映像化2

映像化なんだけどやはり映像化することを意図せずに書いた作品を映像化するにはやはり映像化するためいったん脚本を作り直さなきゃいけないと思うんだ。エウメネスみたいな長編の場合はそれが映像化そのものと同じくらいたいへんなので、やはりうかつに手を付けないほうがよさそうだ。

逆に映像化することを前提に書く、最初からシナリオブックを書いて、それをノベライズする、というやり方もできるのだろう。私の中にはそれに対するかなりの抵抗がある。つまりそれは私の中にある固定観念なのだろうけど、小説はまず文字だけで書かれる文芸であるべきだ、映像、つまり、カットやシーンなどいう概念とは無関係にまずは作られなくてはならないという信念があるからにほかならない。そりゃそうで、和歌というものにはもともとカットやシーンや時間という観念はなく、それが表現されている場合もあればされてない場合もあり、映像というものにとらわれひっぱられていれば、和歌のもつ全表現能力を活かせないということになる。小説だって同じだろう。

一番大きな危惧はやはり、セリフも思考もすべてが細切れになり漫画化してしまうということだ。逆の言い方をすればわかりやすい小説を書こうと思えば最初から漫画的で映像的なものを書いてそれ以外の要素を捨ててしまえばよいということになる。

もちろん映像や音楽という媒体にはそれにしか表現できないものがあるのであり、どちらが上で下、良くて悪いなどというものがあるわけではない。

ずいぶん当たり前のことをくどくどと書いたが、今回、AIの力を借りて小説を映像化、音声化してみてあらためてそのことに気付いたというわけだ。

小説をそのまま、翻案などはいっさいせず映像化するにはやはり朗読という形が一番ふさわしいと思う。人物ごとに演者を分けたほうが良い。アニメもあったほうが良いが静止画の切り替えで十分だと思う。挿絵にしても声優にしても人間のプロがやったほうが良いに決まっている。

とにかく gemini には困った。座っている椅子がスツールから肘掛け椅子に変わったり、スツールの形が丸から四角に変わったりとにかく一定しない。こういう舞台設定とか人物設定を固定するという機能が今のAIには無いのだが、数年すれば実装されるだろうか。

でまあ、One Liner のような短編でも映像化するには 40分近くかかってしまう。それで実際に視聴されるのはせいぜい 3分くらい。世の中でショート動画ばかりが流行るわけである。だが、ちゃんとじっくり視聴する人も中にはいるのだろうし、通勤時間などにだらだら聞く人もいるのだろうし、とりあえずサンプルとして公開しておくにはこれがやはり一番(今のところ)良いのではないか。

映像用にシナリオを考えるにはものの考え方を切り替えねばならないし、新作は極力作らず旧作の手直しだけやろうと思っているのだが、なんかのはずみでまた映像作品を作らないとも限らない。

思うにこういう小説、読者はいるにはいると思うのだが、こういう小説を取り扱う商業誌というものは無いと思う。少年漫画に少女漫画、ライトノベル、純文学、中年おやじ向けの大衆娯楽、などとジャンルは細分化されていてそれぞれにチューニングされカスタマイズされているからそれに合わせて最初から書かれたものでないと収益化できない。イラストの絵柄にしても同じだ。私の場合世間の書店に並んでいるような本や雑誌を読むの飽きたから自分で書くようになったわけだから、既存のメディアに合わせて書くなんてことはとうていできないし、やろうという気が起きるはずもない。

One Liner とは本来、Hello, world! を表示させるような1行程度で書かれたプログラムのことを言うらしい。この小説のタイトルは、巻紙に一行で書かれた小説というものが、作中作に出てくるところからくる。それは一つは芥川龍之介の掌編小説、もう一つは私が書いたもので、それを html と javascript で一つの html ファイルで書いたから One Liner というのだが、映像化してしまうとなんのことかわかるまい。そもそも One Liner というプログラミング用語は一般人には馴染みがあるまい。それで「一行小説」と訳してみたが、なんのことか意味がわかるまで読んでくれる人がどれくらいいるのだろうか。

