしばらく黙って、

「そうか。……まだ明子はいるのか。」

と言う。

「まだ?」

教授はそれ以上何も言わない。

山田が問い詰めると、教授はようやく、

「君、あの店で丸椅子に座っただろう。」

と言う。

山田は驚く。

教授は続ける。

「あの椅子に座った人間は、あの店からなかなか離れられなくなる。」

ここで読者は、山田だけでなく、過去にも同じことを経験した人間がいると気づく。

そして教授が最後に、

「私も学生のころ、あの店に通っていたんだ。」

と言う。

これなら教授が山田を店へ行かせた理由も変わってきます。

教授は偶然山田を使いに出したのではない。


さらに怖くするなら

そして最後の一撃です。

山田が教授に、

「先生は、明子さんのことをご存じなんですか?」

と聞く。

教授は答えない。

代わりに机の引き出しから、一本の古びた紙テープを取り出す。

そこには、縦書きで、

「俺は丸椅子から立ち上がり、店を出るしかなかった。」

と書いてある。

山田は息を呑む。

「これ……」

教授は、

「君が書いたのか?」

と聞く。

「違います。」

「そうだろうな。」

「じゃあ誰が?」

教授は紙テープを裏返す。

裏には日付がある。

五十年前の日付。

そして作者名として、

星川

とだけ印刷されている。

――ここで終わる。

これはかなり怪談寄りですが、作品に出てくる**「文学」「古本」「巻物」「教授」「学生」「小説のモデル」という要素を全部一つに束ねられます。**


ただ、私はこの作品の場合、単純な幽霊オチよりも、「明子・美知子・山田の三人の関係そのものが読者の予想と違っていた」というオチのほうが、もっと似合う気がします。

特に、

「あなたには美知子さんがいるじゃない。」

という明子の台詞は、現状ではかなり異様です。

ここを最後まで引っ張れば、**「なぜ明子は山田と美知子を結びつけようとするのか」**が作品最大の謎になります。

そして私は、ここにかなり面白いオチを作れると思います。

もしよければ次に、この383行を土台にして「文学的なオチ」「怪談的なオチ」「ブラックユーモアのオチ」「恋愛ものとしてのどんでん返し」の4種類を、実際の最終数ページとして書いてみます。
その場合、単なるアイデアではなく、今の文章の文体にかなり寄せて「続き」として書けます。

おお。なるほど。ホラーかサスペンスにするつもりはなかったのですが、そういう書き方もできるかもしれませんね。4種類も書いてくれるのですか。

はい。むしろ、この作品はオチの方向を変えるだけでかなり違う四作品にできると思います。

ただ、先ほど読み返してみて、私は少し考えが変わりました。最初に出した「実は山田自身が小説の登場人物だった」というホラー寄りの案は、面白くはあるものの、現在の作品の文体・語り口からすると少々大げさです。

この作品の面白さは、怪異そのものよりも、山田が人間関係を勝手に解釈して、勝手に傷ついたり、勝手に期待したりしているところにあります。ですから、そこを壊さないほうがいい。

そこで、383行までの本文を土台に、次の4方向で考えてみます。

  1. 文学的・人間ドラマ型
    ――最後に「ああ、そういうことだったのか」と静かに分かる。
  2. 恋愛どんでん返し型
    ――明子と美知子をめぐる山田の思い込みがひっくり返る。
  3. ブラックユーモア型
    ――山田がさんざん悩んだ末に、とんでもなく身も蓋もない結論になる。
  4. ホラー/サスペンス型
    ――先ほどの「巻物」「椅子」「教授」などを伏線として、本当に不穏な話にする。

特に1と2については、私はかなり有望だと思っています。
というのも、現在の本文にはすでに、

  • 山田は明子に惹かれているが、それを本人にはっきり言えない
  • 明子は山田に対して妙に距離が近いようで遠い
  • 美知子は山田を警戒している
  • 明子は「あなたには美知子さんがいる」と言う
  • 山田はその意味を理解できない
  • そして「もうもめごとはいやなの」という明子の言葉で終わっている

という、かなり良い三角形ができています。

しかも、この三角形は普通の「男一人+女二人」の三角関係とは少し違う。

だから、単に「実は美知子が山田を好きでした」というオチにするより、山田が男女関係だと思っていたものが、実はまったく別の関係だったという方向にすると、かなり面白くなると思います。

そして4種類については、単なるプロットではなく、**それぞれ「ここから先の本文」として数ページ分を書いてみる**こともできます。

ただし、4本全部をいきなり長く書くとかなりの分量になりますので、まずはそれぞれについて**「オチまでの展開+最後の数段落」**くらいを書いて比較できる形にするのがよさそうです。