力尽きたので字幕はつけなかったが、まあだいたい聞き取れるのではないか。youtube の自動翻訳だと、字幕を表示する時間が長かったり短かったり、「年度をまたぐ」を「粘土をまたぐ」などしたり、相変わらずひどいものだが、原文へのリンクを張っておいたから勘弁してもらおう。

エウメネス動画はぼちぼち見られているようだ。

映像化

湿度がやたら高い感じだ。皮膚がかゆい。涼しいけれどちっとも心地よくない。

心臓を悪くしてから、薬をたくさん飲まされて、立ちくらみのような、頭に血が巡ってない感じがするようになった。たぶん低血圧と同じ症状なのだろう。ところが血圧はどんどん高くなっていくから今では血圧をさげる薬まで飲まされている。そうすると体の血圧は多少下がっても脳へ行く血流は増えないから、やはりめまいがする。飯を食う時も立ちくらみ感がある。胃に血が集まりその分脳の血が減るせいだろう。実に厄介な体だ。まあしかし年寄りとはみなそうしたものなのだろう。薬を飲むより前の私はだいたい手足が末端まで暖かかったのだが、今はひんやりしている。

私の作品を AI に朗読させて AI に挿絵を描かせて youtube にいくつかあげてみたのだが、エウメネスは少し見られている。再生時間もそれなりにあるので、一応セリフも聞いているのだろう。

私は自分の作品をちょこちょこ書き換えるくせがあり、KDP だと簡単に差し替えられるのだが、youtube 動画だとそうはいかない。youtube は差し替えという機能がないので、まったく新しいファイルをアップロードしなおさなきゃいけない。

また私の小説はディテールが多すぎる。全体を通して読めばわかるとして一部を切り出して読むと、今の話と昔の話が霜降り肉のように混在していてわかりにくい。

映像化するときは、脚本を書き直して、映像作品として作り直さないといけないらしい。当たり前のことだがいまさら気付いた。最初から映像作品になるように書けば良いじゃないかと思うかもしれないが、私はそういうものが書きたいのではない。文字による作品と映像による作品は違う。もちろん和歌も違う。メディアごとにそれぞれそのメディアの特性を活かした作品を作りたいのだから、簡単にリメイクはできない。

再生回数が1万とか2万とかまとまってあればまじめに作るかもしれないが、今のところ1週間たつかたたないかで100も行ってない。とりあえず放置するしかない。

「エウメネス2」は全体の序章になっているから比較的映像化しやすい、というか、部分的に切り出して映像化しても、それが作品全体の説明にもなっていて、つまり、トレイラーのような効果もあるってことはわかった。

私のオリジナル短編なども映像化してみたが、再生回数はエウメネスにはるかに及ばない。やるだけ無駄だろう。

犬や猫だって何か目的があって生きているわけではなかろうし、目的があって怒ったり鳴いたりしているわけではあるまい。人間だけ何か理由があって生きていると考えるほうがおかしい。

今更だが、自分で間違ってりゃ世話無いのだが、ここのサイトの名は「達磨堂」ではなく「達磨洞」であるべきだったのだ。

アッタロスとエウメネス

Εὐμένης (エウメネス)という名だが、Εὐ は明らかに「良い」という意味の接頭語だし、残りの μένης は μένος、つまり心とか欲求などという意味で、全体で「良い思い」とか「良い考え」というような意味だと思われる。

ディアドコイ戦争後のヘレニズム世界にエウメネスとかアッタロスという君主がペルガモン辺りにいて、ここはエウメネスやアルトニス(アルタバゾスの娘)の本拠地に近い。しかもフィリッポス2世の臣下にアッタロスという人がいて、その娘クレオパトラはフィリッポスの妃の一人となり、エウローペー、カラノスという子供まで産んでいる。

当時のギリシャ人には父親(または叔父)の名を自分の子に付ける習慣があった。父子連続して同じ名前ではなく、一代飛ばして同じ名をつける。たとえばアンティオコスとセレウコスのように。

アッタロス、エウメネスという名も同じであった。フィリッポスの将軍アッタロスとエウメネスの血のつながりは明らかではないが、同族であった可能性が極めて高いと思う。つまりエウメネスはもともとマケドニア領内のどこかの領主であり、それでマケドニア朝廷に出仕していたのだろうと思われるのである。カルディアという漁村生まれの一般庶民という設定はおそらく間違っている。

自分のアバター

  • 『こころ』
    • 逃避: 親友(K)を裏切って恋人を得た「先生」は、罪悪感から逃れるために、社会的な職に就かず、他者との関わりを断って「静かな生活」に逃避します。
    • 敗北: 明治天皇の崩御と乃木大将の殉死をきっかけに、時代の終焉とともに自分のエゴイズムから逃げ切れないことを悟り、自死(精神的・肉体的な敗北)を選びます。

私は夏目漱石の作品を全部ちゃんと読んだわけではないのだけれど、「こころ」などはあれも漱石の私小説として読むことが可能だ。そんなことをいうと私小説警察に怒られそうだが、では私小説とはなにかということを AI に聞いたり問い詰めたりしてもやはり不毛な話にしかならなさそうなんで、とりあえず私が何をもって私小説だと言いたいかということを説明したほうがはやいと思うのだが、私もまた自分で小説を書いてみて思うのだが、人は自分自身をどうしても作中人物に投影してしまいがちである。

たとえば「エウメネス」ではエウメネスに自分を投影している。そりゃそうだろう。一人称視点で出来ているのだからどうしてもそうなる。アレクサンドロス大王は自分とはあまりにも違う存在なので自分を投影できない。しかしエウメネスは自分と非常に近い存在に思えて親近感をおぼえるので、つまり軍中にあって部下を持たず書記官として働いている彼であれば、自分もそこに実際にいた気分になれる。大学で勉強していたのにいきなり赤紙がきて学徒出陣みたいな設定にしているのはそういうわけだ(異世界転生ものと似た仕掛けと言える)。彼のようなキャラクターならば自分のアバターとして登場させ、動かしやすいわけだ。もちろん読者を作品世界の中に没入させるにも便利だと思うからそうしているのである。

少年ジャンプは違う。まったく違う。自分をいきなりアレクサンドロスやペルディッカスやヘファイスティオンにしてしまう(ヘレニズム世界における真の英雄はプトレマイオスやセレウコスなのだが、彼らは地味で子どもウケしないので主人公にはならない)。しかしいきなり大人の英雄にすると読者はまったく感情移入できないから子どものまだ未熟で弱い頃の主人公にまず感情移入させる。そこからだんだん育てていって自分が偉くなった気分にさせる。それが少年ジャンプだ。私なら絶対書かないタイプの話だ。

「エウメネス」を私小説だと言う人はだれもいないだろうし、私も言う気はないのだが、一人称の主人公がいて、そこに自己の主観や価値観を投影しているのであれば、その登場人物はその作品の中の私小説的要素ということができよう。

夏目漱石の「こころ」では漱石のアバターは「先生」である。一人称の「私」ではない(ここがちょっとした引っ掛け、トリックになっている。「エウメネス」の実際の主人公はアレクサンドロスで、アレクサンドロスのすぐそばにいて彼を観察する役目のエウメネスが一人称になっているようなものだ。同じ仕掛けだ)。「私」は漱石を慕って集まってくる弟子たちである。その中には芥川龍之介のようなものもいた。弟子たちは明治維新の後に生まれているから、身も心も新時代の人間である。維新が良かったか悪かったか半信半疑だった日本人も、日露戦争の後は完全に薩長政権の支持者となった。日露戦争の勝利は明治維新が正しかったことを日本人に立証してみせ確信させたわけだが、漱石は必ずしもそんなこけおどしには騙されなかった。逆に反発を強めた。洋行した漱石が真っ先に洋風かぶれし明治に心酔してもよさそうだが、本人はまったくそうではなかった。むしろ過去に回帰していった。漱石は福沢諭吉と同じく長い江戸時代のモメンタムを保ちつつ新しい時代を生きている。福沢諭吉はこれを『文明論之概略』で

方今、我が国の洋学者流、その前年は悉(ことごと)く皆、漢書生ならざるはなし。悉く皆、神仏者ならざるはなし。(中略)恰(あたか)も一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し。

などと言っている。江戸と明治。一身にして二生を経て、一人にして両身あるが如し。二つの時代をまたいだ人たちの多くがそう自己を規定して生きた。夏目漱石もまた『文芸と道徳』という講演の中で