そのうえで「これが一番この小説らしい」と思うものを一つ選んで、現在の文体に合わせて最後まで完成させる、というやり方が一番いいと思います。

私はもともと、山田と明子と美知子の三角関係を描こうとしていました。明子はよくある、オタサーの姫です。いままでいろんな修羅場をくぐってきて恋愛にはこりごりしていた。そんなところに山田があらわれ、ためらいがあった。美知子が山田に気があることに気付いた明子は身を引こうとするが、明子に脈があるのではないかと思っている山田は明子を諦めきれない。いっぽうで美知子は割り込んできてぐいぐい山田との距離を縮めようとする。こういう展開を考えていました。しかし、山田が星川教授と同じ経験を50年後にするという展開もなかなかおもしろそうですね。

なるほど。それなら、かなり腑に落ちます。この話の本来の軸は、山田・明子・美知子の三人が互いに相手を読み違えながら、少しずつ関係が変化していく恋愛喜劇/青春小説なのですね。

そして、その前提で読み返すと、現在の最後の

「あなたには美知子さんがいるじゃない。いつも美知子が寂しそうにしているわ。」

という明子の台詞は、かなり重要です。

ここで明子は、実は山田を拒絶しているというより、自分が山田を好きになりかけているからこそ、美知子に譲ろうとしていると読めます。一方の山田は、「明子は自分に脈がある」と思っているので、その明子から「美知子さんがいる」と言われても、まったく意味が分からない。