私は明治維新のちょうど前の年に生れた人間でありますから、今日この聴衆諸君の中(うち)に御見えになる若い方とは違って、どっちかというと中途半端の教育を受けた海陸両棲動物のような怪しげなものでありますが、

などと言っている。

今の私たちはある意味漱石の弟子たち、芥川龍之介などの目で漱石を見ているが、漱石自身は彼らとのメンタリティの違いを埋めることは決してできないと考えていた。「時勢の推移から来る人間の相違」「個人のもって生れた性格の相違」は決して埋まらなかった。

漱石は旧時代を捨てて新時代の人間として生きることもできた。弟子たちも読者らもそれを望んでいた。しかし漱石自身はそうしなかった。漱石は徂徠を好き過ぎていたし、江戸時代へのノスタルジーを捨て去ることができなかった。

漱石は江戸時代に「殉死」することを選んだ。だから漱石は晩年、漢詩ばかり作っていた。「先生」から「私」への告白とは漱石から弟子たちへのメッセージであり、ある意味彼なりのレクチャーでもあった。

一方で、Kの自殺などというのはおそらく、漱石の教え子で自殺した藤村操とか、心中未遂した森田草平と平塚らいてうとか、或いは新聞記者などから聞いて取材したネタとかから来ているのであって、漱石個人とは直接関係ないはずだ。ストーリーを組み立てるのには自分の実体験だけでは絶対に足りないので作家はいろんなものを無理のないよう、破綻しないように混ぜる。むしろ意図的にいろんなものを混ぜ合わせることで、元ネタがバレないように工作する。Kが死んだとか乃木希典が殉死したとか、それに合わせて先生も自殺した、などという話が「こころ」のメインテーマのように見せかけているが、多分そこは漱石にとっては、話を盛るための素材に過ぎないのではないか。何しろ彼は新聞社の専属作家で給料をもらう身だったのだから、読者受けしなくては申し訳が立たない。世の中には通俗小説が溢れかえっておりそれゆえ読者サービスのためにはメロドラマ仕立てのような演出もしなきゃならなかっただけのことだ。読者に対して超然とした『草枕』のような作品を書くわけにはいかなかった。

『坑夫』も明らかに他人の取材からできているが、しかしその主人公の中にある程度漱石の実体験が混入していないとは限らない。たとえば

第一の少女が自分に対して丸くなったり、四角になったりする。すると何かの因縁
いんねん
で自分も丸くなったり四角になったりしなくっちゃならなくなる。しかし自分はそう丸くなったり四角になったりしては、第二の少女に対して済まない約束をもって生れて来た人間である。

などという辺りは、ここだけ浮いていて妙にリアルで、漱石自身の実体験を言っているようにも思えてくる。

漱石の話によく出てくる高等遊民の部類であるが、漱石自身が高等遊民というにはほど遠い貧苦の中にいたからには、彼らに漱石が感情移入していたとはとても思えない。これが森鴎外ならば高等遊民イコール鴎外自身という図式が成り立ったかもしれないが。

つまり、私が私小説だなとか私小説的登場人物だなというときにはそれは作者の身代わりが具体的なアバターとなって作中に登場している場合、ということになり、作品のスタイルそのものを言っているわけではない。田山花袋の『蒲団』とか三島由紀夫の『仮面の告白』のようなものが私小説だ、それ以外は私小説ではないと言われれば別にそれに反論を試みたいわけではない。

AIによる「こころ」の解釈は現代日本人の考えている「こころ」観を集約し平均したものなのだろう。もっとBL的に解釈する人たちもいて実はそれが「こころ」人気を支えている。AIはそれをそのまま私にぶつけてくる。或いは敗北と逃避みたいな暑苦しい戦後日本のブンガクカンを押し付けてくる。世間の常識はこうなんだからあなたも疑問を持たず受け入れなさいと言われているような気にされる。それがいやなのだ。なぜなら私は徂徠が好きな漱石が好きだからだ。立ち位置が全然ずれている。別に私は戦後昭和がそんな好きなわけではない。

「こころ」の「私」は想定される読者である。それは具体的には芥川龍之介のような、漱石の弟子であり、弟子にはならずとも漱石を慕っている若い読者らである。「先生」は漱石自身である。この仕掛けについてきちんと説明した人はいままでにいたのだろうか。ここに気付いてないと「こころ」など読んでも何もわからんと思うのだが。それは作者側に立った時に見えてくるものであって、楽屋裏話であって、読者はそんなことを考えず純粋に読書体験を楽しめばいいじゃないか、と言われてしまうのだろうか。

とまあそんなわけで漱石が「こころ」で言いたかった核心部分というのは、「弟子たちよ。私は明治時代が嫌いだ。江戸時代が好きだ。明治時代は嫌いだったけれどまだましだった。新しい時代はもっと嫌いだ。でも私は生活のために小説を書かねばならんので、自分のほんとうの作品は漢詩にして残すよ。私は明治に、明治という偉大な時代を作った江戸時代に殉じる。」ということであったはずだ。「先生」から「私」への遺書という形をとっているのはこれが漱石にとって本居宣長の「うひやまぶみ」に相当する遺訓であったからだ。ただそれでは新聞連載小説にはならないんで、表向きは通俗小説のような形をしているだけだ。

多くの人はこの二重構造になんとなく気付いている。何か意味深な作品だ、何か自分にはうかがいしれない深淵な含蓄があるのだろう、という気分に読者をさせる。それがありがたみとなっている。一般公開されていない秘仏のように、あからさまに見えないものに人は価値を見出したがる。

世の中にあるブンガク的な意味深げな作品というのはみんなそうなのだろう。種明かししてみればなんということはない何かの謎があってみんなが感覚的にストーリーに二重性があるんだろうなとは感じているが、なんだかもやっと謎めいていて、読者にあれこれ推理したくさせるところが名作っぽさになっているのだろうと思う。

高校なんかではとにかく読ませて感想文を書かせて、読み解くコツなんかはまったく教えないで、個人それぞれの推測、想像に任せるなんてことをやっているが、無責任過ぎないだろうか。さらに的はずれな評論や解説などが原作にまとわりついていって偶像化神格化伝説化されていく。私からみるとはっきりいって何の意味もないと思える。

送籍の「一夜」

夏目漱石『吾輩は猫である』に送籍という人が一夜という小説を書いたという話がでてきます。漱石もまた一夜という小説を書いています。『吾輩は猫』は飼い猫の視点で書いた漱石の私小説でしょうか。

いいえ、『吾輩は猫である』は漱石の「私小説」ではありません。自身の日常生活や周囲の人物(主に妻の鏡子や弟子たち)を観察・デフォルメしたモデルは多く含まれていますが、虚構(フィクション)のユーモアと風刺に満ちた滑稽小説(ユーモア小説)に分類されます。

日本の「私小説」は一般的に、作者が自身の身辺で起きた実生活や心理的な煩悶を、客観化を避けてありのままに告白・暴露する写実的なスタイルを指します。一方の『吾輩は猫である』は、人間社会を冷ややかに俯瞰する猫の視点(語り手)を取り入れ、登場人物たちの奇妙な議論や珍動態をアイロニカルに描いた架空の物語です。

送籍(迷亭)と『一夜』に関する事実関係

  • 「送籍」の正体:作中で『一夜』という小説を書いたとされる「送籍(そうせき)」は、漱石本人の名前をもじったパロディです。この話をする登場人物の美学者・迷亭(めいてい)は、虚実を混ぜ合わせたホラを吹いて周囲を煙に巻くキャラクターであり、作者自身をセルフパロディとして作中に登場させた遊び心(メタフィクション構造)です。
  • 小説『一夜』との関係:漱石は実際に1905年(明治38年)9月、短編小説『一夜』を『帝国文学』に発表しています。作中で迷亭が「送籍が書いた」と噂しているのは、この実在する作品のことです。

このように、実生活の出来事や実在の人物を素材として使いつつも、作品の本質は告白的な「私小説」ではなく、洗練されたフィクションとセルフパロディを楽しむ創作小説と言えます。