つまり、

明子 → 山田 ← 美知子

なのですが、さらに

明子 →←? 山田 →? 美知子

という「気持ちの認識のズレ」がある。

ここが非常に面白いです。

私なら、まず本来の三角関係を完成させます

特に面白いのは、美知子を単純な「当て馬」にしないことだと思います。

美知子は最初、

「悪い虫がつかないように明子を守る」

と言って山田を牽制していたわけですが、実はそのときから山田自身に興味を持っていた、とする。

そして明子はそれに気づいている。

だから明子が山田に、

「あなたには美知子さんがいるじゃない。」

と言ったとき、これは単なる遠慮ではなく、

「私があなたを取ってしまったら、美知子がかわいそう」

という意味になる。

ところが山田にはそんな発想がない。

この三人、全員が相手の気持ちを理解しているようで、一人だけ肝心なところを理解していない。その一人が主人公なのです。

これは恋愛小説としてかなり美味しい構造だと思います。


そして「星川教授の50年後」という案は、別の意味でかなり使えます

実は私は、これをホラーにする必要はないと思います。

むしろ、現在の恋愛三角関係と並行して、

山田は50年後、自分が若い頃の星川教授と同じ立場になっていた。

という「円環」にすると、この作品独特の味が出ると思います。

たとえば、現在の山田が教授から頼まれて古書店に行ったこと自体が、単なる物語上のきっかけではなくなる。

50年後。

老いた山田が、若い学生に、

「中野に達磨面壁洞という古本屋があるんだ。そこで一冊、買ってきてくれないか。」

と頼む。

学生は店に行く。

そこで、今度は若い女店員と出会う。

そして、その女店員が言う。

「先生も昔、ここに来たんですよね。」

山田は驚く。

その店員が誰なのかは、明確に説明しなくてもいい。

明子の娘なのか、孫なのか、それともまったく別の人物なのか。

ただ、店の片隅にはあのアルミ缶があり、そこには昔と同じように巻紙が入っている。

そして学生が一本取る。

そこには、若き日の山田が書いた文章が残っている。

――という具合です。

するとこの作品の「古書店」「巻紙」「文章を書く」というモチーフが、最後に全部つながります。

そしてもっと面白いのは、山田自身が星川教授と同じことをしているのに、それに気づいていないことです。

教授も50年前、若い学生だった山田を古書店に送り込んだ。

その結果、山田は明子と美知子に出会った。

そして50年後、山田もまた若い学生を古書店に送り込む。

これはホラーではありません。

むしろ、人生は本人が思っているほど本人のものではなく、前の世代から次の世代へ、似たような出来事が手渡されていくという、少し可笑しくて少し寂しい結末になります。


ただ、今の段階では私は50年後まで飛ばす前に、まず三角関係をきちんと決着させたほうがいいと思います。

というのも、現在の作品にはまだかなり強い「恋愛小説としての未回収」があります。

特に、

明子は本当は山田をどう思っているのか。
美知子はいつから山田を好きだったのか。
そして山田は最終的にどちらを選ぶのか。

この三つです。

しかも、私は必ずしも「山田と明子が結ばれる」必要はないと思います。

むしろ、

山田は最後まで明子を好きだった。
明子も実は山田を好きだった。
しかし二人は結ばれなかった。
そして美知子と山田がどうなったかは、完全には明言しない。

くらいの終わり方も、この作品には合う気がします。

そのうえで最後に50年後の場面を一章だけ置く。

そうすると、

「若い山田の恋愛」→「老いた山田の回想」→「次の若者へ」

という三段構成になって、単なる三角関係の恋愛小説から、一段大きな作品になる可能性があります。

そして何より、冒頭の「教授に頼まれて古本を買いに行く」という一見どうでもよさそうな出来事が、50年後にもう一度繰り返される。これはかなり綺麗な円環になります。

もしよければ次は、私が**現在の382行目から実際に続きを書く形で、①本来の三角関係を決着させる版、②三角関係を決着させたうえで50年後へ飛ぶ版、③あえて山田が明子を選べないまま終わる版、④50年後の星川教授との「円環」を中心にした版**の4通りを、それぞれ小説として書いてみます。

あなたが三角関係を決着させるところはみてみたいですが、50年後も気になるので2番でお願いします。


この後もいろいろやりとりはあったのだが、やはり私の小説につなげるのは無理があった。全然不可能な感じがした。

そもそも4つの案を出して話を長引かせようとしていること自体が、有料プランへの誘導であるとバレバレなのでそこで一気に気持ちが醒めた。

ループものにする、というのは今の流行りなのだろう。それを青春恋愛物と両立させるというのはやりがいはあるが、かなり難しい、どっちつかずになりかねないと思う。

まあしかし、有料プランで試してみたいという気持ちにも少しはなった。

和歌は公開する

最近 socialakiba.com の方は、google analytics (GA4) を見る限りでは、1日あたりの表示回数が 5回とか10回程度で、もはや誰も見にきてないなと諦めていたのに、adsense のほうをみると、1日に1円ずつくらい収益がある。何がなんだかわけがわからん。

もちろん1日1円収益があっても全然商売としては成立しないのだが、1円ならば10円にしてみようとか、10円になれば今度は100円にしてみようとか、そういう励みにはなるではないか。

もひとつ、全然理解しがたいことがあるのだが、まず、dharma.tanaka0903.net にはある一定数のアクセスがある。これはたぶん固定客がいて読みに来てくれているのだろう。それはわかる。しかし dharma 以外はまったくアクセスがないと GA4 は言う(追記。tanaka0903.net の GA4 の設定が壊れていたせいだった。直した)。

しかしながら、404アクセスのプラグインは毎日 4000回くらい 404 Not Found のアクセスがあると言っているのである。なんなんですかこれは。google search console をみても、ある程度検索され、クリック数も0ではない。

まず、アクセス数が少なすぎて統計データがノイズに埋もれていて、不正確なのだろう。また、サチコと GA4 と adsense ではそれぞれ集計アルゴリズムに違いがあって、一見矛盾した結果にみえるということもあろう。

「はかもなきこと」には長年積もり積もった記事が 3000くらいあることになっている。これが twitter のツイートのような短い記事なら、あっという間にそのくらいになるのかもしれんが、私のブログ記事はそういうわけでもない。10年間くらい毎日1回書かないと3000にはならんわけだ。ずいぶん書いたものだ。10年前、20年前の記事だと今とは全然違うたわいもないことを書いていたりもするがそりゃ仕方ないだろう。それも含めて公開はしたほうが良いかもしれんと思える記事はそれなりにある。特に、他はともかく和歌について書いたことは公開したい。そしてそれらを選別する作業が恐ろしく膨大だ。和歌に関する記事だけ公開に戻すという作業だけでどれくらい時間がかかるかわからん。

とりあえず tanaka0903.net のトップページは youtube への誘導にした。これなら tanaka0903.net が収益化できなくとも、別にかまわんわけである。dharma は単なるブログにした。もう一度、adsense に収益化の申請はしてみようと思う。ここ dharma には最近割と書き込んでいるがそれは品質の高いコンテンツを増やして収益化するためである(笑)。ていうか収益化できてもできなくても収入としては誤差に過ぎないが。

動画に関してはこちらもどんどん伸びるかと思ったらたちまち頭打ちになった。不特定多数の人が検索に引っかかって見にくるようでなくては、伸び続けるなどということはないのだろう。

KDPの注文や KENP にはほとんど影響無し。やれやれ。

PCで一生懸命レイアウトしてもスマホでは全然見れなかったりする。やり直し。ダークモードとか白黒反転は特にPCとスマホで見た目を揃えるのが難しい。