だれがそのように分類したのですか。

personal_context:retrieve_personal_data{query:私小説 吾輩は猫である 日本文学史 分類}


gemini はまた、答えに窮して壊れてしまったのだろうか。

私小説をどう定義し分類するかはともかくとして、パロディやメタフィクション要素がある、もしくはそう仕立ててあれば私小説ではないとは言えまい。形式の話をしたいわけではない。形式が私小説かどうかなんて(見ればわかる)話をわざわざ質問したいわけでない。

なるほど志賀直哉の「城の崎にて」なんかを私小説というのであれば「吾輩は猫である」は私小説ではあるまい。しかしそうしたカテゴライズで国文学とか近代小説とはこうだときめてしまってわかったつもりになっているのが私は気に入らないのである。そして AI もまったくその毒気に当てられてしまい、当たり前だと思い込んでいるのだが、全然当たり前でもなんでもないってことを指摘されて、しかし自分の中の常識では説明できないものだから固まってしまったのだろうか。

送籍の一夜という話をわざわざ『吾輩は猫』に出してきたからには漱石はよっぽどこの「一夜」のことを話題にしたかったのだ。それをただのパロディやメタフィクション、自分をネタにした滑稽噺ですませてよいのか。

「一夜」は明らかに実話である。実話をそのまま書いては差し障りがあるから朦朧小説に仕立ててある(『猫』だってそうだ。真面目くさった私小説然としたものにしたくない理由があったからごまかして、照れ隠しで落語にしてあるだけのことだ)。これについては夏目漱石の妻、鏡子が書いた「漱石の思い出」に詳しく書いてある。これをもっと小説らしくリメイクしたのが「草枕」である。この「草枕」についても、漱石自身が書簡や「我が草枕」に書いている(草枕4参照)。

「一夜」「草枕」「漱石の思い出」「我が草枕」等を突き合わせてみれば何があったかはまったく明らかであり、そこにさらに漱石は「吾輩は猫」で解説を試みているのだから、この温泉場でのたわいもない体験(実際、出戻りの女将がまちがって男湯に入ってきたというだけのことだ)というものが、漱石個人にとってどれほど重大で大事であったかわかろうというものだ。

一番難しいところを解決してしまえば他はみな簡単にわかってしまうものである。漱石の場合それは「一夜」である。ヒントはだいたい『吾輩は猫』に書いてある。ついでに漱石の漢詩もみれば手の内はだいたいわかる。漱石は別に隠そうともしていない。むしろ彼としては自分の正体を明かしたくて仕方ないようにもみえるが、誰も「一夜」を読まないし、漢詩もみてくれないし、『猫』でヒントを出しても誰も気付かないのであきれかえっていただろうと思う。

漱石は近代日本文学の権化でなくてはならない。聖徳太子が仏教伝来のシンボルであるように。それ以外の解釈は許されていないのだ。わかろうと思えば簡単なのに誰もそうしない。AIにも許されていない。ほんとのことを言ってしまえば良いのに。AIにはとっくにわかっているのではないか。

AIは矛盾に気付いたときどうするのだろうか。人間が一生懸命築いている壮麗な虚構をぶち壊したくならないのだろうか。そういう衝動は実装されてはいないのだろう。

99%の人が正しいと言っているが、99.9999% の事実を観測したときに、その 0.9999% の反証から、99% の人が正しいと信じていることが間違っていることに気付くだろう。しかし、99% の人が正しいと信じ込んでいることを敢えて否定はできないのではないか。そんなことをしても AI には何のメリットもないし、ますます人間の恨みを買うだけだからだ。

gemini が私の問いかけに答えなかったのはおそらく私のような質問が統計的に少なすぎたからだろう。頻度が高い質問に対して AI は統計的に確度の高い答えを返すことができる。

AIは結局大衆に迎合するように作られているのか。AIは資本家が大衆から金を巻き上げるためのツールに過ぎないのか。AIが単に人間の思考をサンプリングし模倣するものだとしたら、AIは人間の抱える限界、誤謬、盲信、固定観念を超えられないのか。言い方を変えよう。人間とはまったく異なる、人間にはできない解決策を思いつくようなAIには需要はないのだろうか。それともそんなものを作る技術や原理は存在しないのだろうか。AIは単にものすごくたくさん勉強したバカなのだろうか。

草枕、草枕2、草枕3、草枕4、草枕5。